おじいちゃんの箱に入っていたリアル・パンク

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おじいちゃんの箱に入っていたリアル・パンク

「亡くなった祖父宅の物置を整理していたら、偶然出て来た古いアルバム。そこには私が知るよしもなかった若かりし祖父の笑顔が映っていた。思わず涙が出た」…なんて感じのイイ話。おじいちゃん、パンクスだったのね!!

「亡くなった祖父宅の物置を整理していたら、偶然出て来た古いアルバム。そこには私が知るよしもなかった若かりし祖父の笑顔が映っていた。思わず涙が出た」…なんて感じのイイ話。あ、このおじいちゃんはまだご存命でした!「オレが若けぇ頃はよぉ~」なんて赤提灯で管巻いてるジイさんたちも、本当に若けぇ頃はアレコレやってたんでしょうね。このときこそが人生のピークだとは思いたくないけど、間違いなく輝いていた頃のおはなし、おはなしー。

70年代後半、カリフォルニア芸術大学でビジュアルアートを専攻していたジョン・ロバーツは、暇な時間に、ベイエリアで正に花開いていたパンクシーンを撮影していた。ストリート、ポートレイト、コンサートなどをとらえた彼の写真からは、ヒッピー・ムーブメントとエイズ恐慌の間にあった街の様子が、彼独自の視点で伝わってくる。ロバーツの最高の作品は、ザ・デフ・クラブという名のバレンシア・ストリートにある小さなパンククラブで撮影されたショット。ザ・デフ・クラブは、1978年から1980年にかけてハードコアなショーを開催していた場所で、元々は聴覚障害者のコミュニティセンターだった。それらのショーは、だらしなくて、汗だくで、まったくもって奇妙なものだった。ロバーツは、それを完璧にフィルムに納めていたのだ。

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4年生の時、アートショーに出展した直後、ロバーツは車を盗まれ、多くの写真を紛失してしまった。2年ほどニューヨークで活動したが、のち彼は写真家としてのキャリアを断念する。

2000年、ロバーツは腎細胞ガンと診断された。4年ほど前に、ガンは腎臓から結腸と膵臓に移転したが、エンド・オブ・ライフケアに移行したのは、診断から15年近くたった1月のことだった。

症状の悪化を受けて、息子ウィリーは、昨年夏にロバーツの家に引っ越した。家を整理しているうちに、父と子は古いネガの入った箱を発見した。ふたりはウィリーの友人、イノッシュ・ベーカーに、未現像の写真について相談し、ベーカーは地元のアーティスト、ショーン・ブラニザンに連絡した。ベーカーとブラニザンは13,000近いネガの中から好きなものを現像し、それをロバーツに送っている。その結果ロバーツは、30年以上ぶりに撮ったことすら忘れていた写真を目にすることになったのだ。

バークレーにある彼の家で、写真のこと、サンフランシスコのパンクシーン、長い時間を経て自分のアートを再発見したのがどんな気分か、といったことを聞けることになった。

Photos by John Roberts.

そもそも、どうして写真に魅かれたのですか?

1964年と65年に、ニューヨークでワールドフェアがあったんです。ワタシはそこで、写真撮影を楽しんだんです。翌年、ポラロイドがスウィンガーっていうカメラを発売しましてねぇ。撮ったその場で写真を見ることが出来る白のプラスチックのカメラです。あれは最高にクールでしたよ。写真がカメラの前の部分から出てきて、しばらくそれを握っていると、少しずつ絵が出てくるんですから。あれはすごかったんですよ。それ以来、ワタシは家族の写真係になったんですよ。

ザ・デフ・クラブのことはどうやって知ったのですか?

音楽はワタシの人生にとって、凄く重要なんです。ワタシの青春時代に、グレイトフル・デッドをはじめとするサンフランシスコ生まれの音楽が花開いたんですよ。でも、70年代後半になると枯れてしまうんですが、入れ替わるように、イギリスからエキサイティングな音楽がやって来たわけです。

ラッシュやイエスみたいな、とても長くてジャズ風の音楽とは全く逆でしたよ。2分位の間に素晴らしいエネルギーを持った音楽が出てきたんだすから。ひとつの歌が終わるとすぐに、倍くらいのエネルギーに溢れた歌が続くんだからねぇ。びっくりしましたよ。

79年のサンフランシスコは、そんな音楽が正に生まれようとしていたんです。本当に革命的でエキサイティングだったんですよ。デフ・クラブは、ワタシの大学じゃ、有名でした。聴覚障害者のための公共施設が、最もうるさくてめちゃくちゃなバンドに場所を貸し出すなんて、とんでもなくエキサイティングですよねぇ。聴覚障害者は、どんなにうるさかろうが、ハチャメチャなバンドの音楽が聞こえない、というのがいいですね。ワタシらにとっては、バンドのブッキングをする上で、とても安いスペースだという利点もあったのです。

当時のサンフランシスコには、大してお金もかけずに芸術を創造できる若者が、たくさんいたのですよ。バンドもサンフランシスコの街中にいた。中にはアバンギャルドなものもありましたねぇ。タキシードムーン。オルガンとドラムに合わせてテナーのクラリネットを演奏するんだけど、そもそも4拍子じゃなかったんですから。アバンギャルドなジャズというか、ジョン・ケージみたいな音楽だったんですよ。そういったものすごく極端なものがあるかと思えば、デッド・ケネディーズみたいな真っ当なパンクもいましたから。

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イギー・ポップの写真について教えて頂けますか?

あの写真ねぇ。あの手の演奏を聞ける場所は2カ所ありましたね。ひとつは、ダーク・ダークセンが経営するマブハイ・ガーデンズ。彼はビル・グレアムみたいなタイプの男…つまり金儲けをしようとしている年配の男でした。イギーはあそこでパフォーマンスをしていたと思います。デフ・クラブは、彼にとっては少し小さすぎました。

ザ・デフ・クラブの日常的な夜というのは、どんな感じだったのでしょうか?

ファッション的には二つのタイプがあったと思います。まずは、ザ・ラモーンズに影響を受けた真っ当なパンク・スタイル。レザーをたくさん着て、ベルトからヒップにたくさんチェーンを巻いてる。女性は髪を逆立て、いろんな色を使ったヘヴィ・メイクをしていましたねぇ。もうひとつは、ザ・トーキング・ヘッズ風のスタイル。ちょっと知的な人たちですよ。あと普通の大学生も来ていました。更に週末になると郊外から若者がやって来ましたけれど、野郎どもは雰囲気が違いましたねぇ。ワタシらはヤツらをクラブの後ろに押しやってやりましたよ。

ショーには、聴覚障害をもった人々も来ていたのでしょうか?

彼らはバーで働いていたり、後ろでビールを飲んでいたりしていました。聴覚障害をもっている印として「B」の文字を付けていた。みんなそれで分かるから、ビールのため1ドルあげたりしたもんですわ。

卒業後、あなたは何をしていたのですか?

ハンプシャー大学に戻って卒業したあと、ニューヨークで写真の仕事をしようとしましたが、とても大変でしたねぇ。芸術の世界で経済的に成功を手にすることなんざぁ、ワタシには出来ませんでしたし、ファッションや商業的な写真手に手を出す気にもなれませんでしたから、家業に携わることにしましたよ。写真は仕事ではなく、趣味にすることにしたんです。

写真を離れるのは辛かったですか?

はい、それはそれは。でもニューヨークは、ものすごくお金のかかる街ですねぇ。それに、アーティストというのはとてつもなく本気で、それを愛して愛して、他のことはすべて諦めるくらいじゃないといけないことも学びましたよ。ワタシはそこまでの犠牲を払えませんでしたねぇ。ワタシは自分を本当に見つめてみたんですよ。夢を追いかけることは大事ですけれど、ワタシの本当の夢は家族をもつことだったんですね。

再びカメラを手にしましたが、それはガンの宣告を受けたことと関係ありますか?

そうですね。学生時代に初めて写真に興味をもったのも、ワタシにとって、世界を視覚化する手段だったワケですよ。ガンと診断されてからは、正しいライティングと同じくらい、作品に意味を持たせることを重視するようになりましたねぇ。ワタシの家族の記録を撮っているのだ、ということも意識しますねぇ。彼らは嫌がりましたが、自分が逝ってしまった後も彼らの元に残るよう、ワタシは彼らの子供時代を記録し続けたかったんです。

ウィリーとイノッシュが多数のネガを発見したとき、どう思いましたか?

最初は「なんてこった!何が写っているかわかったもんじゃない。この歳で生恥かくなんて」と思いましたわ。

なんらかの理由でワタシはネガを捨てなかったんですね。どうしてなのかワタシにも分かりません。暗室作業なんてものはやらないし、デジタルカメラが出て来てからは、そっちの方がずっとずっと簡単なモノですから。でも残っていたのですよ! イノッシュに、写真を見たい、と言われたのは嬉しかったですねぇ。光栄でしたし、興奮しました。昔の写真を見ることなんてないだろう、と思っていましたから。

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あなたの写真は、サンフランシスコの奇妙な瞬間を見事にとらえていると思います。ストリート写真には古い街の風景が写されていますし、また、パンクの写真はそれとはまったく違うものです。サンフランシスコの若い部分と古い部分が交錯する様子をとらえるのは、あなたの目的だったのでしょうか?

あれは、AIDSの前の時代のサンフランシスコでね。ジョージ・モスコーン市長が既に銃たれていたはずです。ジョン・レノンが銃たれたのと同じ頃ですよ。でも、まだ、すべてにおいて自由な雰囲気がありましたねぇ。写真を撮られることも人は気にしていなかった。

お兄さんが見た写真は、いわば偶然で瞬間的な出会い。そのときにしか撮れないもの。そこからワタシらはそれぞれ違う場所、違う方向に向かってしまうのだからね。音楽の撮影をするときは、いつも最前列で、ワタシが体験しつつ、カメラに納めることを意識していたもんですわ。だから、大きくて上等なカメラでなく、出来る限り小さいカメラを使ったんですよ。レンズがどこまで拡大できるか熟知していたので、ワタシはファインダーをほとんど覗かずに撮影できましたよ。撮影している間にも、ダンスをして、他人に肘をぶつけて、よろけさせたりしていたものです。あれは楽しかったですよ。

あなたがサンフランシスコにいた期間は限られていましたが、それはたまたまザ・デフ・クラブがオープンした短い時期と重なっていたわけですね。その瞬間にサンフランシスコにいたということには、どんな意味がありますか? 当時のシーンを人々が覚えていることは、どれくらい重要なのでしょうか?

音楽はコミュニティを創造しますね。あれは、お金のない若い人たちが集まり、アイデンティティと仲間を見つけ、お互いにコネクトすることが出来る特別な時代だったんですよ。ワタシらはショーのたびに顔を合わせ、みんながみんなと繋がっていったんです。

サンフランシスコでワタシらがやっていたことは、ロサンゼルスで起こっていることよりも商業的でないことくらい、ワタシらは分かっていましたね。もっと自然だったのです。個性的な人たちが作る個性的な音楽で、自分たちは特別な場所、特別な時間にいるのだ、と実感していました。ワタシは運良く、居合わせ、記録できただけですから。そして皆んなが、ワタシがそうするのを許してくれたこと、とても幸運に思いますねぇ。