道端で1円を拾ったらどうするか? 警察に届ける。ポケットに入れる。見て見ぬ振りをする。コンビニの募金箱に入れる。石ころのように蹴飛ばす。指で曲がるか試してみる。マッキーで塗りつぶしてみる。飲み込んでみる。友達にあげる……。ざっと思いあたる行動&思考パターンはこんなものではないか。しかし、そんな凡人の発想とは全く異なるが、「あっそうするのね」的な、些細なアイディア、しかし決して偉くも高尚でもない、くだらないアイディアを駆使して人生を送る人もいる。

HOT FUDGE。シルクスクリーンというメディアを駆使し、身の回りにある、たわいのない物事を作品のソースとするアーティストがいる。特別メッセージがあるわけでも、圧倒的な技術があるわけでもない。ただ、そこには、ほんのちょっとだけ異なる何かが見え隠れする。そんなHOT FUDGEの作品とインタビューを紹介。

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まずは生い立ちを教えてください。

僕は東京都八王子市の出身で、1960年代生まれです。子供の頃は、洋画が好きで日曜洋画劇場とかで、いわゆるアメリカン・ニューシネマの『イージーライダー』とか『卒業』とか、あの辺は子供心に衝撃を受けました。その後、中学に入り写真に興味を持って撮りだしたんです。うちの兄貴が自動車のレースが好きで富士スピードウェイに見に行っていたので、ついて行ってたんです。そしたら兄貴の友だちがレースの写真を撮ってたんです。それで、いいな、楽しそうだな、と思って。親父にねだってカメラを買ってもらって。それで写真を撮り出したんです。

車を撮ることにしか興味がなかったんですか?

そのときはそうですね。車の雑誌に自分がうまく撮れたと思った写真を投稿してました。あの華やかな感じとかに憧れていたんだと思います。当時、東京の西の方は暴走族の人が多くて、土曜日の夜になると近所のお兄さんがみんな出かけてくみたいな。なんか、僕の場合は、それのもうちょっと延長線上にカーレースがあったという感覚だったと思うんですけどね。

高校生になるとどうなるんですか?

次は何となく、その頃流行ってたサーフィンやりてえなと思って。それで高3のとき、初めてサーフィンしに行ったんです。友だちの兄貴が汚ねえボードを持ってて、それ一本持って3人で訳もわからず。ちょうど車の免許を持ってるやつがいたんで、スエヒロ前、今の湘洋中学のあたりの海に行きました。それで翌年大学に入って、本格的にサーフィンを始めてって感じですね。ほとんどの人がそうだと思うんですけど、女の子にモテたいとか、ただそれだけなんですけどね。

70年代当時、日本ではサーフィン文化が、どの程度根付いていたんですか?

当時の日本にサーフィンの文化が入ってきたのは、おそらく横須賀の兵隊さんが60年代の中盤とかにロングボードを持ってきて、湘南でやり始めたのが最初だと思います。やっぱり60年代、70年代前半までは、それこそお金持ちの息子さんのスポーツだったんですけど、70年代中盤以降、それが庶民の子供でもできる位になってきたんです。それで僕も始めて。映画の『ビッグ・ウェンズデー』もちょうどやってましたね。79年に日本で公開された映画なので、もちろん見ましたね。

ではカリフォルニアのサーフシーンに影響されていくのですか?

当時、日本のサーフィン雑誌が何誌かあったんですけれど、その頃は、あまりカリフォルニアのシーンって紹介してなかったんですよ。どっちかっていうとハワイとかオーストラリアとか、日本国内を追っかけるみたいな感じだったんで。今みたいにインターネットがないので、僕たちガキはそういう雑誌を読むしかなかったんです。だからカルフォルニアの影響はその当時は受けてなかったです。もちろん店によっては、すごく強い影響を受けているところがあったので、その店に行ってる子たちはカリフォルニアだったと思います。当時は出入りしてるサーフショップの色で、影響されるものが変わったんじゃないですかね?

では音楽とか洋服とか他のカルチャーやアートは、どういうものに影響されていたのですか?

何だろう。大学時代は結構どっぷりサーフィンに行ってましたからね。だから、どこでもビーサンだったし。その延長で確か83年位だったと思いますが、通ってたお店の人にインドネシアのサーフトリップに誘われたんです。3週間行くって言われて、そのとき初めて海外に行きました。3週間、長えなあと思いながらも、半年位バイトしてお金を作って、それでインドネシア、今で言うバリ島に行ったんです。その時のショックは大きかったですね。多分あのサーフトリップに行かなかったら、ここまでサーフィンにのめり込んでいなかったですね。

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バリ島へのトリップで、何でそこまで影響を受けたのですか?

当時のサーファーが求めてるものが全てあったんです。良い波があって、海は空いてて。あと波以外の余計なものがない。何だろう、バリの人って皆フレンドリーなんですよ。インドネシアってイスラム教なんですけど、バリ島だけヒンドゥー教なんです。だから割とウェルカムというか。当時泊まってた場所の影響も大きくて、他の国のサーファーの人たちも割とそのエリアに泊まってたんですけど、クタっていう今では大きくなったんですけど、本当に小さい村だったんです。泊まったところに電気がないようなところで、夜海から帰るとロスメンっていう小さいコテージの入り口に、そこのオーナーの人がランプに火を入れて置いてくれるんですけど、それくらい何もない場所で。だから、海の目の前ではないんですけど、朝起きると、波の音が聞こえるんですよね。ザザザザッダーン、ザザザザッダーンって。何日かすると、その音がすごい大きいときがあって、今日は波がでかいぞって、要するにオーバーヘッドのサイズだぞってわかるんです。それで朝起きてなんとなく緊張するみたいな。そんな感じで、ただただ毎日サーフィンしてました。一緒に行ったお店の人は27、8歳くらいで、当時僕のイメージだと27、8歳だと会社に勤めてるのが当たり前なんですが、そうじゃない人たちがたくさんいるわけですよ。

毎日仕事をしていない大人がいるってことを知るってことですよね?

あとバリに行くと、他の国の大人がいっぱい来てたり、住みついてる人もたくさん居たり。アメリカ人のヒッピーで、最後にバリ島に辿り着いて住んじゃってる人とかいて、そういう人たちがレストランをやってたりするんです。子供の頃映画で観ていたことが本当に起こっていたことが衝撃でしたね。

その頃のスターのサーファーとかいたんですか?

僕にとってはピーター・マッケイブっていうオーストラリアのサーファーです。その人はオーストラリアの人なんですけどインドネシアの良い波を滑りまくるみたいな人で。例えばバリが人気が出てきちゃうと、よその島をどんどんどんどん新しい波を探して滑りに行ってた人なんですよ。ジェリー・ロペスっていうすごい有名なサーファーがいるんですけど、ジェリー・ロペスさんとピーターさんはいつもインドネシアで一緒に周ってサーフィンしてたんです。ただジェリーさんの方が有名でフィーチャーされるんですけど、ピーターさんは裏番的なところで。生き様もすごい破天荒な感じでしたね。

そんな影響もあり、インドネシアのサーフトリップに行ったということですね。ではそのトリップのあと、日本に帰ってプロを目指そうと思ったんですか?

当時日本のサーフィンの賞金王が年間稼いだお金が70万円とかそういう世界でしたから、皆、それだけじゃ食べていけないんで、国鉄の職員でプロサーファーの人とか、市役所の社員でプロサーファーの人とかいましたから。もちろん大会で優勝できるスキルなんてありませんでしたから、そんなこと夢にも思わなかったですね。大学を卒業したあとは、約10年、会社員をしましたね。プロゴルファーのマネージメントをしたりとか、それに関わる広告代理店みたいなことをする小さい会社に勤めました。たまたま知り合いの人がやっていた会社で、世の中はすごいバブルになってたってこともあり、忙しいからバイトに来いって言われて。そのまま就職みたいな。

朝、海入ってから会社に行っていたんですか?

いやいやいや、その頃はもう週末の楽しみに。土日を待ち焦がれてサーフィンしてたって感じですね。ただ、すごい些細なことなんですけど、ある仕事でフランスに行かなきゃいけない出張があったんですけど、これ行ったらなんとなく、胃がキューンとなる嫌な仕事だなと思ってて。マネージメントの仕事とかって人にどれだけ気を遣えるかとか、どれだけ調整できるかって話になるので。やっぱりそういう事に飽きてきてたし、もう潮時かなあと思って、それで辞めましたね。

ただ不思議なのがインドネシアであんまり仕事してない大人たちを見て影響を受けていたのに、そこで憧れていた世界とは違う仕事についたのはなんでですか?

お金を稼がなきゃいけなかったし、海行くのにもお金かかるので、たまたまバイトにおいでよって行ってくれた人たちもいい人だったし。最初、週給でお金もらってたんですよ。次に月給でもらうようになって、そしたら社員になれって言ってくれたんですけど、俺は別に社員とか興味ないからって言ったら、別に私たちもそんなに求めてないけど、色んな事務の処理が面倒臭いからそれだけだからなればって言われてそれでなったんですよね。でもそうするとボーナスとかもくれるようになるんです。

なんとなく流されちゃったと。

流されてましたね。だから、やっぱりもうちょっと自分が好きなこと、連絡係じゃない仕事はしたいなって思うようになって。それで、サーフボード屋を始めます。やっぱり自分が一生懸命やってきたことを仕事にしたいと世田谷の等々力でリトルシングスって名前で始めました。

どういうコンセプトのお店だったんですか?

今ではそういうお店はたくさんあるんですけど、当時はサーフショップってコンテスト中心、お店で集まって皆で大会やりましょうとか、そこを目指すみたいな感じだったんです。日本もNSAっていう日本サーフィン連盟っていうのがあって、それぞれ支部の下にお店があって。それで勝ち上がってきて1年に1回、全日本チャンピオンを決めるというのが主流だったんですけど、そうじゃなくてもいいかな、皆が同じ形の板に乗らなくて、もっと70年代のちょっと太った板だったり、ノーズが丸い板でサーフィンしたっていいじゃないって気持ちがすごいあったんですよね。僕はコンテストに関しては、ほぼ興味がなかくて、ただ通っていたお店がやってたんで、出ろよって言われたんで出てる感じで。だから負けたから悔しいとか正直言ってなかったですね。3回戦までいっちゃったら、俺3回戦までいっちゃったぐらいの感じですね。

リトルシングスはライフスタイルを含めたサーフショップということですね。

はい。97年から2006年ぐらいまでやっていたんですが、あんまり、そういうお店がなかったのかなあと。売ってたものはサーフボードとウェットスーツと、サーフィンに関する写真集とかアーティストのポスターとかCDとかTシャツとか。また、その頃ちょうどロングボードがもう1回リバイバルした頃で。多分カリフォルニアでリバイバルしたのが日本に入ってきた感じだと思います。コンテストだけじゃなくてライフスタイルとしてサーフィンをしてるサーファーが出てくるわけです。そうするとやっぱり雑誌も彼を特集するので。それがジョエル・チューダーという人です。多分彼がいなかったらカリフォルニアのサーフィン、ライフスタイルと連動したサーフィンがこんなには注目されなかったと思いますね。そうじゃない層も必ずいるんですけど、全体の流れとしては、そんな流れもきていたというのもあったと思いますね。

なるほど。ジョエル・チューダーっていつくらいから出てくるんですか?

95年くらいじゃないかな。代表作は『the seedling』ですよね。トーマス・キャンベルの最初のサーフィン映画ですが、ジョエルもトーマス・キャンベルの映画に出たことで価値が上がったし、トーマス・キャンベルもジョエルとかカリフォルニアのロングボーダー、ログライダーっていうんですけど、フィーチャーした映画を作ったことによって有名になった感じですよね。もともと『the seedling』って映画は、藤沢にカリフォルニアってサーフショップがあるんですけど、そこに石田さんって人がいて、彼がアムステルダム・ウェットスーツっていうウェットスーツを作っているんですけど、それをジョエル・チューダーが着てて。石田さんはジョエルの板を日本に卸す仕事もしてたので、それで石田さんがウェットスーツのプロモーションビデオを作りたいから、誰かいいフィルムメーカーがいないかなってジョエルに相談したらトーマス・キャンベルを紹介したんですよ。そしたらトーマス・キャンベルは作ってるうちに20分程度で終わらなくなっちゃって、結果1時間くらいの映画になったんですよね。

それが『the seedling』になるんですか?

そうです。だから映画の最後のクレジットを見るとプロデューサーは、ちゃんと石田さんの名前が入ってるんですよ。多分カリフォルニアのライフスタイル好きは全員ジョエル・チューダーのことを好きだと思いますよ。もちろん、気取りやがって、みたいなサーファーもいっぱいいると思いますよ。

そんなお店を始めていて、アートを始めたきっかけは?

もともと僕がシルクスクリーンを始めたのは、店で売るTシャツを作るためだったんです。一応HOT FUDGEって2人組なんですよ。ハシモトさんっていう、もう1人の人がいてハシモトさんは美大でシルクスクリーンを専攻してたんですよ。だから僕は彼女に教わったんです。最初の頃の店のTシャツは僕は刷ってなくて、ハシモトさんが刷ってくれてたんですよね。あとから僕も全部刷れるようになって。今の作品は全部、僕が刷れるようになって。

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店でTシャツを売るために始めたのが、シルクスクリーン。

Tシャツをまず始めるためにグラフィックもやんなきゃいけないってことで。だから初期の僕の作品は木にシルクで刷った作品とかあるんですけど、それは作品のためじゃなくて、Tシャツのために作った絵柄を、文字だけ外して絵だけを刷って作品を作ってました。最初はTシャツありきだったんですよね。

Tシャツは売れたんですか?

最初は来るお客さんにセールスしても誰も買ってくれなかったですね。でも途中からなんだかわかんないんですけど、いいよって言ってくれる人がちょこちょこ出てきて。Tシャツはよそのを仕入れなくなりましたね。自分たちのと、当時グリーンレディっていうすごい格好いいTシャツを作ってる人たちがサンディエゴにいたんですけど、その人たちのと、自分たちのだけでした。

お店のときに作ってたTシャツは今のテイストと近しいんですか?

まあ、近いといえば近いかな。でももう少しデザインぽかったかと。絵柄がデザインぽいっていうか、ロゴマークっぽいものの方が多かったのかな、どっちかっていうと。今の方は絵っぽいものが多くなってきたのかな、でもそんなに極端には変わってないです。基本、やりたいこと。

じゃ、お店の頃Tシャツを作るっていうことからアートっていう発想に変わっていくのってどういうきっかけで変わっていくんですか?

Tシャツって着るものなんで、ある程度制約があるじゃないですか?それに比べて作品はとりあえず制約がないので、そこはいいかなと思いますね。Tシャツは絵柄があって文字があった方が全体が映えるとかあるんですが、そこに入れる言葉を考えるのが大変で、なんかメッセージをそこにキチッと入れないといけないから。お店始めて5年くらいしてから、やっぱ展覧会を最初にやったのがきっかけかもしれないですね。それくらいから作品作りに力を入れていきます。40歳くらいのとき、デビューです。僕はデビューが遅いんです(笑)。

はじめから上手く行ったんですか?

もちろん全然ウケないです。やっぱり知名度もないし。ウケなかったですね。知り合いがポロポロってきてくれただけですね。

ではいつくらいから少しずつ認知されていくんですか?

最初に皆が認識してくれたのはグリーンルーム・フェスティバルといって、横浜でやるフェスがあるんですけど、当初は今ほど大きくなくて、割とサーフィンとかスケートの色が濃かったんです。海外のアーティストも含めてアート作品を展示するってスペースもあって、そこでやらせてもらったのが、皆が少し気づいてくれたきっかけなんですかね。あとは渋谷のタワーレコード。昔のタワーレコードの7階か8階に洋書屋さんありましたよね?あそこ僕好きだったんですよ。あそこで俺たちのTシャツ売ってくれって持ち込んだんです。そしたらウチは本屋だからTシャツもいいけど何か紙物で見せてくれって言われて、それで、じゃジン作るかって。そのときジンを2冊作ったのかな。それでジンとTシャツと売ってくださいって頼んだら、たまたまかもしれないですけど一応コーナー作ってくれたんです。少し大き目のコーナーをドーンと作ってくれて。それで友だちにやってるから行ってねって言うと、結構皆、こいつら何かやりだしたと思って見に行ってくれて。

なるほど。

割と電話かけちゃうんですよ。やらしてくださいって。結構勇気いるんですけど、昔そういう人じゃなかったんですよ、勇気なくて、ダメなんですけど。タワーブックスのときは勇気出して電話したんです。そしたら絶対断られるなって思いながら、電話したんですが聞いてくれて。このときから、世の中電話すると案外聞いてくれるんだなって思ってて、何かあると電話するようにしてます(笑)。

それで軌道に乗り始めるんですね。

ただHOT FUDGEは未だに軌道には乗ってないですから(笑)。軌道には乗ってないです(笑)。淡々とやっているって感じですね。

でもTシャツは売れてたんですよね?

お店では売ってたんですけど、展覧会に関してはTシャツはほぼ排除してたって感じです。Tシャツを好きな人はいっぱいいたけど、作品になると別に皆、興味がない。あと売れてるって言っても僕が手で刷って一軒の店で売るくらいの量なんで20枚売れたら、売れたなっていうレベルですから(笑)。せっかく作ったのに2枚くらいしか売れないで終わっちゃうのとか結構ありましたから。そんなレベルですよ、本当に。手作業。

またそのテイストを確立するっていうのもポンッと出てきたわけではないわけですよね?それも不思議ですね。

やっぱり写真集とか好きだったし、アートは好きでしたね。小学校低学年くらいから映画を観ていたので、そうすると自然と映画のポスターとか結構、影響受けましたね。アメリカの映画のポスターとかすげえかっこいいじゃないですか。

そこで繋がるんですね(笑)。

写真というよりは絵っぽいのが、当時多いんですよね、バニシングポイント』とか『真夜中のカウボーイ』とか『セルピコ』とか『タクシードライバー』とか『アメリカングラフィティ』なんかもよかったかな。

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そこからサーフカルチャーの影響もあると思うんですが。

カリフォルニアでいうとリック・グリフィンっていう60年代後半から70年代に活躍した人がいるんですよ。その人が多分サーフアートの先駆けじゃないかな。絵を見ればわかると思うんですけど。あの、フィルモアってサンフランシスコにライブハウスがあって、フィルモアでやるライブのポスターって今でもアート作品として高く評価されてるじゃないですか?それもリック・グリフィンがやってたくらいなんで。ジム・フィリップスもそうだと思いますが。その後一般の人がサーフアートをより知るようになるのは、それこそ90年代になってからで、バリー・マッギーとかマーガレット・キルガンが出てきてからですね。もちろんエド・テンプルトン、トーマス・キャンべルとか、あとはそれとは別にアンディ・デイビスとかちょっと違う人たちもいますね。バリー・マッギーを最初に知ったのは『サーファーズジャーナル』っていう有名なサーフィン雑誌があるんですけど、まだ正面から顔を撮ってなくて後ろ姿の写真で。今よりもうちょっと過激な感じで、広島の原爆を忘れるな、みたいな感じのメッセージをドガーンって書いてて。そういう感じで記憶に残ってます。

サーフ以外のジャンルのアートで影響されたものは?

僕はレコードのジャケットとか、アートというよりはレコードのジャケットだったり、浮世絵にも影響されてます。歌川広重は大好きですね、すごい好きですね。やっぱ版画だから、絵を書くのとも違うし。シルクスクリーンに近いんですよね、版画って。

なるほど。ところで、そもそもなんでHOT FUDGEなんですか?

僕がリトルシングスで、ハシモトさんがホットオレンジって言う名前でやっていて。要するにホットレモンってあるじゃないですか?あれのオレンジ版がインドネシアに行くとあるんですよ。そこから名前を取って彼女はホットオレンジっていう名前で。途中からリトルシングス&ホットオレンジじゃ長いからと、HOT FUDGEって名前にした感じです。

あんまり良くわからないですが(笑)。ハシモトさんとはどこであったんですか?

ハシモトさんとあったのは飲み屋でしたね。30歳くらいかな。20年くらい前ですね。なんとなく気があったとか、そんな感じじゃないですかね。彼女が海行ったり好きだったので、それから一緒に海行こうよとか。そんな感じだったんですかね。

あっそうですか。では機材のこだわりは?

特にないです。僕が持ってるのは今でもそうですけど、一色機っていう版が1つしかつけられないやつですから。それで刷っています。普通Tシャツ屋さんは4とか6版刷れるやつでガチャンガチャンといくんですが、僕はもし2色でやるんなら、1色をまず刷って外して、もう1回版をセッティングして上からトンボを覗いて合わせて、あ、ズレちゃった、ってそういうレベルでやってますから。本当に家内制手工業です。もしかしたら完成されたプロダクトじゃなかったのが、また良かったのかもしれないですね。

どういう意味ですか?

やっぱり完成されたプロダクトって、ちょっとヒューマニティーに欠ける。例えばシルクスクリーンって綺麗に色がのらなくて掠すれちゃうとか。失敗なんですけどいい場合もあるんですよね。そこにヒューマニティーを感じるというか。なんだろう、アート作品って筆で描いたりするときに、筆の勢いとかで掠れたりして、そういうので人はヒューマ二ティーとかを感じるんだと思うんですよ。ただ、シルクスクリーンはそういう味はあまりないので、ちょっとしたズレとか、かすれとかそういう所、あと合わせとかがちょっと重なってる所が色で滲んでたり、色が濁ったりすることでヒューマニティーを感じるのかなと思いますね。

なるほど。ではHOT FUDGEが目指す所は?

日本人特有な感覚ですかね。日本人って調子悪い車に乗ってたりすると、今日は機嫌が悪いからとか言うじゃないですか?物に魂が宿るみたいなことを言うと思います。だから物を大切にしろとか言われたし。そうするとその調子悪い車にちょっとヒューマニティーを感じるときってあると思うんです。今日はご機嫌斜めだって。人に言うことを言ったりする。だからHOT FUDGEは調子の悪いシルクスクリーン・マシーンになりたいと言うか。シルクスクリーンって基本マシーンじゃないですか。マシーンて言うか手刷なんですけど、絵とはまた違うから。そういう所でヒューマニティーが出せてそれを面白がってくれればいいですね。1枚、1枚刷った場合、全部微妙に変わっちゃうこととか。

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絵柄のアイディアは、どのようなイマジネーションのもと生まれるのですか?

僕は身近な物を作品にしたりします。例えば、水鉄砲をやりてえな、とか思うじゃないですか?シルクで刷るんだったら、絵を描きながら何版でやるかって考えて。水鉄砲ってプラスチックじゃないですか?プラスチックの質感、これをどうやって表現したらいいのかな?って考えてる感じですかね。なんか割と身近な物だったり、自分たちが旅行に行った場所の景色を写真に撮った物を後から作品にしてるとか。だから基本、現実というか空想の物はあまり作品にないというか。

例えば、シルクスクリーンの前に、写真での表現の方がダイレクトに伝わりそうな気もするんですけど。シルクスクリーンという方法を敢えて選んでいるのは?

それは言われるまで気がつかなかったですね。今言われて、それもそうだなと思いますね。

写真も好きですもんね。ちなみに写真を見て描くんですか?

写真を見て描きます。最初は3Bの鉛筆で、コピー用紙にまず描いて、その後普通の水性のマーカーで仕上げるんです。何色かある場合はトレーサーに乗せて透かせて、昔ながらのやり方ですよね。たまにスキャナーで読み込んでパソコンの中で3版なら3版作ることもありますけど、基本は割と手で作ります。

作品で何かを伝えたいことは、発想の面白さってことですかね。水鉄砲のプラスティックの質感をシルクスクリーンで表現する面白さだったり。

かもしれないです。これ言っていいのか悪いのかわかんないですけど、自分の絵を見てハッピーになってくれたら嬉しいとか、最近スポーツ選手とかも自分がやった演技なりで皆が勇気を出してくれたらいいとかあるじゃないですか?そんなこと思ったこと1回もないです。これやりたいなって思うことをやってるだけです。だから人からしたら、こいつなんでこれを作品にしてんだろうって思うんじゃないですかね。

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では作品について他人の評価は全く気にならないんですか?

一昨年サンフランシスコのギャラリーで展覧会やったときに『JAXTAPOZ』のウェブ版に僕たちの展覧会が紹介されたんです。そのときにギャラリーのオーナーが、「作品はとりとめもない、コンセプトはないけど、僕たちが普段見てるヴァンズの靴だったり、タパティオっていうチリソースとか、ファンタとか、普段見てるものを日本人が作るとこうなるっていうのは興味深いから是非見に来てくれ」みたいなコメントを書いくれたんです。だから、とりとめもない作品かもしれないですね(笑)。

なるほど。先ほど出た日本人特有の感覚が海外でも受けるってことですね。では逆に海外の作品の面白いところはどんな点だと思ってますか?

やっぱり海外の人は大胆で繊細。だからといってラフなのかっていうと全然そんなことなくて、こんなに繊細なんだって思うこともあります。例えば、アンディー・ウォーホルのマリリン・モンローの本物を観たことがあるんですけど、すごいちゃんとできてました(笑)。あのシルクスクリーンのクオリティーすごいですよね。なんて言ったらいいのかな?日本の人は丁寧な方向に行くと神経質になると思うんですよ。それは俺も含めてそうだと思うんですけど、でも向こうの人たちは丁寧にやっても神経質にならないんですよね。それはもちろん日本人でもいると思うんですけど、往々にして日本人は僕も含めてそうなんじゃないかな?

どういうディテールに出るんですか?

あぁわかんないです。作品観たときの雰囲気、全体に出ちゃうんじゃないですかね?

あっ分かるような気もします。今もお店はやっているんですか?

いえ10年で閉めてしまいました。

ではアートで生活していけてるんですか?

ハシモトさんは本業がシルバーのジュエリー・デザイナーさんで高校のときの友だちと2人で仕事してて、僕は細々ながら、たまにTシャツのオーダーをもらって刷ったりとかよそのデザインしたりしてます。

お店辞めて後悔してないですか?

いえいえ、辞めてよかったです。店をキチッとやろうと思うと店にいなきゃいけなくて、そうすると動き悪くなるんですよね。これ、ちょっとやんなきゃって外に出たりするとお客さんが来るから、そういうことはできなくて。結構その辺はジレンマになってきてたので、店は辞めてよかったかなあ。

サーフィンは作品にどれくらい影響するんですか?

作品とサーフィンすること自体は、絵柄とかにはほぼ影響しないです。逆に排除するようにしてます。波の絵とか描きたいとか1ミリも思わないし、サーフィンはサーフィンで僕の中である程度完結してる。もうちょっとサーフィンってでかい感じで、作品とかじゃなくて生き方みたいな感じ。サーフィンやってなかったら、自由にやっていいんだ、なんて発想はなかったから大きなものなんです。それは多分スケートやってる人だったり音楽やってる人だったり、皆それぞれあるんだと思うんですけど、サーフィンやってる時はサーフィンのことで夢中になっちゃいますよね。あまり他のことを考えないです。ただ、多分サーフィンやってる人って海入って上がってくるとなんか一皮剥けるんですよ。

どういうことなんですか?

それはなんとも説明できないんですけど、なんか一皮剥ける感じがする。それは波がどんなに悪くても、車上荒らしにあって金を盗まれちゃっても、なんか一皮剥けたいい感じっていうのがあるんですよね。それは僕も3年前からスケートボードを始めて、スケーターってすげえな、こんな危ねえことやってんだとか、夏やるとTシャツが絞れるくらい汗びっしょりになって、それも気持ちいいんですけどね。でもそれとは違うんですよ。サーフィンをやったあとの感覚って。スケートとサーフィン両方やるやつが良く言いますね、スケートやってもあの感覚はないよねって。多分それが、なんか脳に気持ちいいぞって言うんじゃないですかね。

なるほどねぇ。それが日々の生活に出てくるってことですよね?そのあとの仕事だったりとか。考え方だったりとか。

基本前向き。サーフィンすると基本ハッピーになれますから。アンハッピーになるのは海で誰かに怒られたときは、しょげますけど、基本サーフィンして上がってくると、ハッピーになりますから(笑)。

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ちなみに将来に対する不安とかあるんですか?

将来に対する不安ですか、、、ありますよ(笑)。だって先もう長くないじゃないですか、どうするかなぁ。何年生きるかわかんないけど。どうなんのかなぁ、と思うんですけど、あんまり考えないようにしてます。要するに目先のことを1つ1つやってこうかなと。

生活の不安はないんですか?

もちろん安泰じゃないですからね。ドキドキですよ。でもだからと言って、僕を会社員として誰も雇ってくれないだろうし。でも安定してるとか、してないってお金もありますけど、基本的には心の状態じゃないですか。だから、あまりフリーランスかフリーランスじゃないかってことは気にしないですよね。逆にもうフリーランスじゃないなんて考えられないですし。

さすが、前向きですね。

ただ立ち泳ぎしながらって感じです(笑)。アップアップ、口をパクパクさせて立ち泳ぎですよ(笑)。皆立ち泳ぎしてるんじゃないかな?そう思いますけどね。

HOT FUDGE
1960年代生まれ。思春期からサーフカルチャーに触れ、のちにサーフショップ、リトルシングスを設立。その過程でシルクスクリーンを駆使したアートワークを発表するようになる。現在ではセレクトショップに自身のアートワークを使用したTシャツを卸したり、雑誌にイラストを提供するなどをしながら、自身の作品を発表し続けている。以前紹介したスケートフォトグラファー、ジャイ・タンジュの日本でのエキスビジョンもオーガナイズした。