1996年、米国の文壇に謎の天才少年作家が現れた。その名はJ.T.リロイ(J.T. LeRoy)。2000年には、母親とその恋人から虐待を受け、女装の男娼となった自伝『サラ、神に背いた少年』(Sarah)を発表。ロサンゼルス・タイムズのベストセラーにも選出され、J.T.リロイは18歳にして時代の寵児となった。映画監督ガス・ヴァン・サント(Gus Van Sant)はその才能に惚れ込み、『エレファント』(Elephant, 2003)の脚本を依頼。更に2002年発表の『サラ、いつわりの祈り』(The Heart Is Deceitful Above All Things)は、女優アーシア・アルジェント(Asia Argento)によって映画化され、カンヌ国際映画祭の監督週間で上映された。

「1980年、ウェスト・ヴァージニ州生まれ。5歳で誘拐され、虐待を受け、11歳で女装して売春。14歳でドラッグを経験し、16歳で心を病み入院。ドラッグ・売春・暴力の子供時代を経て、18歳で自伝的小説を執筆」

これは、『サラ、神に背いた少年』発表時のJ.T.リロイのプロフィールである。金髪のウィッグと大きなサングラス、そしてジェンダーレスな謎の美少年に世界はときめき、マドンナ(Madonna)、ボノ(Bono)、コートニー・ラブ(Courtney Love)、ウィノナ・ライダー(Winona Ryder)、トム・ウェイツ(Tom Waits)、カルバン・クライン(Calvin Klein)、ルー・リード(Lou Reed)までもが、彼に夢中になった。そしてJ.T.リロイ本人もいち躍スターダムにのし上がり、セレブの仲間入りを果たしたのだった。

しかし、J.T.リロイは存在しなかった。2006年、ニューヨーク・タイムズの暴露記事によって、その正体は〈サンフランシスコ在住の40歳女性、ローラ・アルバート(Laura Albert)〉であり、金髪の美少年は、〈ローラの義妹・サバンナ・クヌープ(Savannah Knoop)〉が影武者として演じていたと明かされた。

サバンナ・クヌープによるJ.T.リロイ.©2016 A&E Television Networks and RatPac Documentary Films, LLC. All Rights Reserved.

そんな文壇を揺るがす衝撃の実話を映画化したドキュメンタリー『作家、本当のJ.T.リロイ』(Author: The JT Leroy Story)が公開されている。監督は『悪魔とダニエル・ジョンストン』(The Devil and Daniel Johnston, 2005)などを手がけたジェフ・フォイヤージーク(Jeff Feuerzeig)だ。そして、この作品の公開に合わせてローラ・アルバートが来日した。なぜ彼女は、この映画で真実を語ったのか? あの10年をどのように捉えているのだろうか? 当時の状況を振り返ってもらった。

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『作家、本当のJ.T.リロイ』をご覧になって、どのような感想をお持ちになりましたか?

観たあとは身震いしました。また、監督のジェフが本作に込めたすべてのものを咀嚼するまでに、数回観直す必要がありました。同じような意見を持った人も多かったようですね。彼らも何度も映画を観たそうです。

ハリウッドからも映画化の話があったそうですね。でもあなたはそれを断ったと聞いています。なぜジェフ・フォイヤージーク監督からの依頼は受けたのですか?

ジェフの作品である『悪魔とダニエル・ジョンストン』を観たのですが、私とダニエルの間にはたくさんの共通点があったんです。彼は、家族のことをはじめ、なんでもかんでも記録していました。そんな彼の姿をジェフはきちんと映像にしていました。ジェフは、創造性と狂気が交錯するところに興味を持っていて、それを非常に有機的なスタイルで語ることが出来ると私は感じたのです。トラウマがある人はきちんと守られていないと殺人を犯したりもします。ダニエルもマネージャーを殺そうとしたんですよ。でもそういう行為があっても、ジェフは、「なぜ彼はそういう行為に及んだのだろう?」といった語り口で進めていました。そして最終的にはアートが彼を救ったと述べていました。ジェフだったら、セレブが出てきたとしても…ボノやマドンナが登場しても、そんなトピックには邪魔されず、きちんとストーリーを進められるに違いない。私はそう感じたんです。

ちなみにダニエル・ジョンストンの存在は知っていましたか?

もちろんです。実は彼の曲をカバーしたことがあるんですよ。「Love not dead」という曲です。この映画が実現するずっと前の話です。不思議ですよね。偶然が重なってこうなった。私の周りにはいつも偶然がつきまとっていますよ。

あなたは、なぜ〈J.T.リロイ〉という少年になることを選んだのですか?

少年を選択したというより、〈少年になりたい〉という衝動に抗うのをやめたというほうが正確かもしれません。誰もがそのような欲望を持っているのではないでしょうか。私の場合、幼少のころから、自分のなかに存在する複数の〈男の子〉を具現化してきました。そのなかで、J.T.リロイは〈実体〉を必要とした最初の存在だったのです。J.T.以外にも〈実体が欲しい〉と私に訴えるキャラクターはいましたが、J.T.はそれをより強く要求したんです。

J.T.こそが、あなたの理想の男の子だったと。

ある意味ではそうですね。というのも、苦痛をアートに昇華したり、型にはまらない流動的なジェンダーやアイデンティティ、経験と無垢の間のバランス感覚など、私が大事に温めてきたアイデアをJ.T.は表現してくれましたから。

そしてあなたは、〈動くJ.T.〉が必要になりました。なぜサバンナにJ.T.を演じさせたのですか? そのまま覆面作家でいようとは考えませんでしたか?

最初のころは、世間からの〈動くJ.T.〉への切望はそれほど大きくなかったんです。ですから、比較的簡単にそれに応えたんですね。大事になるまで、私たちはうまく対応できていたんです。もしもJ.T.を表に出さないでいたら、かえって彼の存在を疑う人が増えていたんじゃないでしょうか。

サバンナは、あなたにとって、理想的なJ.T.リロイを演じていましたか? 日々密にコミュニケーションを取っていないと、辻褄が合わなくなってしまいますよね。「昨日は何があった?」とか、「今日のインタビューには、こう答えて」とか。あなたは、〈J.T.リロイのマネージャー〉でしたから、サバンナとは、常に作戦会議をしていたのでしょうか?

最初はそういうのがありましたけど、途中からなくなりましたね。というのも、J.T.が彼女の中に入っていったんです。サバンナはJ.T.になったんです。ヒゲが濃くなったりもしました。それこそスターウォーズの「フォースを信じろ」じゃないですけどね。サバンナはJ.T.リロイとして、いつも間違いを犯していました。でも人はもう気付かないんですよね。サバンナは世界をつくり、そのエモーションの中で生きていました。そして周りの人々もその世界に行きました。ですから彼女が何をいっても疑われない。私は、どんどん見えない存在になり、サバンナのJ.T.リロイがすべてになったような感じでした。アーシア・アルジェント(Asia Argento)は、サバンナのJ.T.リロイと非常に親密な関係になりましたが、〈もうひとりのJ.T.リロイ〉の存在にはまったく気づかなかったくらいですから。

私とサバンナの関係は、クラウドみたいなものです。全部説明してもらわなくても、そこに繋がればわかるという感じになってきました。上手く説明できませんが、嘘をついているのとは、また違うんですよね。騙されたと思った人がいるのもわかるんですけど、そういうパラダイムじゃなくて、それを消し去って違う場所にいたのです。

THE SMASHING PUMPKINSのビリー・コーガン(Billy Corgan)に正体を明かした理由を教えてください。

先ほどの答えに近いのですが、彼を告白する相手に選んだというより、彼に真相を打ち明けたいという気持ちに抗うのをやめたんです。というのも、彼は私の言葉を聞き入れて、すべてを受け止めてくれるような気がしたんです。また、ビリーだけが真相を知っていたのではなく、すでに数名にも告白していました。「自分が楽になりたいからではなく、私/J.T.と、あなたの関係性を複雑にしたくないので、すべてを打ち明けます」と彼らには伝えていました。ビリーは、私とJ.T.の双方に寄り添い続けてくれました。

そして2006年にニューヨーク・タイムズで疑惑記事が掲載されました。どんな状況でしたか?

J.T.として小説を出版し始めたころから、彼の正体に対する憶測はたくさんありましたが、私の生活や執筆活動を妨げるようなものではなく、逆にそのおかげでJ.T.はよりミステリアスで興味深い存在になりました。しかし、2006年にあの記事が掲載され、私の周りからは人がどんどん離れていき、J.T.リロイのフェーズは終焉を迎えたのです。とても大きいスキャンダルでしたね。別に私はワールドニュースで嘘をついた訳ではありませんでしたが、物凄く叩かれました。今の若い子だったら「何が問題なの?」っていうかもしれません。今の子だったらアバターが5つくらいあって、自分の名前を忘れるくらいだと思いますよ。ある種、私は時代の先取りをしていた訳です(笑)。

周りの反応はどうでしたか?

「なぜ、こんなことしたのか?」と、一歩下がって聞いてくれる人はひとりもいませんでした。「なぜ、こんなことをしたのか? …マドンナに会うため」なんて書かれたり。だったら、わざわざ本を書くよりも、ストーカーになるほうが早いですよ(笑)。でも日本だったら、こういうロールプレイに理解してくれたんじゃないかな。アバターを使って何かを語る。あるいはストーリーを語る。日本の方が馴れている気がします。米国より進んでいるのではないでしょうか?

なぜ、そう思われるのですか?

ファンタジーとかイマジネーションに対するリスペクトが日本には存在しているように感じます。例えば日本では、アニメが真面目なジャンルとして受け入れられている。そしてSFとかファンタジーなどが、一般的にタブーとされているセクシュアリーと交差しても、ある種自然な表現方法だと認められていますよね。米国にはそれがないんです。ファンタジーというのも、隔離された言語のひとつであると受け止めていたんですが、米国では違ったんです。

日本のファンタジーとかカルチャーにご興味があったんですか?

セックスに関するウェブサイトのレビューとか、いろいろな日本の変態アニメサイトなどを見ていました(笑)。信じられないくらい色々なストーリーがあって、立ち入り禁止の部分がありませんよね。あらゆる方向性がファンタジーのストーリーには存在します。もちろん不快な物もあります。しかし、そういう物にもそれなりの表現形態があります。例えば漫画という形態なら、そこには豊かな想像力が存在しているのです。

『千と千尋の神隠し』(2001)とか『誰も知らない』(2004)にも母親に対する思いやりがありますよね? 〈虐待する母親はダメだ〉と白黒ハッキリさせていない。虐待する親というのは、自分も子供のころに虐待を受け、援助されなかった人が多いのですが、そういう人に対する思いやりとか理解というものが必要なのです。しかし米国では、そうせずに白黒で語ってしまう場合が多いのです。

以前日本に来られたときは、〈サバンナのJ.T.リロイ〉を見守るマネージャー、スピーディ(Speedie)だったんですよね?

ええ。ですから、今また日本にいるというのはすごく光栄な出来事ですね。10年前は、あっちのテーブルに座り、マネージャーとして写真を撮っていたんですから。ここに座っていたのはサバンナでした。彼女に私の発言はできなかった。インタビュアーに合わせるくらいしかできなかった。今私がここにいるのはとてもシュールですよね。でも、当時も直感的にもういち度日本に来ると感じていました。ただ、こういうパターンだとは想像していませんでしたから、本当にこれはギフトだと思いますし、とても感動的です。先ほども、私の本の翻訳をしてくださった金原先生と話をしたのですが、彼はゴシップなど関係なく、小説として傑作だとおっしゃってくれました。すごく嬉しかったですね。日本のほうが文化として理解してくれています。「プレゼンテーションのお皿の上に何が乗っているのか?」 そんな状況を日本の人は理解できているんじゃないでしょうか。コンセントとプラグがピッタリ合ったような気がします。昨日も試写会のあと、ある女性が話しかけてきてくれました。「あなたはピッタリだから、日本に移住したらどう?」って(笑)。

映画のなかで「キッズの頃はパンクに夢中だった」とおっしゃっていましたね。どんなバンドが好きでしたか?

いち番はMINOR THREATですね。あとは、STIFF LITTLE FINGERS、THE UNDERTONES、MADNESS、THE DAMNEDとか、あとはやっぱりニューヨークのハードコアシーン。速いハードコアです。…ヘビメタはあんまり好きじゃなかった。いや、大嫌いでしたね(笑)。

映画のなかで、当時のあなたはすでにアバターをライブハウスに送り込んでいたとおっしゃっていましたが、あなたご自身は、まったくライブハウスに行ってなかったんですか?

いえ、たまには行ってました。でもライブハウスには、ホームレスの子供たちがいっぱいいて、ゲームじゃなくてサバイバルになっていたんです。男の子ばかりで、どんどんバイオレンスな場所になっていましたから、女の子はあまりシーンに入れなかったんですね。女の子がなれるのはベーシストか、バンドメンバーのガールフレンドくらい。正に女人禁制のような雰囲気だったので、そのときに男の子になりたいと思いました。

ライブハウスは、私にとってのファンタジーワールドにはなりませんでした。様々な暴力もあったし、破壊的でドラッグの問題もありました。当時、私は何か特別な場所が欲しかった。クリエイティブになれるユートピアが欲しかったんです。しかしその想いは、ライブハウスでは満たされませんでした。アートをつくる道を選んでよかったと思います。でも音楽は今でも好きですよ。お気に入りなのはTFIYA。彼はまだ19歳なんですけど、日本の皆さんにも聴いて欲しいですね。

ローラお薦めのTFIYA.〈聴いて欲しい〉と、インタビュー後にリンクが送られてきた.

J.T.リロイは、作家という枠を超えて、時代の寵児として世界に受け入れられました。作家やミュージシャン、そしてアーティストたちには、自身の作品だけではなく、つくり手のキャラクターみたいなものも必要だとお考えですか?

アーティストの行動が、作品をぶち壊すこともあるでしょう。そもそもオペラファンではないので適切な例えかわかりませんが、ワーグナーは反ユダヤ主義者だったので、私は彼の作品を聴けません。その人自身について知ってしまうと、その人の作品から切り離せなくなり、嫌になってしまうのです。しかし、作品と本人を分けられる場合も多々あります。私はいろんなバンドにインタビューをしてきたのですが、彼らがつくった歌を私はこう解釈をしたのに、バンドにインタビューしたら「全然そんなつもりでつくっていない」なんて返事も多いですから。彼ら自体はおバカちゃんでも、彼らになにかすごいインスピレーションが降りてきて、つくった本人が理解できないくらい、とんでもない作品になってしまうパターンがあります。素晴らしい詩的な歌詞だと思っていたけど、本当は女の子とヤりたかっただけとかね(笑)。

私は作品には、創り手から離れて、〈作品そのもの〉として独立してほしいですね。そこにある複雑さを見てほしいのです。例えば、『サラ、神に背いた少年』では、ジェンダー・フルイドについて書いたのですが、当時はそんな言葉もありませんでした。皆さんがプレゼンテーションに慣れて、お皿の上にある栄養素をちゃんと見極めてもらいたい。つまり〈早く私に追いついて〉という気持ちがあるんです。

J.T.は、今もあなたのなかで生きているのでしょうか? もしくは、どこか違う場所に行ってしまいましたか?

私にも予想外でしたが、この映画を制作するためにJ.T.の作品を読んだジェフの内にJ.T.が宿ったそうです。ジェフはJ.T.の声を聞き、彼の魂を感じたといっています。

昔に戻れるとしたら、本名のまま再デビューしたいですか?

いいえ。時間を巻き戻せるなら、名前を変えて本を出すのではなく、全く違うことに挑戦します。

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2017年4月8日(土)より、新宿シネマカリテ、アップリンク渋谷ほか全国順次公開中