レズビアンバーの歴史eyecatch

IMAGE BY KAT AILEEN

サンフランシスコのバー、ペグス・プレイス(Peg’s Place)では、「パンツは履いてもいいけれど、ブルージーンズはだめ。その店には変なこだわりのルールがありましたよ」と88歳のジャッキー・ジョーンズは、電話インタビューに応えた。ジョーンズは着るものを指定されるのが気に入らなかった。「たぶん彼女たちは、お客さんに、いわゆるシックな装いで来店してもらいたかったんでしょう。浮浪者やトラック運転手のような人間が集っていると、勘違いされるのが嫌だったはずです」。ペグス・プレイスでは、中が見える窓のある部屋でしか踊るのは許されていなかった。DJが「誰かが誰かに触ったりしていないか監視していたんです。監獄スタイルですよ」。店のオーナーが警察に賄賂を渡していないと、アルコール販売許可が取り消され、客も「無形的幇助行為」の罪に問われて逮捕されるおそれがあった。それは1950年代、「彼女たち」とはレズビアン。ダンスするだけで、一晩身柄を拘束されたりもしたのだ。

この100年、もぐり酒場、アパートでのパーティー、金満レズビアンカップル、レズビアン専用ラウンジ、クィアたちのダンスパーティーなどで、レズビアンたちは仲間を見つけてきた。その全貌は、わずかな史料からは把握できない。しかしジャッキー・ジョーンズのような女性たちの証言を繋ぎ合わせると、レズビアン・バーの歴史は、バーで育まれてきたレズビアンのアイデンティティ、コミュニティと同じく、複雑で、波乱万丈で、移ろいに富んでいるのがわかる。

現在、ニューオリンズにレズビアンバーは無いが、アーティストたちが、数十年営業を続けていたバーのストーリー、写真などを収集している。ローレン・タバック(Lauren Tabak)とスージー・スミス(Susie Smith)は、2014年に閉店したサンフランシスコの有名レズビアン・バー「レキシントン・クラブ(Lexington Club)」の映画を制作した。クィア・パフォーマー、アリエル・スピードワゴン(Ariel Speed Wagon)とダミアン・ラックス(Damien Luxe)は、自らのショー『Rocky and Rhoda’s Lesbian Past』の劇中歌のために、レズビアン・バーの膨大なリストをクラウドソーシングで集めた。2015年9月には、メイコン・リード(Macon Reed)が同じようにバーやダンスパーティーのリストをつくり、レズビアン・バーのインスタレーションとしてブルックリンにあるウェイフェアラーというギャラリーに展示した。自身も活発なクィア・コミュニティの成員であるリードは語る。「先人たちへとつながるレズビアンのための場所を今なお求めています。自分とは年齢の違う人たちと出会える物理的な『場所』です」

モーズ、ビンゴス、シスターズ、シャーリーンズ、ルビーフルート・ジャングル、ザ・ダッチェス、ミャオ・ミックス……。さまざまな情報を探すなか、出てきた店の名前はどれもキラキラしていた。まるで外国かのような印象の、店にまつわるストーリーは刺激的だ。同性婚が法律で認められ、レズビアンが司会を務めるトークショーがあり、同性カップル向けの携帯電話料金プランが街中で宣伝されているいま、先輩レズビアンたちの秘めやかで隠された過去は、この時代だからこそなおさら興味深い。

「孤独の井戸」を満たす

女性という性別がある限り、なかには女性同士のセックスもある。しかし1920年以前には、レズビアンの社会生活は、主に、個人宅でのパーティーや集いに限られていた。男性を同伴していない女性は娼婦扱いされ、バーやレストランへの入店を拒否される機会が多かった。女性が他の女性たちと交流したければ、プライベートでなければならなかったが、交流を実現できるのは裕福な女性か娼婦しかいなかった。しかも、大抵のパーティーは、関係者以外、参加できなかった。

しかし、第一次世界大戦期は男性の数が減り、レズビアンへの邪魔も減った。そして産業が拡大し、労働階級の女性は子守りやハウスキーピング以外の仕事に就けるよになった。彼女たちは仕事のために都市に移住するようになる。この社会の大変動のさなか、「仕方なく女性に目を向けてきた女性たちが、女性とセックスするのが好きでもいいじゃないか、と感じはじめた」。歴史家のリリアン・フェダーマン(Lillian Faderman)はレズビアンの歴史を追った著書『Odd Girls and Twilight Lovers: A History of Lesbian Life in Twentieth-Century America』にそう記している。

都会に移ったレズビアンたちは、はじめて他のレズビアンたちと親密な関係を築いた。多くのレズビアン女性は、1928年に出版されたラドクリフ・ホール(Radclyffe Hall)の小説『The Well of Loneliness』を読んでいた。「倒錯者(invert)」であるイギリス上流階級の女性スティーブン・ゴードンが、社会的圧力に負け恋人であるメアリー・ルウェリンを失う、というストーリーだ。ブロードウェイのミュージカルでも、レズビアンをテーマにした作品があった。フロイトはすべての人間がバイセクシャルであると説いた。こうして種はまかれたのだ。

より大きな都市の酒場では、男性を同伴していない女性にも食事を提供するようになった。すべての女性がレズビアンではないとしても、そのなかにはレズビアンもいたので、酒場は、われわれが現在「レズビアン・バー」と認識する飲食店の初期形態でもあろう。そういった場所にいると、レズビアンの女性は、自らを孤独で病的な変質者ではなく、「数あるうちのひとり」と捉えられた。そのためフェダーマンによると、酒場は「何十年にもわたり、サブカルチャーの現れる唯一無二かつ重要な公共の場」であるそうだ。

ボルティモアやシカゴのような街のゲイ・バーは、労働者階級の白人がターゲットで、主に、ドヤ街のような地域にあり、警察の干渉も少なかった。1920年代、中流階級のモラルとして、酒および社交活動に対しては禁欲的だったが、それは労働階級の女性のライフ・スタイルには影響せず、彼女たちは、むしろ自由に楽しんでいた。

しかし、レズビアンたちが女性専用の場に安全に集えるようになるには、それから数十年を要した。ニューヨーク市のレズビアン・スペースを調査している女性史研究のジェン・ジャック・ギースキン(Jen Jack Gieseking)教授によると、同性愛者たちはそれぞれ、異性の同伴を必要としていたので、多くのバーは男女兼用だったそうだ。「警察が踏み込んできたら、男女ペアで踊りました」とギースキンは語る。

特にハーレムではナイトライフが充実していた。「クィア・エリアは警察の介入が少ない黒人居住区で発展しました」と教えてくれたのは、歴史学者のクッキー・ウーナー(Cookie Woolner)だ。彼女は、20世紀初頭に生きたセクシャル・マイノリティのアフリカ系アメリカ人女性たちにまつわる事象を研究している。白人女性はハーレムのバーに通っていたので、知人にバレる機会も少なかったが、黒人女性は近所の住人に見られる危険性があった。そのため、出会いの機会を設けるために、よりプライベートなハウスパーティを開いていた。

ウーナーによると「蓄音機からはブルースが流れていた」そうだ。そこには食事やアルコールがあり、参加者は飲み、そして踊った。ベッシー・スミス(Bessie Smith)やマー・レイニー(Ma Rainey)のようなクィアのブルースシンガーが参加していたりもした。パーティーでは皆、大酒を飲みテンションも高めなので、ケンカも勃発したようだ。ハウスパーティーでの暴力沙汰はニュースとなり、それが「歴史的資料にクィア黒人女性が名を残す唯一の方法」だ、とウーナーは説明する。それがいわゆる「黒人レズビアン=犯罪者」というステレオタイプに繋がってしまう。

ルールは破るためにある

禁酒法により1920~33年のあいだ、アルコールが禁止された。アルコールが違法になり、バーやもぐり酒場が秘密裏に営業されていた時期、誰もがは法破りに夢中になった。当時は基本的に無法状態で、同性愛コミュニティも容易に人目を避けられた。レズビアン・バーは、普通のレクリエーションやレジャーと同様、1930年代に衰退する。世界恐慌のため、禁酒法は第二次世界大戦勃発時まで延長され、アルコール取り締まりはさらに厳しくなった。また、多くの人々には、パーティーや飲酒に興じる経済的余裕がなかった。

第二次世界大戦期、多くの女性が自らをレズビアンだと考えるようになった。従軍看護婦や婦人陸軍予備隊の居心地のいい宿舎での男性不在の生活が、女性同士のセックスに理想的な環境を生んだのだ。

フロリダ州のペンサコーラ(Pensacola, Florida)で十代を過ごしたジャッキー・ジョーンズ(Jackie Jones)は、自分が好きなのは女子だ、とわかっていた。5歳のときにはすでに気づいていたそうだ。「レズビアン」という言葉など知る由もなかったが、『The Well of Loneliness』など、女性を愛する女性が描かれた書籍は読んでいた。この小説は悲しい結末を迎えるが、この本がジョーンズの背中を押してくれた。1940年代後半、自立できる年齢になるとすぐに実家を離れ、ニューオーリンズへと居を移した。

フレンチ・クオーターにあるカクテルバー、トニー・バチーノズ(Tony Bacino’s)で、ジョーンズは他の女性と出会う。「フェラしてもらえるんじゃないか、なんて期待してる気色悪い男もうろついてた」が、ジョーンズはさまざまなタイプの人間がいるフレンチ・クオーターが気に入っていた。「地元のバーなのに、いかにも、地元のバー、といった閉鎖的な雰囲気ではありませんでした」と彼女は語る。警察の踏み込み捜査はしょっちゅうだったが、ジョーンズは、一度も捕まらずにすんだ。彼女によると「何が起こりそうなのが第六感でわかる」そうだ。「窓から警官がのぞいているのを見かけると、外に出てハンバーガーを食べたりしてました」

当時はまだ、バーでゲイやレズビアンに給仕するのは禁止されていた。警察を買収できなかったバーのオーナーは、罰金を払ったり、営業許可を剥奪されたりした。店の常連たちは、男性服の着用や、「非道徳的な」場に出入りした咎で逮捕された。その際、写真や名前が新聞に載ることもあった。賄賂やマフィアとのつながりがあれば、警察は干渉してなかった。しかし、誰に聞いても警察の捜査は乱暴で、度重なる介入によりバーの客たちは猜疑的になり、それがトラウマになったりもした。

「男役」とケンカ

1950年代初頭、ジャッキー・ジョーンズは職を求めてサンフランシスコに移住した。その頃にはアメリカ国民の大勢が、同性愛に不安を感じるようになっていた。ゲイやレズビアンは治療すべき、変えるべき、抑圧すべき対象となったのだ。ジョセフ・マッカーシー(Joseph McCarthy)上院議員は、有名人同性愛者をブラックリストに載せるべく活動していた。

ジョーンズは、ヒョウ柄のシャツとアライグマの毛皮帽を身につけてフレンチ・クオーターを歩いていたそうだ。あるとき、時刻を尋ねるために司祭に声をかけると、ものすごい勢いで逃げられたそうだ。サンフランシスコで、同性愛者は必ずしも広い心の持ち主ではない、とジョーンズは知る。ジョーンズが呼ぶところの「プロのレズビアン」、つまり実験室で働く研究者や、秘書、看護師として働く女性たちは排他的で、「トラック運転手タイプ」の女性たちを見下す傾向があった。ジョーンズは、バーのオーナーが警察をなだめるために厳しいドレスコードを設けたりするのが気に入らなかった。「私は、戦々恐々としているタイプではありません。この世界に生きる、一市民です」とジョーンズは言明する。

同性愛者に対する世間の厳しい意見が、逆に、ゲイ、レズビアン・コミュニティの連帯を強め、軽視されながらも、自らのアイデンティティを育んだ、と分析する歴史家もいるが、急伸した同性愛者の共同体意識が人種差別や身分差別を、必ずしも超越したわけではない。かつてないほど、同性愛に関心が集まったため、「ビリティスの娘たち(Daughters of Bilitis)」などの同性愛者組織は、教育を受け、仕事もして税金も納める「立派な」同性愛者像を世間に広めようと活動をしていた。そういった組織のメンバーは、バーとは距離を置いていた。ビリティスの娘たち、ジョーンズのような信念を持ったアウトサイダーたちにとって気に入らなかったのは、バーに通うのは男役/女役を演じるカップルが主流だったからだ。ビリティスの娘たちの会報には、「前にチャックがあるズボンを履き、男の髪型を模して、男性のように振舞う、そういう同性愛者は、われわれにとって最悪の広告塔です」と記されていた。

もう少し小さい街では、バーはレズビアンの巣、とみなされていた。なぜなら、店の客が全員ゲイだったからではなく、女性同性愛者へのサービスを厭わなかったからだ。バッファローの「マルディ・グラ(Mardi Gras)」というストリート・バーは、売春婦が客をつかまえたり、男役レズビアンが売春婦の客や他の男役レズビアンとケンカする舞台なっていた。ジョーンズによると、彼女たちがケンカをしたのは、「女性たちは、自分の怒りをどこにぶつければいいかわからなかったから」だそうだ。

「看護師や秘書でなければ仕事はないし、賢いと除け者にされます」

しかし、新たなかたちで相互支援する女性たちもいた。古参レズビアンは、若年レズビアンにバーを紹介し、彼女たちは男役/女役のレズビアンがひしめくバー界隈で生計を立てはじめる。

「はじめて、シャツを着て角刈りにしている男役レズビアンを見たときは興奮しました」。『Boots of Leather, Slippers of Gold』のなかで、マルディ・グラについて語るのは、男役のロンニ。この本は、ニューヨーク州バッファローのレズビアン・バー・カルチャーの記録だ。国内の他都市に比べると、1950年代、バッファローでの警察の捜査は少なかった。

一方、バッファローにある別のバー「カルーセル(Carousel)」には、マルディ・グラを敬遠する「上昇志向のある」レズビアンたちが集まった。カルーセルに集うレズビアンたちは若く、大学教育を受け、ケンカもしなかった。『Boots of Leather, Slippers of Gold』のなかで、ある女性がカルーセルを「オシャレなカクテルラウンジ」と評している。マルディ・グラのように労働者階級のレズビアンが集まる街角のバーとは、一線を画していた。常連客は専門職に就いており、裏道につながるカルーセルの通用口から店内に出入りできた。

現在に通ずるレズビアン・バーの誕生

それ以外の場所では、1950年から60年代にかけて、警察はバーの客に対し強硬姿勢をとった。1969年、警察がストーンウォール・イン(Stonewall Inn)を捜査すると、ニューヨークの労働者階級ドラァグ・クイーン、ゲイ、トランスジェンダー、そして少数のレズビアンら、さまざまな人種が入り乱れ、警察相手に闘った。この「ストーンウォールの反乱」は、同性愛者による権利運動のはしりだとされている。この反乱は、何もないところから発生したわけではない。何年にもわたり、アメリカ全土の女性たちは、警察の踏み込み捜査と差別行為に、団結して反対してきたのだ。

レズビアニズムはフェミニズムそのものだ、と考える女性もいた。レズビアニズムこそ、もっとも女性中心的な生き方だ。レズビアン、フェミニスト運動の外側にいる女性たち、つまり専門職に就いたクローゼットの女性、または男役・女役として装う女性たちにとっての社交の中心は、まだバーが担っていたが、1980年代になると活動家たちは街に出て、ニューヨーク市のLGBTセンターなどのコミュニティスペースに集うようになった。ゲイ、レズビアン・コミュニティの活動は、クィア市民がエイズ、DV、ヘイトクライムに対する運動の盛り上がりとともに、さらに切迫感が増していく。当事者の大勢にとって、組織の集会や活動家のミーティングには物足りなかったのか、皆、こぞって街中で集まるようになった。

ニューヨーク市ではLGBTセンターを中心に、同性愛者の権利について論争されるようになった。レズビアン分離主義の機運も高まりは、ザ・ダッチェス(The Duchess)などの女性専用バーとして結実した。それらのバーを含むレズビアン専用スペースでは、たとえ同性愛者であろうとも、男性は入場を禁止された。トランスジェンダーの女性も、それが明らかであれば入場できなかった。その姿勢を端的に示した有名な例が、2015年にその40年の歴史に幕を下ろしたミシガンのウィミンズ・ミュージック・フェスティバル(Michigan Womyn’s Music Festival)が掲げていた、性転換者を排除する「women-born-women(女性として生まれた女性)」というポリシーである。1970~80年代に栄えたレズビアン専用スペースは、現在すでになくなっているか、存続していたとしても存在感はない。その中でウィミンズ・ミュージック・フェスティバルは断固とした姿勢を取り続け、性転換した女性の入場を拒否し、現代の分離主義についての論争で矢面に立つこととなった。その論争で、シスジェンダーのレズビアンたち、トランスジェンダー排除過激派フェミニスト(TERF)たちは、トランスジェンダー女性の、「女性」としてのアイデンティティを認めていない。

「ザ・セクシー・タイム」

1990年代までに、女性たちはエイズ、70~80年代に繰り広げられた女性運動の禁欲的姿勢から逃れようとした。彼女たちは、ニューヨークのミートパッキング地区にあるクリト・クラブ(Clit Club)に集った。そこは、「非常に多様な場でした。階級、年齢、人種、『雰囲気』までも。セックスポジティブで、過剰な男役/女役の関係はなくなり、クィアの勢いが再度沸き上がりました」と創立者のジュリー・トレンティーノ(Julie Tolentino)はジャーナリストのヘザー・ドックレイ(Heather Dockray)に語っている。

「クリト・クラブは間違いなく最高でした」。ジェン・ジャック・ギースキンはそう回想する。ゴーゴーダンサーがいて、ポルノ映画が流れている空間。「ゲイの男性にとっての理想的な空間と似たようなものでしたが、女性だって楽しんでいました」。1990年から2002年まで営業し、クリト・クラブは、ニューヨークのレズビアン・コミュニティに対して開かれていた。「ここではセクシャルに振舞ってかまわない」

1996年、フィラデルフィア、センターシティのゲイ・エリアに「シスターズ(Sisteres)がオープンした。そこはもっとカジュアルで、より幅広いレズビアンたちが集まった。開店当初のチラシには「スニーカーからハイヒールまで」何を身につけている女性でも歓迎、と記載されていた。クラブは2階建てで、ソフトボールチームのスポンサーであり、カラオケパーティーも主催していた。毎週土曜にはDJナイトが催され、木曜はドリンクのキャンペーンデーだった。

90年代は「レズビアン・シック」の時代だ。1993年の雑誌『Vanity Fair』では、モデルのシンディ・クロフォードが男役レズビアン、カナダ出身シンガーソングライター、k.d.ラングの顔を剃る写真が表紙だった。しかしそれでも、シスターズの入口は裏道の奥に設けられていたし、慎重を期した結果、店には窓がなかった。

「シスターズにいる=クィア、と判断されました」、2009〜13年までシスターズの従業員であったガブリエル・ストーム(Gabriel Storm)はそう証言する。「女性にとっては、どれだけ踊っても、いやらしい目で見てくる男性に神経を使わずに済む空間でした。もし男性がいても、彼らはゲイでした」。さらにストームによると、店の総支配人はゲイの男性で、店内のインテリアは彼がコーディネイトしたそうだ。「女性が好きそうなもの、ということで彼が考えて、ネコをテーマにしたんです」

アイデンティティの危機

2000年代初頭、多くのレズビアンが性転換し、男性として生活するようになった。「当時のニューヨークは、レズビアン・バーの絶頂期でした。そこから突然、男役のレズビアンが姿を消しました」とギースキン。

レズビアンたちは、かつて女性専用だった空間で、にわかに変化しはじめた「性別」のダイナミクスに向き合わざるをえなくなった。そして、一部のレズビアンたちは「アイデンティティの危機」を経験する。かつて女性として生きていた男性は、レズビアン・バーに行けるのか? 女性から男性へと性転換したパートナーをもつレズビアンは、同性愛者なのか、それともストレートなのか?

ガブリエル・ストームは、フィラデルフィアのクラブ、シスターズの入口とバーカウンターで従業員として働いて2年経った2011年、性転換を手術を受け、男性として生活をはじめる。性転換前は男役レズビアンとして、友情、恋愛においても女性を好んでいた。彼がシスターズでの仕事に就いたのは、「同性愛の人たちにいつも囲まれているなんて天国みたいに素敵だとったから」で、その気持ちは今でも変わっていない。

しかし、シスターズの他の従業員たちにとっては、トランスジェンダーやジェンダークィアの入店を許可するのは難しかった。名前や、身分証に記載されている性別について意見したり質問したりする機会が増えた。ストームが性転換すると、シスターズで働くトランスジェンダーは2人目となった。多くの従業員や常連客は彼の性転換について難なく受け入れてくれたが、彼の新しい名前や性別を正しく理解するのに苦労した人たちもいた。「音楽が轟音で響くなか、いちいち『僕は今の名前も、「彼」っていう代名詞も気に入ってるよ』なんて説明している暇はありませんでした」とストームは当時を振り返る。

「(店として)ゲイ・プライドのパレードでの行進が決まりました。同僚と私は大きな横断幕を掲げていたんですが、ベテランのスタッフが私たちに向かってレズビアン・バーの横断幕を男2人が掲げるなんて認めない、と叫びました」と彼は回想する。「確かに理解はできます。男がいたら嫌ですよね。でも私は従業員です。ある程度の期間をそこで過ごし、人生の一部でもあるそこと距離を置かなければいけないんでしょうか」。レズビアン・コミュニティに居ながらにして性転換した彼らは、レズビアン・カルチャー、レズビアン・バーとは切っても切れない存在になる。

同時に、自らがレズビアンのスペースで受け入れられるのは当然、と主張するトランスジェンダーの女性が増えている。過去に固執し、厳格な「女性」の定義を力説しつづけるレズビアンもいるが、もっと多様なジェンダーのために「場」を発展させようとする風潮もある。クィア・バー、クィア・パーティーがレズビアン・バーにとって代わりつつある。

シスターズは2013年に閉店すると、フィラデルフィアからレズビアン・バーがなくなった。閉店当時、SNSは悲しみの言葉で溢れた。「バーがオープンした当時、皆はどこにいたんだろう、それしか考えられませんでした」とストームはいう。シスターズが閉店に追い込まれたのは、レズビアン・コミュニティの可処分所得の少なさと時代遅れの内装のせいだ、と信じている。

アメリカ全土で、クィアやレズビアンたちはレズビアン・バーが失われてゆくのを嘆いている。サンフランシスコ唯一のレズビアン・バー、レキシントン・クラブも、2014年に閉店した。ニューヨーク市には、4軒残っている。ブルックリンでレズビアン・バーについてのインスタレーションを展示したアーティスト、メイコン・リードによると、現在、「レズビアン・バーが残っている地域は、むしろ時代遅れのクィア理論、クィア文化を保持している、ひなびた地域」だそうだ。

それぞれの時代に、同性愛(あるいはクィア)の女性として「主流」の生き方があったが、それが「唯一」の生き方ではなかった。レズビアン・バーは常に、その客と同じくらい多様で、同じくらい問題を提起してきた。レズビアン・バーに対するノスタルジアは、シスターズが閉店したのは悲しいがそこで飲みたいとはもう思わない、とも表現できる。

『Rocky and Rhoda’s Lesbian Past』の共同製作者であるパフォーマー、アリエル・スピードワゴンは、当時まだ若すぎたため、クリト・クラブで踊ってもいないし、90年代のサンフランシスコで遊んでもいない。だからだろうか、レズビアンの歴史について「憧れというか、興味みたいなもの」があるそうだ。しかしノスタルジックな感傷については厳しい姿勢をとっている。羞恥、秘密主義、排他主義に侵されたレズビアンの歴史は、素晴らしいながらも、混沌としている。好意的に過去を振り返り、われわれは「すばらしい歴史を知ったからといって、先人たちと折り合いをつける必要はない」と彼女は断言する。