日本アメカジ文化の系譜 石津謙介&祥介 ー日本ファッションを作った男ー_top

Photo_Kazumi Kurigami

現在日本発のアメカジファッションが、世界中で高い評価を集めている。90年代に生まれたストリートブランドと呼ばれるブランドが黒人ラッパーや、世界トップのモードブランドのデザイナーを魅了している。また、岡山のデニム、眼鏡の鯖江など、その職人によるハイクオリティーな完成度が認められ、世界中のブランドからオファーが届くという現状がある。
イタリアで開催されているピッティ・ウォモ、ドイツのブレッド&バターなど、世界の展示会での注目度は年々増していることは各ファッションメディアで伝えられているかもしれないが、先日スウェーデンでセレクトショップを営む全身入れ墨だらけの青年と話す機会を得たのだが、アメカジへの入り口は『アウトサイダー』などの定番アメリカンムービーから入ったようだが、掘り続けていくうちに日本ブランドに辿り着き、そのショップの8割を日本のアメカジブランドで固め運営しているという。その理由はマッチョなイメージと繊細さを持つクオリティーだという。
一般的にアメカジといえば、アメリカ人のカジュアルファッションの略語のはずだが、どうやら日本人はそれをサンプリング&ミックスにより、アップデートし、今やアメリカよりもアメリカ然としたスタイル&アイテムを打ち出すようになっているように世界の人々には映るようだ。
この現状は、もちろん現代のデザイナーや職人の際立った才能とセンスがあってこそ認められているのだろうが、単純にそれだけでもないはずだ。そこには先人が紡ぎだしてきた文化の土壌、歴史があった上で、それを賞賛したり、反抗したりを繰り返し、今世界から評価を集める状況に至ったはずだ。
そこで、今回日本のアメリカンカジュアル、メンズファッションを築き上げてきた人々の話に耳を傾ける日本アメカジ文化の系譜 をお送りしたい。

戦後、日本文化を一から作り上げる過程で、VANという日本初のトータルファッションブランドを立ち上げ、様々な概念やスタイル、アイテムを生み出し定着させた故石津謙介氏について、その功績を謙介氏とともに成し遂げた長男である祥介さんに語ってもらった。アイビーファッション、TPO、トレーナー、スニーカーなど数々の文化を生み出し、現代でも定着するに至ったストーリーに迫る。

まず、VANをスタートさせる前、つまり謙介さんが、戦前の日本において、どのようにファッションと関わり合い、どのようなライフスタイル、趣向を抱いていたのかを教えて下さい。

石津謙介は岡山の紙問屋の次男として、1911年に生まれます。まあ簡単に言うと商家のボンボン息子で、大学の入学とともに上京するのですが、今でいう完全な軟派学生ですよね。時代でいうとモボモガ、つまりモダンボーイ、モダンガールと称された人々がカンカン帽に白いスーツという出立ちが流行し、謙介もそんなファッションにのめり込んだ青春時代を過ごします。大学卒業後、実家の紙問屋を継ぐという話になるのですが、時代は日中戦争へ突入する中、パルプが入らなかったり、統制法などで、紙が自由に売買できなくなった。つまり紙問屋を続けることが困難になります。お金持ちのファッション層、つまり鹿鳴館に出入りするようなヨーロッパの正当な社交場のスタイルに憧れていたモボモガが相当数いたのですが、物資が足りなくなったり、一億総国民服、男は軍服、女はもんぺという制服時代に突入していくので、ここでファッションの文化も一旦ストップします。謙介は紙問屋も続けることもできず、日本では働く場所がないということで、それならばと憧れの中国に5年間行くことになります。

日中戦争に突入する中、なぜ中国に憧れを持ったのでしょうか?

当時中国には、上海、天津、ハルピンに租界都市があったんです。つまり、アメリカ人、フランス人、イギリス人、イタリア人など世界中の人々が近隣に居住し経済活動を行うことが可能な都市があったんです。戦時中にも関わらず、競馬やジャズクラブがあったりで、遊び人の集まりみたいな側面もあった場所です。謙介は、欧米の文化に対する憧れが強かったので中国の租界都市に行けば、そんな人々の文化に触れられる、そんな思惑があり憧れていたんだと思います。そこで天津の租界都市に在住し、今のレナウン、当時の佐々木営業部という会社の肌着などを、日本人が経営してる洋品屋の仕事に就くことになります。謙介は様々な国の人と積極的に仕事をし、英語も習得してしまうなど、この時代に異国の文化に触れることになります。しかし敗戦後、いくら租界都市とはいえ中国人から報復される危険性が出てきて、日本に帰国せざるを得ない状況になります。日本に持って帰れるものはバッグひとつだけで、他の財産はすべて手放さなければならなかった。そんな切羽詰まった状況で初めてアイビーリーガ出身の人と出会います。それがアメリカ軍として、日本人の帰国の手続きに関しての仕事をしていたオブライエン中尉です。もちろん、さまざまな国の人にも影響されていたんですが、中でもこのオブライエン中尉との出会いは印象的だったようで、アイビーリーガの人々のファッションやライフスタイルについて根堀り葉堀り聞いていたようです。

日本に帰国後40年代後半から、一気にアイビーリーガの人々のファッションにのめり込んでいくのですね?

今の時代感だとそう思うかもしれないですが、実はアイビーファッションを打ち出すには、そこから10年以上の月日が経ったあとなんです。思想という面では、アイビーリーガというものへ憧れを抱いていましたが、敗戦後の時代背景です。日本に帰ってからは、天津で働いていた繋がりで当時のレナウンにまず入社します。そこでは、肌着やセーターを作ったりと、まだアイビーリーガのファッションをという段階ではありませんでした。

社会背景も含めて、実現するにはいくつもの課題をクリアしなくてはならなかったということですね?

そうですね。敗戦後ということもあり、日本の社会はまだまだ光が見えないトンネル時代でした。戦争の後遺症がもちろん続きます。洋服でいえば、戦中は一億総国民服という時代から、敗戦直後は、大学生までは全員詰襟しか着たことがない、社会人になっても親が作ってくれた紺の背広上下で1年中1着で過ごすという時代が続いていくことになります。だからこそアパレルブランドを立ち上げるというのも現実的ではなかったのですが、レナウンで2、3年勤めた後、1950年頃、そこにいた3人の同僚と独立しVAN JACKETの前身である石津商店を大阪で始めます。戦後5年くらいで、ようやく社会が上向きになっていきそうだということが感じられたんだと思います。

では、その当時アメリカの洋服も日本に輸入され、入ってきていたのですか?

石津商店を始めた頃はまだほとんど入ってないですね。軍の放出品が、御徒町とか神戸のガード下とか、中古品を中心に流れていました。いわゆる闇市です。闇市での情報や、駐留軍の軍人とその家族の生活ぶりや、アメリカのファッション誌、『メンズウエア』や『エスクワイヤ』などは手に入れることができました。世間にアメリカの文化というものが、少しずつ浸透していくことになります。戦前は英国が憧れの国。国会から政治のシステムから着るものまで。スーツはサビルローだし、とにかく憧れは英国でした。戦後トンネルがあけてからはアメリカを目の当たりにして、負けたはずのアメリカを、こんな国があるんだと、いっせいに日本中がアメリカを向きはじめます。音楽だってそうだし。マッカサーが下地を敷いたっていうのも大きかった。

では音楽や映画などのカルチャーは、どのようなアメリカの文化が浸透し始めていたのでしょうか?

50年代の音楽というとエルビス・プレスリーと連想する人も多いかと思いますが、我々にとってはちょっと後のイメージ。戦前ビッグバンド系のスウィングジャズと連動したダンスブームがあった影響で、トロンボーンのトミー・ドーシー、クラリネットのベニー・グッドマンなどへ憧れを抱いていたので、戦後はその流れで大人はモダンジャズですよね。映画ではジェームス・ディーンという印象が強いかと思いますが、当時は、ほとんど西部劇しか入ってきていない印象でした。やはり勧善懲悪的なストーリーの、日本でいう時代劇のような内容が親近感を持て分かりやすかったんだと思います。その頃のアイドルというとジョン・ウェインでしたね。ただ音楽も映画も、ファッションとリンクしていたかというと、日本ではそこまで関連性がなかったと思います。その後アメリカでは、マイルス・デイビスなどが、黒人なりにアイビーをアレンジしたスタイルを、エクストリームアイビーなどと呼ぶように、ファッションとの結びつきが感じられますが、日本ではまだまだ、ファッション、音楽、映画などが個別の文化として捉えられていて、多少ジャズとの連動感はありましたが、今ほど密接ではなかった時代です。

そんな社会状況の中、石津商店ではどういったコンセプト、商品展開でスタートするのですか?

コンセプトとしては、単品メーカーという色が強かったので、トータルで提案するブランドとしてのコンセプトは確立されていませんでした。アイテムとしては重衣料が中心で、テーラードジャケット、コート、スラックスなどを中心に始めます。その作り方も今からすると独特かもしれませんが、工場に作りたいものを発注するというのではなく、石津商店内にテーラーの職人を集めます。戦前はモボモガのためのスーツ、戦時中は国民服を縫っていたテーラーの人ですので、彼らが縫えるものからスタートしたわけです。お世辞にも、アイビーとは似ても似つかない紳士服からのスタートでした。戦前は、先にも述べたようにイギリスのサビルローをテーラー屋さんは目指していたわけなので、できるもの、縫えるものが限られていたわけです。

では徐々にアイテムラインナップが増えていくんですね。

そうですね。石津商店は単品メーカーだったけど、ニットや、シャツなどサイズに左右されないものも増えてきて、後半にはスタジャン、スウィングトップとかは作れるようになっていたし、テーラードジャケットでもアイビーと名付けた型も存在していたんです。その後、いよいよ石津商店からVANブランドとしてスタートするわけです。

石津商店からVANへの移行。ここで初めて日本のファッションブランドが誕生するのですね。経済白書で「もはや戦後ではない」と発表されたのが1956年ということを考えると、世の中は大分復興に向かっていたということですね。

はい。ただメンズのファッションというとまだまだで、未開拓の状態でした。トータルコーディネートやトータルイメージで提案するブランドは日本にはまだなかったと思います。シャツ屋さんはシャツだけを、帽子屋さんは帽子だけをという単品メーカーしかなかったんです。そんな中、ひとつのコンセプトを持った、ブルックスブラザーズのようなトータルイメージで打ち出す日本初のメンズブランドとしてスタートします。

VANがトータルブランドとしての道を歩むことを決意するに至った経緯を教えて下さい。

謙介はVANでモードやファッションをやろうとしていたのではなくて、日本人が世界基準の洋服が着られるようにしたい。つまり文化として日常の生活に密着した風俗を広めることをコンセプトとしていました。そこで、天津でオブライエン中尉から聞いた、そしてその後アメリカのファッション誌からインスパイアされたアイビーを打ち出すのです。風俗として日本人に洋服のいろはを広め定着させるには、まずはアメリカ人のみんなが着てる服、ベーシックなものを参考にして広めないとそれは叶わないと考えたからです。そこでアメリカンスタンダードと考えたときに、一番ちゃんとそれを体現し着ているのが、アイビーリーガであるという、着眼点を持ったんです。アイビーの人は上層階級。学生で言えば、そのほとんどが富裕層の若者だから、それを参考にするのがよかろうということでアイビーを紹介しようと考えたわけです。テイスト的にはジャケットスタイルが中心で何よりその特徴は、細身というシルエットだったのかもしれません。それまではダボっとしたシルエットだったんですが、ビシッとした細身のシルエットを提案します。もちろん今見ると野暮ったい部分もありますけどね。

日本アメカジ文化の系譜 石津謙介&祥介 ー日本ファッションを作った男ー_01

現在でも出版される『MEN’S CLUB』(婦人画報社、現ハースト婦人画報社)の記事。石津祥介さんがモデルとして、アイビーファッションを体現した記事。