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アメリカを起源としながら、世界からは日本のデザイナーが生み出すアメカジスタイルが評価されるという不思議な現象が起きている。ミリタリー、スポーツ、ワーク、アウトドアというソースをもとに街着として成熟させたこのスタイルは、どのような形で発展してきたのだろうか?
今回は1960年代石津謙介氏が定着させたアイビースタイルに続き、70年代ベトナム戦争の裏側で起きたヒッピーカルチャーと連動したアウトドアスタイルを、日本で提唱し根付かせた男をクローズアップ。現在当たり前のようにマウンテンパーカやマウンテンブーツ、バックパックなどが愛用されているが、それもこれもスポーツトレインの油井昌由樹氏がいたからの文化と言っても過言ではない。さらに、ここ数年モンクレールやウールリッチウーレンミルズなどにおいて、日本人が手がけるコレクションラインが発表されたりと、アウトドアをソースとした日本のハイカジュアルスタイルが、世界の市民権を得ているが、それもこれも先人たちが築いた文化があってこそ。
1970年代日本でアウトドアを確立した男、油井昌由樹氏のストーリー。

1947年神奈川県生まれということですが、物心がつく50年代後半から60年代前半はどのような幼少期を過ごすのですか?

父親が外科の開業医だったんだけど、それとは真逆というか、かなり開けた家だったんだよね。高校生の頃には、お袋が煙草をカートンで買っておいてくれたりね。一応医者の家だよ(笑)。しかもコンドームも一緒に買い置きされてて(笑)。普通に考えたら信じられないけど、そういう家で育つんだよね。また、横浜で育ったということもあって、屋台というか露店が近所に並んでいるわけ。おそらく米国の軍人、通称GIの人が着る用とか、軍の払い下げ品の露店だと思うんだけど、そこで売ってたA1みたいな皮ジャンとデニムパンツを中高生くらいのとき買ったのを覚えてるね、何の予備知識もなく。1960年代前半くらいかな。まだ日本でジーンズなんて一人も見かけなかった時代だから、かなり、ませた幼少期を過ごしたんだと思う。

雑誌や映画、音楽などはどんなカルチャーが入ってきていたのですか?

雑誌に関して言えば、ドイツの『ボーネン』というインテリア誌みたいな物が家にあったから、それは一般的ではないかもしれないけど身近にあったよね。後は、テレビでアメリカのドラマが放送され始めたのが59年くらいで、アメリカの文化がどっと入ってくるんだよ。『ルート66』とか『うちのママは世界一』、『サーフサイドシックス』だとか。俺にとっては『拳銃無宿』のスティーヴ・マックイーンだよね。そんなものを観てると、本当にアメリカを体験したような気分になれるほど、当時のテレビは強烈な媒体。音楽でいうと、カール・パーキンスとかが出ていた『マッチボックス』というロックンロールを中心とした音楽ランキング番組が気になってた。世の中ではロックが不良って言われる時代。ギターもダメ、エレキギターなんていったらもっと不良な時代だから。だけど、うちは、そういうことにも寛容な家庭だったんだよね。

確かに、お母さんがコンドームをストックしてくれる。今の時代に置き換えても、かなりぶっ飛んだ家庭ですよね(笑)。

そうだよね。バイトもしてたしね。七里ケ浜でコカコーラのバイトをするんだけど、近代サーフィンの父と呼ばれるデューク・カハナモクが4メートルくらいある大きなサーフボードと一緒に写っている写真を観て、なんだスゲェカッコイイって思っちゃて、建築現場にある足場の板とかを盗んできて、見よう見真似で削って、赤く塗っちゃたりして。それで海に入っても当たり前だけどすぐに沈んじゃう。仕方なくバイトで売っていたコーラを入れているアイスボックスのような容器の前に置くんだよ。そしたら女の子が寄ってきて、俺のコーラが、ものすごく売れて流行っちゃって。当時は下半身で物事を考えてますからね(笑)。

今も昔も若者は変わらないんですね(笑)。戦後は、もう少し硬派というか貞操観念が強かったというイメージでした。ファッションは、その後どのようなスタイルをしていたのですか?

ファッションに関しては、俺の場合はめちゃくちゃだったね。西部劇や西海岸のドラマみたいなものを、悔い入るように観てたけど、そのままウェスタンな格好はしてなかった。それこそVANの石津先生が提唱するアイビーは一時期ハマったよね。みゆき族みたいなブームは、俺よりひとつ上の世代にあたるんだけど、マドラスチェックのボタンダウンシャツにバミューダパンツ、髪型はシチサンで、細い傘持って、靴下はくるぶしから何センチじゃなきゃダメだとかやってた。その後60年代後半は髪が長くなってパンタロンだよ。まさにベトナム戦争に対する反戦、ヒッピーの時代になっていく。ただ、日本では70年代になるまでは、本当の意味で文化は開けてない印象が強いよね。

なるほど。60年代後半というと日本の社会情勢では学生運動が盛んになっていく時代ですね。油井さんも参加していたのですか?

俺が大学生の時は盛んだったね。ただ俺はまったく興味がなかった。ファッションに興味がある奴なんて、みんな女の子にもてたい、そればっか考えてるんだから。まさに正反対。全日本服飾連盟って全国の40校くらいが加盟していた団体の企画部長をしていて、ファッションショーやったりしてるわけだからね。オンワード樫山とかに行って予算を引っ張ってきたりして。その時が人生で1番稼いでいたかもな(笑)。サンケイホールでズー・ニー・ブーを呼んだりして、大妻女子の女の子にゴーゴーガールやってもらって、大流行り。パー券が飛ぶように売れてってやってたからね。だから、全共闘と自衛隊が神田で衝突してるんだけど、当時石畳になってる床を、全共闘は砕いて投げたりしていたから、警察が放送で、「危ないから逃げてください」なんて言ってる中、俺はベレットGTで「失礼」なんていって睨み合ってる真ん中を走り抜けていくわけ。ファッションばっかだったよね、もてたい一心。

やっぱりそこですよね(笑)。

ただ、その頃の友だちは全然会わなくなっちゃたね。当時みんなで電車に乗ってて、ちょっと混んでくると、サラリーマンに向かってでっかい声で「こんな生活できねぇよな」なんて言ってたやつが、3、4年になるとみんな就職活動し出して、普通に就職していくんだよ。そんなやつら信用できないでしょ。だから学校の友だちとは後半遊ばなくなっちゃって、それで赤坂の踊り場に入り浸るようになるんだよね。同時に横浜の踊り場にも行ってたよ。横浜はGIでも下級将校の黒人がほとんどなんだけど、レッドシューズとか、コルト45とか、イタリアンガーデンなどの踊り場に集まっていて。時代はモータウンだから、黒人音楽全盛。もちろん踊りもステップありきだから、全部黒人から習うわけ。それを覚えて赤坂に繰り出すんだよ。そうすると東京は上級将校で白人が多くて。そこで、覚えたステップを披露すると、みんな付いてきて、それが面白くて毎晩ムゲンとかビブロスとか当時できたばかりの踊り場に行ってたんだよね。68年から71年くらいの時代。ただ、ベトナム戦争が終息に向かうに連れて、だんだんGIの人がいなくなっちゃって。赤坂が電気のスイッチをオフッたように静かになっちゃうんだよ。

当然次の遊びに移行していくんですよね(笑)。

そうそう。そこで次は世界一周だよ。西洋かぶれでずっと育ってるからさ、赤坂にGIの軍人がいなくなって、じゃあ、どこに外国人がいるんだって考えたら、あっ海外ねって。それでGIを追っかけるように世界一周の旅に行くんだよ。最初はオランダに行こうと思ってて、当時はソ連の上空を飛行機で飛ぶと打ち落とされちゃう時代だから、北回りで行くんだけど、そうすると給油のためにアラスカに寄る。実際にアラスカに到着するその日、俺の人生の中で1番天気が良かった日だね。マウントマッキンリーの山あいが綺麗でさ。しかも六月、超白夜。いたるところがリアス式海岸になってるんだけど、そのどこの湾にも色とりどりの原色のボートが停めてあるように飛行機から見える。それが鮮やかで、ブルーとか赤とかオレンジとか、こんな光景絶対日本じゃ見れないからさ。それで段々空港に降りて行ったら、そのボートだと思っていたのがフロート付きの自家用水上機でさ、セスナだよ。もう絶対ここ行きたいって思っちゃて。アラスカはトランジットのはずなんだけど、アメリカのビザも持ってたから無理やり交渉して、飛行機降りるわけ。もう絶対ここ行くって。何が何でも降りるってごねたら降りれたんだよね。

ここで転機になるということですね。

そうなんだよ。カルチャーショックだらけでさ。景色はもちろんなんだけどさ、降りたら、あれ日本人ばっかじゃんって思ったらイヌイットでさ。なにせ、はじめての海外だから。とにかく何から何まで驚きながら、ホテルに行くんだけど、そしたらその隣にアウトドアショップというより、雑貨が多い今でいうスーパーがあって。ここで転機だよね。今まで履いていたパンタロンを脱ぎ捨て、リーバイスの501だよ、アメリカの生活にリアルに溶け込んでいるように感じられてワクワクしながら履き替えて、しかも、いきなりダンガリーでボタンダウンみたいなシャツを見つけちゃって着替えて、カウボーイがしてるやつねとか思ってバンダナ巻いて、ワッチキャップも被って、レイバンもかけてって、全部変わるんだよ。持ってたバッグも、今でいうバックパックだよね、背負子に変えたりして、ケルティーの。足元はワークブーツ。ソールは電気を通さないために厚みがあるビブラム社のもので、つま先にスティールが入ってるスティールシャンクというガチンガチンの8インチのワークブーツ。それに履き替えて。本当に全部変わるんだよ、ここで。

後のヘビーデュティーと呼ばれるスタイルの先駆けということですね。71年ということは、もちろんベトナム戦争の影響がアラスカにも広がっているんですよね?ヒッピーの文化が。

当然。特にアラスカ鉄道の終点のフェアバンクスって街で、それこそ北極圏に近いところがヒッピーたちの溜まり場で、みんなパンタロンに、髭ボウボウで髪長くて、裸の赤ん坊をリュックに乗っけて、奥さんとアラスカ鉄道で逃げてくるって時代だからね。それにも衝撃を受けちゃうんだよ。それもアウトドアにハマっていくきっかけになる。なんていったってヒッピーは徴兵に連れて行かれるのが嫌で逃げてるわけだから、当然家もないわけで。そうするとホームレス同然。だから、電気も何もない自然の中で、まさに言葉通りアウトドアで暮らしているわけだよ。やっぱり影響受けるよね。

なんか不思議ですね。軍人を追いかけて行くんだけど、軍人になりたくない人に魅了されるっていう。

本当だよね。でも、そこで一気に全部変わっちゃう。手に入れたそのままの格好でヨーロッパに行くんだけど、そしたら憧れていたはずの白人のお姉ちゃんやお兄ちゃんが、みんな俺が着ていたものを見て、「どこで買ったんだ、カッコイイじゃん」ってなって、「あれ、俺結構センスいいかもしんない」なんて思っちゃうわけ。自信ついちゃうわけ。勘違いするんだよ、若いから。それで調子に乗って、いろいろ買うんだよ、自分の目で見た感覚だけで。それが、ほとんどアウトドアの道具だったんだよね。東京では都会っ子で育っているから、日本のナタなんて知らなかったからだと思うんだけど、スタンレーのアックスなんかに出会って感動しちゃうんだよ、なんて美しいフォルムなんだって。見る道具すべてが本当に美しく見えたんだよね。もちろん、アラスカでのヒッピーとの出会いもあったけど、どちらかというと、道具の美しさからだよ、アウトドアに魅了されていくのは。

なるほど。一方でヨーロッパでは、当時どのようなファッションがトレンドだったのですか?

ファッションの中心は、レディースはロンドンのBIBAだよね、茶色の爪と茶色い唇みたいな、カジュアルでエッジィーなブティック。ロンドンは当時他にもツイッギーがミニスカートを世界的に流行らせたり、日本では化粧品が人気のあるマリークヮントとかが生まれた時代。だからロンドンにも行くんだけど、ポーターを作った吉田克幸、かっちんといっしょに部屋を借りて住んでたんだよ。かっちんとは最初ドイツで会うんだけど、当時日本の元町に通っているショップがあって、そこでドイツに行くなら常連でドイツにいるやつがいるから、訪ねてみたらってことで行くわけ。それで住所を頼りに行くんだけど、そしたらアパートの前で、あれ俺と似たような風貌のやつがいるなって思って声をかけたらかっちんで。それで意気投合して、その後ロンドンでしばらくいっしょに住むことになるんだよ。

では、その後は2人で世界一周に回るのですか?

いやいや、かっちんはそのままロンドンに残るんだけど、俺はその後またアメリカへ戻るわけ。ただ、いっしょに部屋を借りてるもんだから、毎週俺に手紙よこしてたよ、早く戻ってきてくれよって。だって当時1ポンド900円の時代で、アパートの家賃が週で9ポンドとバカ高いから、そんなの一人じゃ払えないよね。その後、一回もロンドンの部屋には戻ってないから(笑)。大変だったと思うよ。そんなかっちんを残してアメリカに戻って、ロスとかサンフランシスコとかに行くんだよ。それで本屋に行ったらホールアースカタログが山積みになっててさ。

スティーブ・ジョブスで再び脚光を浴びた、ヒッピー文化から生まれた伝説のカタログですね。

そうそう。やっぱり影響受けるよね。すげえな、この本って。それで行くんだよ、編集部に。そんときに高校生くらいのスティーブ・ジョブスがいたと思うんだよね。スティーブっていう子が来てたから(笑)、本当にジョブスだったかはわからないけど、でも、そういう編集部なんだよ。誰でも出入りできるデタラメっていうか、自由気ままっていうか。それで編集部のやつらと話してみたら、俺と同じ気持ちだって事がよくわかったよ。こっちはこっちで、すでに道具にダイレクトに出会ってるからさ。ホールアースカタログはのちに、日本でもバイブルみたくなるんだけどね。

日本アメカジ文化の系譜 油井昌由樹ーアウトドアを確立した男ー_01

ホールアースカタログについて、油井氏が寄稿した記事。