UKモッズシーンの成り立ちを紹介した第1回目の「日本MODS MAYDAY今昔レポート!!」に続き、今回は日本モッズシーンの牽引者であり、MODS MAYDAYの主催者である黒田マナブ氏のインタビュー。オリジナル・モッズ、ネオ・モッズ、日本のモッズ・シーンの違いや、シーン全体の方向性などを探る。

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日本MODS MAYDAY今昔レポート!! 02.主催 黒田マナブ、インタビュー

UKモッズシーンの成り立ちを紹介した第1回目の「日本MODS MAYDAY今昔レポート!!」に続き、今回は日本モッズシーンの牽引者であり、MODS MAYDAYの主催者である黒田マナブ氏のインタビュー。オリジナル・モッズ、ネオ・モッズ、日本のモッズ・シーンの違いや、シーン全体の方向性などを探る。

オリジナル・モッズ、ネオ・モッズ、日本のモッズ・シーン。それぞれが同じモッズであり、決して相容れない異なる文化でもある。「日本MODS MAYDAY今昔レポート!!」第二回目は、日本でモッズ・カルチャーが浸透した経緯、変遷、そしてロンドンと日本のモッズ・シーンの違いを、MODS MAYDAY主催者である黒田マナブのインタビューと、81年より続くイベントのアーカイブ写真とともにお送りしたい。

Photo By Keisuke Nagoshi(Commune Ltd.,)

まず、黒田さんとモッズとの出会いについて教えてください。

当時中学生だった1977年、78年頃に、THE JAMに出会ったのがキッカケです。パンクムーブメントの中でTHE JAMが出てきて、ひときわ目立っていたのが、すごく印象的でカッコよく映ったバンドでした。THE JAMを聴き進めるうちに、「モッズ」という言葉だったり、それにまつわるいろいろなものが聞こえてきてました。興味を持ち始めたとき、ちょうど『Quadrophenia:さらば青春の光』が79年に公開されて、それを観て一気にハマっていきました。

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イギリスでは、いわゆるネオ・モッズというカルチャーがリアルタイムで流行っていた時期ですね?

そうですね。オリジナルモッズは64年から本格的にはじまり、60年代後半には一回落ち着いて、その後10年後くらいにリバイバルしてます。イギリスではモッド・リバイバルという時代背景だったのですが、日本においては60年代のイギリスカルチャーがそれほど入っていなかったので、リバイバルの感覚ではなく、当時の空気感をふんだんに持った新しいカルチャーとして届いてきた印象でした。

イギリスではパンクムーブメントが同時代で起こりましたが、パンクではなくモッズに惹かれた理由は?

モッズを知る前は、BEATLESや、T.REXや、60年代のポップスに興味があったんです。『アメリカン・グラフィティ』が少し前に公開されていて、劇中で流れる60’sの音楽にもすごく興味があって、それがモッズの音楽にも通ずると感じられたんです。また、パンクの様式美よりもモッズの様式美の方がすんなり入ってきたのもあります。当時のイメージとして、パンクは「全部ぶち壊してしまえ」みたいなイメージに対して、モッズは「何か創っていこう」といったイメージがすごく伝わってきて、興味を持ったんだと思います。

様式美という話がありましたが、モッズのどういう様式美にひかれたのですか?

単純に、THE JAMのファーストアルバムのジャケットが黒いスーツに、白黒の靴に、黒いネクタイという3人の姿、スタイルがピンときて、それが今までになくてカッコ良かったんです。若者がサラリーマンとは異なるスーツを着ているのが新鮮でした。あと、映画の中に出てくる60年代のファッションも、すごくカッコ良かったですね。

モッズカルチャーに傾倒していた人は、当時どこで情報共有していたのですか?

唯一集まる場所が、『Quadrophenia:さらば青春の光』の映画が公開されている会場でした。公開自体はそれほど長くなかったんですが、そのあと小さい単館系の映画館が持ち回りで公開したり、学祭で公開されていたので、そういった会場に行ってました。THE JAMも80年から毎年来日していたので、そのコンサート会場で、他のモッズに会ったりしながら、次々、「この映画があるよ、みんな集まれ」や「行かない?」みたいな話で、はじめは5人~10人だったのが、どんどん増えていきました。同時に、THE JAMのファンクラブや、THE WHOのファンクラブに集まってる人たちのコミュニティーがあって、そこで知り合い集まっていった感じです。

70年代後半にモッズを知り、様々な人とコミュニティーをつくり、その後81年には自分たちのイベント、MODS MAYDAYを始めてますよね?

そうですね。きっかけはMODS MAYDAY79という、モッド・リバイバルの中、ロンドンで行われたイベントがあったんですけど、それがSECRET AFFAIRとか、モッド・リバイバルのバンドたちが中心になってやってたんです。そのレコードが日本にも届いて、それにインスパイアされた東京のモッズや、UK音楽が好きな連中がMODS MAYDAYというのをやってみようというので集まって、小さなライヴハウスでスタートしました。それが81年です。

当時からランブレッタやベスパで街を走って、音楽イベントに行く形態だったんですか?

いや、スクーターに乗っている人はほとんどいなかったので。僕は81年に最新型のベスパを買って乗っていたんですが、他の人でスクーターに乗っていたのは、1人、2人の世界でした。映画館に行くときや、集まりがあるときは乗って行ったんですけど、スクーターで集まってどうこうっていうのは、もうちょっと先になります。

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では、スクーターランはいつから始まったんですか?

83年、84年かな? MODS MAYDAYの4回目を新宿のRUIDOでやったときに、スクーターが5、6台集まったんですね。MAYDAYの会場にスクーターが並んで、みんな興奮して。それでMAYDAYが終わったあとに、じゃあランに行こうってなって。ただその頃は、イベントとして恒例でやっていたのではなく、集まればいっしょに走るといったスクーターランだったんですが、現在のようにMODS MAYDAYのオープニングとしてはじまったのは、CLUB CITTA’に移ったタイミングです。イベントの会場が川崎に移ったこともあり、みんなでスクーターで会場まで行く。それがMAYDAYのスタートだって銘打ってはじめたのが、90年です。

なるほど。では81年当時のファッションは?

スーツの上にM51のパーカを着て、デザートブーツが基本ですね。リーバイスのGジャンを着ている人もいました。フレッドペリーを探すのも大変な時代だったので、代用品として他のブランドのポロシャツにジャケットを着るといった人も多かったです。

現在は梅ヶ丘の並木がモッズの人々がスーツを仕立てる有名なショップですが、当時から並木でスーツをつくっていたのですか?

いや、並木が出てきたのは80年代後半ですね。それも、世田谷に住んでる子たちが、たまたま並木でつくっていただけで、特定の良さそうな店はなかったので、僕は神田の洋服屋さんでつくったり、いろいろなテーラーを回って、探して、足を運んで、つくってました。むちゃくちゃなスーツになって失敗したり、いろいろでしたね(笑)。

ラペルが細くVゾーンが狭い、細身のシルエットなど、ビジネススーツとは異なるからこそ、既製品では対応できなかった、ということですか?

そうですね。あとは、渋谷にも古着屋さんがあったので古着のジャケットは買ってました。60年代のイギリスの人たちが着ていたスーツは、着丈が長かったり、サイズが大きくて僕らには合わなかったのですが、仕立てがしっかりしてたし、生地やディテールもきっちりしてたので、そういうのを直しながら着てました。あとは、VANのジャケットだったり、トラディショナルなもので代用もしてました。ただ、やはり映画のシーンを真似てスーツをつくりにいくのが、すごく楽しみで、それも1個のライフスタイルというか、モッズにとっては今でも欠かせないものです。

モッズとして黒田さんにとっての、ベストなファッションとは?

ファッションに関しては、時代、時代ですごく変わっていくもので、今自分的に何が1番ハマるか、今の自分が欲しているものが、今のベストという感じですかね。

例えば、今日はグッチのビットモカシンを履いてますが。

明確なお手本ではないですが、ポール・ウェラーのファッションはすごく参考にしていて、その影響が強いと思います。

レーベルやファンジンの話も伺いたいです。黒田さん自身もレーベルやファンジンをつくっていますが、そのスタートの経緯を教えてください。

僕らのリアルタイムである80年代のモッド・リバイバルにおいて、イギリスの人々の活動が、すごく刺激的で。ほぼほぼ、彼らもDIYでレーベルを作って、イベントをやって、ファンジンを作ってと、その一連の活動がモッズシーンを進めていたので、僕もやってみたいなと。その頃、ファンジンに詳しい子たちや、ロンドンのカルチャーに詳しい人たちが周りにいたので、そういった人たちに手伝ってもらいながら、まずはファンジンや、ニュースレターみたいなものをつくり始めました。とにかく、「モッズはこんなに素晴らしいんだ」とか、「この日本がどれだけくだらないか」とか、「もっといい街にしよう」とか、そういったメッセージをどうしても伝えたかったです。自分のバンド自体もメッセージ性の強い歌を創っていたんですが、歌うだけでは物足りなくて、日々何かを伝えたくてしょうがなかったです。それで、ものを書き始めたり、ファンジンをつくり始めました。レーベルに関しては、ロンドンの先人たちが、自分たちのレーベルをつくったり、あとは2トーンの影響を受けて、やっぱり東京のモッズに特化したレーベルをスタートしないといけないんじゃないか、と何組かのバンドでお金を持ち寄って、1枚目のシングルを創ったのが始まりです。

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そんな音楽、スクーター、ファッション、ファンジン、レーベルなど、日本のモッズカルチャーのひとつの集約としてMODS MAYDAYがあるのですね。MODS MAYDAYの歴史を教えてください。

84、85年くらいまではライブハウスに4、5バンド集まって、普通にライブ形態でやっていました。80年代後半に、クラブシーンの黎明期が訪れると思うんですが、そういう流れもありMAYDAYでもターンテーブルを持ち込んだり、DJカルチャーも取り込みました。もともとロンドンにしても、モッズはクラブを渡り歩いて、レコードをかけて楽しむ文化であるので、80年代半ばから後半にかけて取り入れました。MODS MAYDAYの中でもバンドがいて、DJがいるスタイルで、ダンスを踊るのをすごく重要視して、みんなでそういう場所、空間を創っていこうと意識していました。

スクーター・ランの話でも聞きましたが、90年代から川崎のCLUB CITTA’に移るんですよね。

はい。クラブシーンとモッズシーンがどんどん近寄っていって、ナイトクラブでも、モッズのイベントがあったり、オールナイトで遊ぶ機会も増えたので、MODS MAYDAY自体も、夕方から朝までオールナイトでやるようになって、それが未だに続いています。「昼間のイベントにシフトしてもいいんじゃないか」という声はあるんですが、スクーター・ランから始まり、バンドがいて、DJがいて、ダンサーが集まって、オールナイトで楽しめるイベントとして、未だにやっています。それを基本軸に時代、時代で、ファッションショーを組み込んだり、『Quadropenia:さらば青春の光』の上映会を併設してやったり、ヘアショーをやったり、東京のモッズカルチャーに纏わる模様しごとをミックスして、みんながより楽しめる空間を創るために、いろんなアイデアを出してやってきました。今年は原点に戻り、ストレートにモッズカルチャーを深く伝えたかったので、モーガン・フィッシャーによるトークショーを途中に差し込んだように、毎年新しくてみんなが楽しめることを模索しながら運営しています。

MODS MAYDAYで特に印象に残っている出来事は?

特にというわけではないですが、MODS MAYDAYやモッズの在り方を象徴しているのは、ギャズ・メイオールを日本で最初に呼んだことですかね。当時は、日本のモッズシーンの中に、まだスカが根付いてなかったんですけど、ちょうどCLUB SKAが始まったり、THE SKA FLAMESの前身バンドができ始めたのと同じような時代です。ロンドンに行って、モッズシーンをいろいろ観てきた子たちが、「今、スカがすごく流行っている」、「スカで、いろんなカッコ良いバンドがいる」という情報を持ち帰ってきたんです。もともと2トーンの人々とは仲が良かったんですが、スカの人々とは日本では別々のシーンだったんです。音楽好きのなかで交流があったと思うんですが、僕らは2トーンしか知らなかったんです。そこに「オリジナルの60年代のスカがあるとか」、「オーセンティックなスカ」っていう言葉をロンドンから持ち帰ってきて。それらを持ち帰った子たちが、ギャズ・メイオールというDJがいる、という噂を聞きつけて体験をしてきたんです。「じゃあ、東京に呼べないか」と、そのときSMASHの日高正博さんが、ギャズと交流を持っていて、「じゃあ、MAYDAYでギャズ・メイオールを呼んだらどうだ」となったんです。それと一緒にPOTATO 5も呼んだんです。

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ギャズを最初に呼ぶことに意義があると。

そうですね。それが初来日だったんで。モッズにとって何が重要かって、現在スカで有名なギャズ・メイオールが、1回目の来日でMODS MAYDAYに出演した事実が重要なんです。当時から、モッズはとにかく最先端をいく、誰よりも先に「何か」をする、それがモッズにとってはすごく大事な要素なんです。

そんなMODS MAYDAYがスタートして以降変わらないコンセプトがあったら教えてください。

3回目の83年のときに、MAYDAYをやる人がいない事態になって、自ら手を上げてやるようになったんですが、やはり年に1回モッズが集まるイベントを、スペシャル感があって、みんなが楽しめてみんなの笑顔が見れる、その時間帯その日だけは空間が小さくても自分たちのマイワールドがそこに存在できるような場所にしていきたいです。そんなコンセプトは、始めた当初から未だに変わらず、大切にしています。

では日本のモッズシーンについて、以前と今で大きく変化した事柄はありますか?

モッズが日本に入ってきてから、30年以上経ってしまっているわけで、モッド・リバイバル自体がもうすでに古い昔の話になってしまっています。一方で、月日が経った分、ロンドンとは別に東京は東京で、モッズシーンやモッズカルチャーがしっかり根付いたと思ってます。もちろんロンドンのシーンとは、まるっきり別のものでないし、同じことを考えている部分はあるはずです。ただ、その土着的な日本に合ったもので進化していっている、と実感できるんです。日本では90年代がモッズシーン的にはピークを迎えた時期であって、その90年代から、徐々に集まる人数や、シーン自体がどんどん縮小しているんですけれど、その中で、「音楽自体のパワーが今の若者たちに届いているんだろうか?」と疑問に思い改善しなくてはならない問題がたくさんあると気づきます。ただ自分たちにとっては、よりライフスタイルというか、より生活に近づいているというか、モッズカルチャーが不可欠なものになっている実感はあります。今まではモッズたるものみたいな、こうすべきといったモッズの概念に対して背伸びをして取り組まなければいけなかったのが、日本、東京といったところに根付いていくにつれて、モッズであることを日々自然体で送ることが、すごく楽になったのかな、という気がしますね。

モッズはイギリスの労働者階級の人々が、どうあがいても覆せない階級社会に対しての反発としての文化です。それに対して、日本ではイギリスほど階級社会が強くありません。ファッションや音楽、スクーターなどはモッズとしての姿勢を貫けますが、精神性や生活環境に関してはイギリスのモッズをどうしても理解しきれない部分があるはずです。そんななかで日本のモッズの人たちは、イギリスとは異なるどのような精神性のもと、理想の社会を築くことを目標としてきたのですか?

時代背景的に、日本のモッズ自体が始まったのが80年代で、イギリスでは差別問題であったり、アイルランドの問題や、政治の問題など、東京の問題も勿論ですけど、最初はイギリスの時事政治の問題にすごく興味を持ちました。そのうち、東京で暮らしていくうえで、労働者階級やイギリスの人々が抱えている問題は想像でしかないし、理解できない部分だと感じるようになります。ちょうど僕らの世代では日本でも、学生運動の名残ではないですが、自分の先輩たちも時事政治の問題に向き合っている姿を子供ながら見てたわけで、政治的なことに関わっていくことは、モッズであると同時に、80年代を生きてく上ではすごく大切なことだったんです。何かアクションができたのか? それは置いといたとしても、興味を持っていたのは事実です。ちょうど思春期から大人になる頃で、ファッションやカルチャーに興味を持つのは、同時に自分が何者であるかを探していた時期でもあるんですが、そのためには政治的な問題に関心を持つことも同じように重要な問題だと感じていました。だからこそ、日本は日本で、東京は東京で、労働者階級から立ち上がったではないかもしれないけど、時代ごとに「何か」に向かっていく問題意識を持って繰り返し活動できてるとは思います。未だに持ち続けてるモッズカルチャーの重要ないち部です。

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では現在の日本のモッズシーンを改めて俯瞰してみた時に、ロンドンとは異なる日本独自のモッズカルチャーを教えてください。

今、僕が感じているロンドンのモッズカルチャーが、年をとったモッズたちが、お金に余裕ができて、いろんなものが手に入る環境で、すごく趣味的なモッズだという声が、多く聞こえてくる気がしていています。だけど、東京はそれとは別で、まだストリートに根付いていく、若者をどんどん取り入れていきたい、という思いがすごく強いので、そういった懐古趣味だったりとか、一部の裕福な人たちのものになっていくのだけは避けたいです。だから、今回のMAYDAYも90年代から2000年にかけてはCLUB CITTA’のような大きい場所で、マスメディアに訴えかけて、どんどんどんどん大きくしていこう、広めていこうとする動きが強かったんだけど、数年前から、そうすることで失ってしまったモッズのコアな部分、モッズの1番カッコ良かった部分、僕らが1番憧れていた、声をかけづらいし、近寄るのもちょっと怖かったり、そういったコアなカッコ良さみたいなものを大切にして、そこを見せていかないと始まらないんじゃないかと実感しているんです。だからこそ、大切なものをもっときちっと伝えていこうと、今回MAYDAYが始まった頃から馴染みのある、新宿の歌舞伎町に戻ってきて、ストリートに根差したところで、もう一度そこからスタートしたかったんです。昔から遊びに来てる連中とか、今ストリートカルチャーで力を持っている人たちも多いので、そういった人たちの協力も得て、今回、新宿歌舞伎町で、ああいった形で素晴らしいイベントをできたんだ、と思っています。