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書斎の小林俊之記者

小林俊之さん(62歳)は、事件一筋30余年のベテラン記者だ。写真週刊誌全盛期のフライデーでの活躍で知られている。小林さんは事件記者の仕事を「酒でも飲まなきゃやってられない」と言うが、ただの酒飲みにも見える。そんな疑念を抱きつつインタビューした。果たして、殺人事件という究極の修羅場を取材し続けた男の、心の深部まで近づくことができたかどうか……。

小林さんは経歴が少し変わっていますね。まえがきによると、酒を飲んでいて知り合った記者に誘われたのがこの道に入るきっかけだとか。

結婚して西武線沿線に住むようになって、駅前のスナックで雇われマスターをやっていました。店にはヤクザも来るんだけど、俺はまだ若かったからバカにされてさ、神経がまいっちゃった。それで水商売をやめて堅気になろうと、町場の印刷所に入りました。仕事が終わると毎晩飲みに行って、モツ焼屋で週刊女性自身の記者の松崎博和さんと知り合ったんです。田中角栄を陰で支え“越山会の女王”と呼ばれた佐藤昭の取材の他、たくさんスクープを出した人です。すぐに意気投合して、銀座のクラブにも連れていってくれました。俺はまだ24歳だったから、記者って凄いなと舞い上がっちゃいましたよ。ある日、「記者にならないか」と言われましたが、俺はそのときフリーランスでやっていく勇気がなかった。結局、松崎さんを頼ったのはその5年後なんです。俺が3人の子持ちになっているのに驚いてましたが、「しゃあねーな。俺の下でデータマンやってたことにしておけ」と言って、ある編集プロダクションを紹介してくれました。そこで1年半ぐらい週刊大衆の仕事をしたんです。

経験者として入れるようにしてくれたんですね。試験はありましたか?

「作文ぐらい書けないと記者にはなれんぞ。なんでもいいから書け」と言われて書きました。覚えてないけど、お題はあったかな。

話は前後しますが、ご出身は北海道ですよね。

稚内の南の天塩郡、酪農家が多いところです。本当に僻地でさ、俺がいた町は人口が3500人ぐらい。中学生のころは上級生とばかり遊んでました。そいつら家は金持ちなんだけど頭が良くないから旭川の私立高校に進学して、ワルさを覚えて地元に帰ってくる。そんな悪い先輩たちに教えられて、タバコもシンナーも中学からやっていました。

シンナーは気持ちいいもんですか?

気持ちいいというか、丸一日記憶が飛んだこともあります。実の父親は公務員で俺が3歳のときに亡くなったんですが、おふくろは若かったので血のつながっていない親戚の年下の男と再婚しました。子供の俺たちが3人きょうだいだったから、育てるためにまわりがくっつけたんでしょう。新しい父親は大工だったから家にシンナーはごろごろしてました。金物屋にもあったし、いまと違って簡単に手に入ったんです。ちょうどシンナーで死ぬ子供が出始めたころで、社会問題なっていました。地元にもボンドでおかしくなった先輩がいて、小さな学校だから大変でした。それでシンナーはやめていたんだけど、高3のときに久々に同級生と吸いました。そしたら女の子にチクられちゃった。一緒にやってた仲間はみんな運動部で、野球部のキャプテンもいたから、バレると大会に出られなくなる。俺は美術部だったからひとりでやったことにしたんです。校長は退学させたがったけど教頭以下みんなが味方してくれて無期停学になりました。

減刑されてよかったですね。

無期停学だったけど毎日午前中は学校で作文を書かされました。

また作文ですね。文章で伝えるコツは作文で摑んだとか?

それを言うなら作文より日記です。中学生のときから62歳のいままで日記をつけてます。不良少年だったけど、タバコやシンナーを吸って見つかっては反省して、「なんて俺は弱い人間なんだ」とか日記に書いていました。キリスト教の懺悔のようなものです。今回の本は日記がないと書けませんでした。読めば、いつどこに取材に行き、何があったか全部わかりますから。

週刊大衆の「男と女の死角」のデータマンをされていたときのことをお聞きします。作家たちの厳しい要求に鍛えられたと書かれていますが、具体的にはどんな要求でしたか?

例えば、富山で起こった事件のデータ原稿を渡したときに、「小林君、富山駅を出て振り向いたら立山連峰見えた?」と聞かれたことがあって、これが作家の眼かと感心しました。人物の風貌や格好はもちろん、景色に至るまで作家さんがイメージできるディテールを求められるんです。容疑者の家がボロかったとしたら、「トタン屋根は錆びてた?」と聞かれる。作家さんに言われたことは、その後の記者人生の肥やしになりました。この本でも宅間守のオヤジの格好を書いているでしょ。週刊大衆のころからの癖なんです。

〈半袖の白シャツに明るいブルーのジャンパー、薄い生地のナイロンのジャージ姿は、この前と同じだった〉となっています。では、附属池田小事件からお聞きします。小林さんはフライデーの記者として犯人の宅間守の父親を兵庫県伊丹市の実家に訪ねます。〈宅間守を知るためには、この父親と語りたいと思った〉と書かれていますが、どうしてそう思いましたか?

加害者側の取材対象は宅間のオヤジしかいなかったんです。オヤジがマスコミの前に出た理由は、自分の妹を取材攻勢から守りたかったから。どこの取材班もオヤジの妹さんが近くに住んでいることを知っていました。いまは犯罪になるけど、当時は他人の戸籍謄本を簡単に取れたんです。妹さんはたまったもんじゃない。それでオヤジはマスコミに、「取材は全部受けるから、妹のところには行くな」と言ったんですよ。はじめ俺は被害者担当で、葬儀をまわって被害者の写真を捜していました。担当が変わって宅間の実家に行ったのは事件発生の4日後です。最初にオヤジを見たときは下着姿でわーわー言ってるから、大丈夫かな? と思いました。他の取材班が帰りはじめたとき、「お父さん、ちょっと話聞きたいから今晩行っていい?」と聞いたんです。「何時でもかめへんで」と言うから、19時すぎに行きました。奥さんは老人ホームに入っていて、オヤジは一人暮らしでした。その日は事件のことは一切話しません。オヤジは社会党の支持者で労働組合員だったことや、同じ鹿児島県出身だから好きなのか、明治時代の海軍大将の東郷平八郎のことなんかをべらべら喋っていました。「わしの頭はコミュニストだが心は右翼だ」なんて言ってましたよ。俺の実の父親が海軍の少年飛行兵だったことを言ったら、オヤジは戦争の話が好きだから乗ってきたんです。これはイケると思っていたら案の定、「明日来る?」と帰り際に聞いてきた。次の日は夜の12時に行って朝6時までいましたが、初めて事件の話を聞きました。そうやって取材を繰り返すうちにオヤジの家で一緒に酒を飲むようになって……。

最初から飲んだわけじゃないんですか?

飲んだのは数日たってから。あのころオヤジは憔悴しきってげっそりしていました。あとから聞いたけど、1カ月で10キロ近く痩せたそうです。お茶しか飲んでなかったから。「しんどい」と呻いているので、「オヤジ、ちょっと待ってくれ。30過ぎた男が事件起こして、親がそこまでやる必要あんのかよ」と言ったんです。オヤジは「そうか」とだけ答えました。それで朝方に飲みはじめたんだけど気がついたらべろべろになっちゃった。朝、集まった取材陣の前でオヤジが「フライデーの記者と飲んじゃったよぉ」と言うからヤベェなぁと思ったけど、言ってしまったものはしょうがない。肚を括りました。すぐに文藝春秋社が難癖をつけてきました。「フライデーの記者が、こういう事件を起こした犯人の父親とビールを飲んで、いかがなものですか?」と。

そりゃそうなりますよ。

事件直後のフライデーは守が買ったデリヘル嬢の独占インタビューを載せました。その女からタレコミがあって、大阪の記者が取材した記事です。オヤジは「さすがフライデー」と嬉しがってました。その後、横顔ならいいと言うので撮影して、オヤジの顔写真が初めて雑誌に載ったんです。フライデーに負け続けの前提があったから、文春はじめ他社は面白くなかったんでしょう。

バッシングに対するフライデー編集部内の反応はどうでしたか?

「ふざけんな、バカ」「悔しかったらやってみろ」ってなもんです。

事件から十数年経過しましたが、この本を書くことを宅間の父親に知らせましたか?

事前に電話で説明したら、オヤジは「書くのかぁ」と悲しそうな声で言いました。オヤジは前から「俺が死んでから書けよ」と言っていました。だから、オヤジが書くなと言ったことは書いていません。オヤジの奥さんはもう亡くなりましたが、裁判でも彼女の証言は一切とれていないんです。書けないぐらい酷い話があります。それはオヤジが亡くなっても書けないでしょう。