いまなお沖縄戦のトラウマに悩まされる老人たち 蟻塚先生の診察室からの報告

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いまなお沖縄戦のトラウマに悩まされる老人たち 蟻塚先生の診察室からの報告

眠れない。死体の匂いがする。死んだ人の顔が見える。足の裏が熱い。寝ていると体を触られた感じがする。戦争の記憶が70年以上たった現在も沖縄のお年寄りの多くを苦しめている。生き残った自分を責め続けている人もいる。これで平和になったと言えるのか。どうしたら忌まわしい記憶から解放されるのか。沖縄と福島でトラウマ治療に取り組んでいる蟻塚亮二医師に話を聞いた。

沖縄戦を体験したお年寄りに、不眠や幻覚など、さまざまな精神症状が現れている。死体の匂いがする。死んだ人の顔が見える。歩けないほど足の裏が熱くなる。夜寝ていると体を触られている気がする。風景が白黒に見える──。6月23日の慰霊の日が近づくと不眠を訴えるお年寄りが少なくないという。雷や花火、米軍機の騒音がフラッシュバック(記憶の再体験)の引き金となることもある。

精神科医の蟻塚亮二さんは自宅のある仙台と福島と沖縄を行き来して、震災と原発事故、沖縄戦のトラウマに苦しむ人々の心のケアに取り組んでいる。
そんな蟻塚先生を沖縄市の病院に訪ね、診療の様子を見学後、インタビューした。蟻塚先生は森の奥深くに棲む、伝説上の賢人のような風貌だった。
診察室を訪れたお年寄りたちは蟻塚先生の前で、これまで家族にも打ちあけなかった戦時の忌まわしい体験と、その記憶が引き起こす症状を赤裸々に語る。彼ら彼女らは、いまも戦(いくさ)のなかを生きているようだった。しかし、診察室を出るときには皆一様に、なんだか気が晴れたような、少しはにかんだような顔になっていた。

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蟻塚先生が沖縄で診療するようになったきっかけと、沖縄戦のPTSD(心的外傷後ストレス障害)を見つけたときの状況をお聞かせください。

もともと私は青森の病院にいましたが働きすぎてうつ病になりまして、退職することになったんです。それを知った友達が誘ってくれて、2004年に沖縄に来ました。そして5、6年たったころ、那覇市の病院で、奇妙な不眠の患者さんを見つけました。夜中に何回も目が覚めて、それがずっと続いている。今日の患者さんにも同じ症状の方がいましたよ。こういうタイプの不眠症はうつ病からくることが多いのですが、うつ病のサインはまったくありませんでした。私はそのころ、戦争のトラウマによる精神症状に関する論文を20本ぐらい続けて読んでいました。偶然そのなかに、私が診療した患者さんたちと一致する奇妙な不眠について書かれたものを見つけました。アウシュビッツから生還した人たちの何十年後かの精神症状に関する論文でした。それを読んで私は患者さんたちに、「沖縄戦のとき、どこにいましたか?」と聞いてみたんです。すると、家族と一緒に死体の山を踏みながら走って逃げたとか、そんな話がたくさん出てきた。さらに、そういうメンタルなストレスが原因で晩年に障害が出ていないかを調べたところ、不眠やフラッシュバック、パニック障害、解離性障害などが、10カ月で100例ほど集まりました。

それまで普通に暮らしていたのに晩年になって障害が現れるということですが、何か引き金になるような出来事があったのでしょうか。

戦争のPTSDなので、引き金になるものは戦争に匹敵する刺激ですよね。ところが日常生活のなかでそんな刺激はめったありません。では何が引き金かというと、例えば、肉親との死別。健康に関する危機感──体調がすぐれなくて医者に行ってCTを撮ったら脳梗塞と言われたとか。あるいは、ずっとやってきた仕事を辞めたとか。つまり自分を支えてきた何かが壊れたときにバランスを失って、過去の古い記憶が飛び出してくるんです。

蟻塚先生のところに来られる患者さんには、どんな障害がみられますか?

70歳のときに息子さんが亡くなったのがきっかけで眠れなくなった女性がいました。病院でうつ病と診断されたんですが、なぜか腰に力が入らなくなった。それで整形外科に行ったら腰椎の圧迫骨折だと言われて車椅子生活になっちゃった。私のところに来たのは体が効かなくなって8年後でした。戦争のトラウマが原因だろうと見当がついたので話を聞いたら、沖縄戦で艦砲射撃のなかを親に連れられて逃げた経験があることがわかりました。読谷村や座間味村の、いまリゾートホテルが建っているあたりを、死体を踏みながらさまよって、それはそれは大変だったそうです。だいぶたってから聞いたのですが、不眠だけじゃなく、幻聴、夜中に寝ていて誰かに足を触られる幻覚、死体の匂いのフラッシュバックもありました。戦争記憶による身体化障害です。その人は1年半ぐらいで治りました。いまでもたまに顔を見せてくれますが、杖も使わずひとりで歩いてこられます。
奇妙な不眠と死体の匂いのフラッシュバックはよくあるんです。耳鼻科に行ったけど原因がわからなくて私のところに来られたある男性にも、やはり死体を踏みながら走って逃げた経験がありました。私が診る数年前のカルテには、毎年8月ごろになると不眠と死体の匂いに悩まされると書かれていました。極めつけは、大相撲の中継とかで日の丸を見ると体がざわざわと戦慄する。日の丸に体が反応するほど戦争嫌いなんです。なにしろ1950年代の普天間で米軍が住民を強制排除する現場にいて、お兄さんと体と体を縛って座り込みをやった人ですから。この人も治ってしばらく良好でしたが、法事に来た親戚の方が戦時中の話を熱心にするのを聞いてしまって、その日の夜からまた不眠と匂いのフラッシュバックが起きるようになりました。
足の裏が熱いと言う学校の先生がいました。小学生のころは級長を務めて、当時は軍国教育ですから天皇のために死ぬんだと言っていたそうです。とても真面目で優秀な人だった。ところが沖縄戦が始まって、家族と壕に避難していると、ひとりの日本兵が迷い込んできた。かわいそうに思っておにぎりをあげたそうです。次の日は朝から艦砲射撃が激しかった。その兵隊の仲間が5人ぐらい壕に入ってきて、「今日からここは軍が使うから君たち出ていけ」と命じた。お父さんは土下座して、「いま出ていったら死んでしまうから今日一日出さないでください」と懇願したそうです。すると日本兵がいまにも抜かんばかりに軍刀をガチャガチャ鳴らしながら「君たちは非国民だ」と言った。これはかなりショックでした。成績優秀な軍国少女が、こともあろうに非国民、天皇に弓引く者だと言われたわけですから。彼女は戦後、教職に就きました。優秀な先生だったようですが55歳になって、ミッドライフ・クライシス(中年の危機)に陥りました。ちょうどお父さんが亡くなったのと、学校で若手を指導しないといけないプレッシャーがかかる時期が重なって影響したようです。朝起きると急に足の裏が熱くなって、それが体中に広がって、パニック発作のように頭のなかがどうしていいかわからなくなる。外科手術や中国で鍼治療まで受けたけれど治らなくて、神経内科の医者からは「あなたは将来、寝たきりと認知症になる」と言われたそうです。それから自宅で30年間寝たきり生活だったけれども、たまたま紹介されて私のところに来られたんです。いろいろお話を聞いているうちに歩けるようになりました。
今日来られた患者さんのなかにも足の裏が熱くなる人がいました。80歳の男性で、読谷に米軍が上陸したときに足を機関銃で撃たれたそうです。戦争が終わってから2、3年のあいだは、トタン板がギーッと鳴るような嫌な音を聞くと足の裏が熱くなって、雨の日だったら裸足になって泥水のなかを歩いたそうです。そうしないと熱くて歩けない。あるいは米兵のサイズが大きい革靴を拾ってきて、なかに水を入れてジャブジャブにしたのを履いて、足を冷やしながら歩いたそうです。

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寝ているとき誰かに足を触られた感じがしたり死体の匂いの匂いがしたりというと、まるで心霊体験のように聞こえます。ヘンなことを言いだしたと思われるのをおそれて家族にも話せず、医者にかかることもできないで苦しんでいる人が多い気がします。

多いでしょうね。大抵の人は言えないです。さっきお話しした歩けなくなった女性の場合、「実は死体の匂いがしてきたんだ」と言ったのは、診療に来はじめて5カ月ぐらいたって関係性ができてからですよ。私がなぜ、こういう話を本に書いたり取材で喋ったりするかというと、戦争や震災のトラウマを受けた人が言う、死体の匂いがしたり(幻嗅)、夕焼けが白黒で見えたり(色覚異常)、死んだ人の顔が見えたり(幻視)、そういうことはざらにあるんだと伝えたいからなんです。2012年3月にベルリンで開かれたヨーロッパ・ストレス学会でデンマークの人たちが“非精神病性の幻覚”についての発表をしました。配偶者を亡くした高齢者の約43%の人たちに幻視や幻聴がみられたそうです。ところが日本ではそれを精神病扱いする。他人に話すと狂ったと思われるからほとんど表に出てこなかった。漫画家で広島での被爆体験のある中沢啓治さんは、『はだしのゲン』で原爆投下後の修羅場を描いているとき死体の匂いがしてきたそうです。トラウマ性の幻嗅です。そういうことってあるんですよ。

Photo by 亀山亮

今日は診療を見させていただきましたが、蟻塚先生は患者さんから体験を丹念に聞き出していました。まるで患者さんと一緒に記憶を辿っているかのようでしたが、いつもそうやって診療しているんですか?

戦争や震災のトラウマの患者さんに対してはそうです。本人が気づかないところでいろんな心の傷を負っている人が非常に多いんですよ。ナラティブセラピー(物語療法)という、患者さんが体験したことを聞いてもう一度再現するという療法なんですが、そのとき空は何色だったか、明るかったか暗かったか、どんな匂いがしたか、ということを具体的にすべて聞いていきます。

何歳ぐらいからの記憶がトラウマとして残っていくのでしょうか?

以前、私たちが沖縄で400人を調査したときの最年少は、戦争のとき4歳でした。今日の診療では2歳だった人もいましたね。爆弾の破裂音は覚えていると言っていました。2歳児はまだ喋れないので、言語的な記憶はありません。それでも爆弾の音や光といった物理的な刺激は残る場合があるんです。

取材でお年寄りから戦争体験を聞くことがよくあるのですが、そのときに注意すべきことはありますか? 話してもらうことは苦しめることではないかと思えて躊躇してしまいます。

テレビの取材を受けたある患者さんは取材後3日ぐらい眠れなかったと言っていました。戦争の語り部の方たちも語る前日と語った日の夜は眠れないと聞いたことがあります。今日来られた患者さんたちも、私なりに気を遣ったつもりですが、結果的にかなり語ってしまったので多少の影響はあるだろうと思います。戦争などのつらい記憶って消えないんです。記憶がマグマみたい活性化しているときは自分にかぶさってくるから、眠れない、体が熱い、匂いがするといったことが起きます。でも、記憶が活性化していなければ大丈夫。だから、戦争のトラウマで苦しんでいる人たちを楽にするには、熱い記憶をなんとかして冷えた記憶にして過去記憶のファイルのなかに戻さなければならない。私は患者さんから話を聞いてから、「つらいことあったけど、いまこんなふうにして私とあなたは話ができている。元気だよね!」って肩をポンと叩くんです。いまの私といまの患者さんの関係はかけがえのないことで、こうして生きててよかった──。そんな感覚を共有しようと思っています。いまを肯定する。これが大事なんです。

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トラウマを抱えた人が認知症になった場合、トラウマから解放されるのでしょうか?

逆なんです。人間の記憶は、認知症の場合も含めて、基本的にはなくなりません。認知症の人の物忘れは本当に忘れたわけじゃなくて、引き出しを開ければそこに過去の出来事がしまわれている状態。記憶がしまわれた場所がわからなくなって出しようがないだけなんです。トラウマ記憶を持った人たちが認知症になると、なくなるわけではないけれど、一般的な記憶が脱落します。残る記憶はどんなものかというと、本当に身についた記憶。例えば、自転車に乗ったり泳いだりするような。あとは、自分の一生のなかでとてもつらかった記憶が残るんです。だから戦争のトラウマを持った人が認知症になると相対的に戦争記憶が増大します。沖縄では毎年6.23(沖縄戦終結の日)が近づいて梅雨時になると、戦争記憶がよみがえって眠れないお年寄りが増えるようです。

以前、中国に出征した元日本兵のお年寄りに取材して加害の体験を語ってもらったことがあります。その人は戦後、自分の幼い娘が高熱を出して入院したのを見舞って帰った夜に、中国で母子の殺害に関与したことを思い出したそうです。つまり、それまで忘れていたということなんですが、そんなことはありうるんでしょうか?

ざらにあるでしょうね。その人の場合、戦争から帰ってきた彼にとっての第一次的な課題は、働いて家族を養っていくことなんです。すると家族のために一生懸命働くことに圧倒的な力を注いだため、戦場での記憶は蓋をされたような状態になります。また、社会全体も戦争記憶というものに触れないようにしてきました。とくに加害の側面は隠蔽した。朝鮮特需なんて酷いもので、朝鮮の人たちが亡くなることで日本の経済復興は成し遂げられたんですから。そういう背景もあって、戦時中の加害者としての罪悪感は埋もれてしまった。しかし、社会で行きていくためには倫理観にのっとる必要がありますね。例えば、人を殺しちゃいけないとか、赤ん坊が泣いていたら手を差し伸べなきゃいけないとか。普段はそんなことを意識せずに暮らしていますが、さっきの話のように娘さんが高熱を出して助けたいと思ったときに、自分が中国で子供を殺したときの記憶が罪の意識とともに甦ったんだと思います。
私の父は中国戦線に招集されて、そこで何があったかわかりませんが、白兵戦になると銃剣で刺さなければ殺されると言っていました。最期は癌で亡くなりましたけど、寝たきりになったとき毎晩うなされていました。夜中に「ワァー」って叫ぶ。戦争の悪夢をみたんでしょう。そういうことは日本中にいっぱいあったはずです。
また、沖縄戦の体験者のなかには、例えば、逃げる途中で母親の死体のそばに生きた赤ん坊がいたのにどうすることもできなかったのを「どうしてあのとき見殺しにしたんだろう」と、被害者でありながら自分は加害者だと思い詰めている人もおられる。それはサバイバーズギルト(生還者の罪悪感)という概念で、倫理観で自分を責めるんです。

Photo by 亀山亮

蟻塚先生は福島で震災と原発事故のPTSDの、沖縄で戦争のPTSDの治療に取り組まれています。これらの患者さんには似通った点や、何か特質のようなものはあるんでしょうか?

戦争、地震、津波、原発事故──災害に遭われた方にとっては、言葉を失うほど悲しくて、底なしにつらいことです。どれも比べようがありません。ただ、地震や津波といった天災と、戦争や原発事故のような人災が大きく異なるのは、人災に遭われた方は心の痛みに憎しみがともなうことです。例えば沖縄戦で、日本軍に壕を追い出されたために家族を亡くされた方は日本兵を憎みますよね。そうすると人を信じるという倫理道徳の部分が傷ついてしまう。それは原発事故の被害で苦しんでいる方にも言えることです。

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心の傷を持った人が救われるために何が必要しょうか?

いま生きていることを肯定できる感覚ですね。戦争体験者や震災被害者だけじゃなく、レイプや虐待の被害者もそうだけど、生きていて本当によかったという感覚を持つことが大事です。家族や隣近所の人がやってあげられるとしたら、そんな感覚を持てるようにすること。「つらい思いしたけど、おばあちゃんがいたおかげで私ら生きてるんだ。感謝しているよ」とか。そんなふうにして孫が一生懸命聞いてあげると、おばあちゃんだって戦争のことを語ってもいいんだという気になるし、心の傷もふさがるでしょう。

国家がすべきことはありますか?

国家はね……もう亡くなりましたが俳優の菅原文太さんは「国民を飢えさせないこと」「戦争をしないこと」、そのふたつが国家の役割だと言っていました。私もそう思います。社会福祉をきちんとやって、何があっても食っていけるように国家がバックアップする。そして戦争をしない。最低限それだけは守るべきです。

診療を通じて患者さんと接するなかで蟻塚先生自身が影響を受けたことはありますか?

私は精神科の医者をやってずいぶん変わりました。精神疾患になるのは、とても真面目な人が多いんです。真面目に生きなきゃいかんと思っているけど、思い通りに生きられなくて、病気になる場合が少なくない。「そんなに真面目にならなくても、もう少し肩の荷を降ろしてもいいんじゃない?」と、あるときから患者さんに言うようになりました。そう言っている手前、自分も肩の荷を降ろすようにして、私自身がずいぶん楽になったというか。お金をもらいながら、患者さんに自分が治してもらった気がしていますよ。

蟻塚亮二
1947年生まれ、福井県出身。精神科医。85年から97年まで青森県弘前市の藤代健生病院の院長を務める。2004年より沖縄の病院に勤務。13年4月より福島県相馬市のメンタルクリニックなごみ院長。主な著書に『うつ病を体験した精神科医の処方せん』、『統合失調症とのつきあい方 闘わないことのすすめ』、『沖縄戦と心の傷トラウマ診療の現場から』などがある。