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ルワンダのシンドラーは魔女

娘は毒を盛られて死んだんだ。みんな私のことを笑うよ。『お前は赤の他人をかくまってるのに、自分の子供たちは殺されたじゃないか』って。私は言い返してやるんだ、『死に様は人それぞれ。それは神のみぞ知るところだ』とね。

ルワンダ虐殺から20年以上経った今でも、ルワンダ共和国は壮絶な暴力の記憶に取り憑かれている。法廷では加害者たちの裁判が続けられ、激動の時代に生まれた英雄譚が次々に登場している。

「魔術」で100名以上の命を救った、ズラ・カルヒムビ(Zula Karuhimbi)という女性がいる。

カルヒムビがルハンゴ郡(Ruhango District)で暮していると知り、彼女に会うために首都キガリから車で向かった。道中、立ち寄ったレストランのウェイターに、虐殺の期間に100名以上の命を救った「魔女」を探している、と伝えると、ある男性客が「政府に表彰された魔女のことか? 住んでいる場所を知っているから案内するよ」と名乗り出た。

彼に連れられムサモ村(Musamo Village)にやってきた。そこで車を乗り捨て、腰の高さまである草をかき分けながら歩いていくと、しばらくして庭の囲いに突き当たった。そこで、家の外にござを敷いて眠っているカルヒムビを見つけた。彼女は幼い男の子を抱いていた。あとになって判明したが、その男の子は、最近、彼女が養子に迎えた孤児であった。

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眠っていると、しわくちゃで華奢な老婆に見えたが、英雄譚を訊きにきた、と告げると、彼女は飛び起きた。「そうだ。私がツチ族をかくまったズラだ」そう言い放ちながら地面を指差した。「地面に穴を掘って、そこに彼らを入れて、上から乾いた豆とシダの葉を被せたんだ」。 1994年、3ヶ月間続いたジェノサイドの間、2部屋しかないこの小さな家で、彼女はツチ族を100名、フツ族を50名、トゥワ族を2名、白人を3名かくまっていたそうだ。

「あまりにも大勢の人間をかくまったもんだから、中には名前も知らない人もいた。死んでしまった母親に背負われていた幼子も、何人か連れてきた」

ルワンダの大衆紙『The New Times』には、次のような逸話が記されている。カルヒムビの家に民兵たちが押し入ると、彼女は皮膚のかぶれを引き起こす薬草を塗りたくった手で民兵に触れた。呪いをかけられた、と民兵たちは恐れ慄き退散したそうだ。目に付くものを手にとって揺らしては、精霊たちの怒りを聞け、と訴えたという。「人々を必死で守った。いくつか魔術を仕込んで、人殺しどもが来たら『殺してやる』と脅した。『ここにはツチ族は来てない』と告げると、アイツらは家に入ってこなかった。実際には大勢をかくまっていたけれどね」

彼女のIDカードには「1925年生まれ」と記されている。このIDが発行されたのは、ルワンダ王国がベルギーの委任統治領となり、35年間在位していたユヒ5世ムシンガ(Yuhi V Musinga)がカトリック・キリスト教への改宗を拒否したことなどを理由に退位に追い込まれた頃で、彼女は、当時、5歳か6歳だったはずだ。カルヒムビによると、彼女の母親は当時よく人をかくまっており、幼かったカルヒムビが配膳係をしていたそうだ。「私が口を開こうものなら、母親に引っ叩かれた。しまいには、ヒリヒリする葉っぱを持ってきて、私の口に塗りたくって叱るんだ『もし何か言おうものなら、あんたを殺すよ』ってね」

カムヒムビが8歳のとき、ベルギー統治政府は「民族」を区別するIDカードを発行するため、全国規模の人口調査を実施した。その結果、ルワンダ国民のうち、85%がフツ族、14%がツチ族、1%がトゥワ族に分類された。このシステムは、南アフリカのアパルトヘイト政策とも似ていた。フィリップ・ゴーリヴィッチ(Phillip Gourevitch)の著書『明日家族と一緒に殺されると告げれば良かった(We Wish to Inform You that Tomorrow We Will Be Killed with Our Families)』によると、少数派のツチ族に独占的に行政職、管理職が与えられ、多数派のフツ族は強制労働を課せられたそうだ。

民族が明確に区分されたことで、民族間の分裂は進み、部族中心主義が高まっていった。1957年3月、フツ族の知識人9人が「バフツ宣言(The Bahutu Manifesto)」を発表し、「ルワンダは、大多数を占めるフツ族の国家であり、今こそ『民主化』を目指すときだ」と宣言した。その2年後、ツチ族の集団がフツ系の政治家ドミニク・ンボニュムトゥワ(Dominic Mbonyumtwa)を襲撃すると、フツ族がツチ族に報復。この事件に端を発した報復合戦は、ルワンダ中で2万人の死者を出す大惨事に発展した。

カルヒムビは、この頃に現ルワンダ大統領であるポール・カガメ(Paul Kagame)の命を救ったのだ、と自慢した。ムサモ村の近隣で生まれたカガメ大統領は、この事件が起きた当時、まだ2歳だった。「私はネックレスからビーズを抜き取り、あの子の髪に結いつけ、いつも抱いて床に下ろさないよう、母親に指示した。彼を連れて遠くに逃げなさい、と告げて、私は跪いて祈りを捧げた。『もし神様がその子を救ってくださるのであるなら、その子は必ずここに帰ってきて、私たちのために尽力することでしょう。そして、その子はルワンダの後継者となるに違いない』とね」 その後、カガメはルワンダ愛国戦線(Rwandan Patriotic Front)を率い、あの忌まわしいジェノサイドに終止符を打った。

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紛争が終結すると、ルワンダは急速な成長と発展を遂げた。国民の生活レベルは向上したが、伝統的な暮らしは失われていった。カルヒムビ曰く、彼女は、「容姿の醜さ」「失業」に効く薬も調合できるそうだ。家の前には、天日干しの薬草が並んでいる。寝室の床は石敷で、部屋の一角には何かを燃やした跡がある。彼女は私たちを部屋に招き入れると、マットレスの下に手を伸ばし、「頭の疾患」に効く、という黄色い粉末を取り出し、鼻から吸い込むよう勧めてきた。彼女も粉末を鼻から吸いこむと、咳き込み、床に唾をに吐いた。

彼女は 「虫刺され」「シミ・そばかす」に効くという粉末をふるいにかけ、それを封筒の中に流し込んで、プレゼントしてくれた。封筒に入れたのが良かったのか、無事に税関を通過できた。

22年前、この小さな部屋に40名のツチ人が息を潜めていたのだ。半数はベッドの下、半数は屋根裏。日が差し込むのは1日に数分程度で、当時から電気は通っていない。彼らがおよそ100日間、救いの希望もないまま、他人と肌を接して真っ暗な夜を過ごしたのか、と想像すると私はいたたまれない気持ちになった。

最近では、この部屋がカルヒムビの調合部屋になっている。しかし、彼女の調合薬を使う地元の人は、年々少なくなっている。現在のルワンダでは、「過去の遺物」として伝統医学は否定され、「悪魔崇拝」と蔑まれることすらある。時折、姪が彼女を世話しにくるらしいが、「『腹痛』に効くから持って帰りなさい、と薬を勧めても、あの子は受け取ろうとしない。クリスチャンだから仕方ない」とカルヒムビは悲しそうだった。

彼女の調合した薬は時代遅れとなりつつあるようだが、今でも魔術を信じているルワンダ国民は少なくない。カルヒムビのような女性を「魔女」とする人もいれば、「祈祷師」とする人もいる。イースターの日曜日、首都キガリにあるキミロンコ教会(Kimironko Church)では、牧師が魔女の脅威を説いていた。「世界には魔女が大勢いる。魔女は殺そうとしても、殺せない。あちこち動き回るからだ」

しかし、カルヒムビが人々の命を救うことができたのは、大勢になびかない、彼女の生き様のおかげかもしれない。

近代史を振り返っても、ルワンダ虐殺の衝撃は大きかった。銃も使われたが、多くの場合、農作業用のナタで、フツ系の人々が、隣人、同僚、友人、誰彼構わず80万ものツチ系とフツ穏健派とされる人々を虐殺したのだ。

当初、事件は計画された一過性のものだと思われていたため、ツチ系の人々は、ほぼ抵抗しなかった。しかし事後、ようやく人々は何が起きたのかを理解し、その事実に驚愕した。これは戦争というより、一方的な虐殺行為だった。

そのような状況下で人々を救ったカルヒムビの行動には畏敬の念を禁じえない。

彼女は、全人類はキマヌカという「神に似て非なる何か」のもとに生を受けたのだから、自己犠牲を当然だと考えていたそうだ。カルヒムビは「この白人たちを見なさい。彼らも私たちの子供です。私たちはひとつなのだ」と語った。「分娩中に雷鳴が轟けば、白い肌の子供が産まれる」という言い伝えがあり、彼女はそれを信じている。フツ族もツチ族もトゥワ族も、同じように繋がっている。「私たちはひとつ。私たちの祖先もひとつ。私たちは、皆、兄弟姉妹だ」

ルワンダ虐殺から20年以上が経過した今でも、彼女の家には戦争の爪痕が残っている。家の正面の壁には、「インテラハムウェ(人殺し)」たちがつけた弾痕がある。「人殺しどもが銃撃してきたとき、銃弾を避けるため、地下にいた人たちに身を伏せるよう指示を出した」

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「アイツらは、私の長男のハンガ二マナ(Hanganimana)と娘のウグリワボ(Ugriwabo)を殺した。娘は毒を盛られて死んだんだ。みんな私のことを笑うよ。『お前は赤の他人をかくまってるのに、自分の子供たちは殺されたじゃないか』って。私は言い返してやるんだ、『死に様は人それぞれ。それは神のみぞ知るところだ』とね」

取材の途中、彼女は救った人々の写真をおもむろに取り出した。写真は、彼女の宝物と一緒に保管されていた。病気を患ったり、時間と共に記憶が薄れたり、すでに亡くなっていたり、理由はさまざまだが、今となっては彼女を訪ねる者も少ない。カルヒムビは懐かしそうに、エマニュエル(Emmanuel)という男の子の話をしてくれた。保護したとき、まだ小さな赤ん坊だったらしい。「今はどこで暮らしているかもわからない」

カルヒムビは、その功績を称えられ何度も表彰されている。『The New Times』によると、2006年、彼女は「ジェノサイドに対する取り組み勲章(Campaign Against Genocide Medal)」を授与された。その授与式で、彼女はカガメ大統領に直接、「幼少のあなたを助けたんですよ」と伝えると、大統領は、「あなたのような魔女が大勢いたらいいのに」と応えたそうだ。

2009年、彼女の功績を称える1本の木が、イタリアのパドゥヴァにある「正義の庭(Garden of Righteous)」に植えられた。彼女は植樹式のため現地へ飛んだが、今では、どこの国へ行ったのかすら覚えていない。

取材をした2014年、89歳だったカルヒムビは、このときのルワンダ政府に固い信頼を寄せていた。しかし、ルワンダ政治の未来について尋ねると、今の体制がベストではないと断言した。目の前で繰り広げられる破壊、殺戮、悲劇を力強く生き抜いたカルヒムビは、人生においてたったひとつ、大切にしなければいけないことを教えてくれた。「愛が一番大切。愛する人を見つけなさい。そうすれば、輝かしい未来が待っている」