蛟龍は本土決戦の切り札として期待された5人乗りの特殊潜航艇で、終戦直前の昭和20(1945)年5月28日に正式採用されている。攻撃手段は体当たりではなく魚雷だが、生還の可能性が極めて低いことから事実上の「特攻兵器」といえる。そして搭乗員の多くは、戦況悪化後に大量採用・短期養成された予科練出身者だった。その生き残りのひとりが、大日本帝国崩壊前夜を回想する。

§

岡田明さんは、大正15(1926)年9月23日生まれ、東大阪市出身。現在91歳。5人きょうだいの長男で、下は弟と妹が2人ずつ。八尾中学3年のとき、公務員だった父親の転勤にともない、家族7人揃って鳥取に引っ越し、岡田さんは鳥取第1中学に3年2学期から転入する。文学少年だった岡田さんは中学校を卒業したら松江高校の文科に進学したいと考えていた。ところが、物理と化学が苦手で受験勉強に嫌気がさしてしまう。そのことが、やがて岡田少年の進路を暗く冷たい海へと誘うのだった。

 松江高校の受験は諦めましたが、かといって、ほかの生徒のように海軍兵学校や陸軍士官学校、高等商船学校などに行くつもりはありませんでした。4年生のときの身体検査で肺に陰があるのがわかり要注意と言われていたんです。それで進路に迷っていましたが、5年生(旧制)の2学期、思い切って予科練に応募しました。飛行機乗りになる夢があったんです。それでも躊躇はありました。というのも、予科練を志望するのは中学までしか行けない人が多かったんです。僕は進学クラスにいて、自分で言うのは憚られますが、英語は常に一番の成績でした。頭がよくないから予科練に行ったように思われたくなかったんですね。
 体のこともありますから、おそらく滑るだろうと思っていましたが受かってしまい、昭和18(1943)年12月1日、第13期甲種飛行予科練習生として三重海軍航空隊奈良分遣隊に入りました。奈良分遣隊がある山辺郡丹波市町には、もともと天理教の信者のための寮がたくさんあったんです。それらを接収した兵舎に僕らは収容されました。そのときの印象は、全国から不良中学生が集まったような感じでね、本当にびっくりしました。イジメられたりはしませんでしたが。
 入隊すると適正検査があり、操縦班と偵察班に分けられます。誰もがそうでしたが、僕も操縦をやりたかった。しかし検査の結果が思わしくなかったでしょう、偵察班になってしまいました。それからは、一般学科のほか、飛行兵になるための無線電信(モールス信号)などの授業、そしてマット体操や駆け足などの体育に明け暮れました。僕は無線電信の成績が良くて分隊250人中、1番か2番でした。分隊対抗で送受信の競争があるんですが、いつも代表に選ばれていました。体育は、小柄で体力もない人はかわいそうでしたよ。昭和18年当時の予科練は中学3年を修了した者から志願できます。僕が志願したのは5年生のときでしたが、なかには浪人した人や、代用教員をやっていたような人もいる。3つも4つも年齢が違う練習生が同じ訓練をやらされるわけですから、どうしても弱い者に負荷がかかってしまいます。
 僕は英語が好きだったので、入隊するときにコンサイス英和辞典を持ち込んでいました。勉学に未練があったのかもしれません。ところが、寝ているあいだに誰かが僕のコンサイスを剃刀で切っちゃったんです。やった人は敵性語に愛着がある僕が嫌いだったのでしょう。そんなこともありました。
 予科練に入ると罰直という制裁を初めて体験しました。分隊のなかの誰かがしくじると連帯責任を問われて総員罰直が待っています。全員を並ばせて、脚開け、歯を食いしばれ、バーン! と片っ端から拳骨で殴っていくんです。これは日常茶飯事でした。もっと酷いのはバッタです。大東亜戦争完遂棒、軍人精神注入棒などと墨で書かれた野球のバットのような木の棒で尻を強打する。悪いことをしてなくても定期的にやられました。訓練が終わって疲れ果てて夜やっと寝静まったころ、総員起こしの号令がかかります。みんな起きて寝具を片付け、ひとりずつ尻を叩かれるんです。
 制裁を行なうのは下士官です。その多くが高等小学校ぐらいしか出ていない、水兵から成り上がった実戦経験のある人たちです。海軍に入って3年間任務を遂行すると善行章という逆V字型の記章が与えられ、以後3年ごとに追加されます。彼らは皆、善行賞の持ち主で、古参になると2、3本付けている。軍隊しか知らないような人たちなんです。一方、予科練の僕らは半年で下士官になります。そんな妬みが暴力を生む。僕らは10代で、汚い世の中の縮図を体験しました。軍隊とはそういう社会なんです。これは、いまの若い人たちにも絶対に覚えておいてほしいです。
 奈良分遣隊にいるときに一度だけ空襲を体験しました。空襲警報が鳴って退避命令が出たとき、僕の靴が見当たらなかったんです。みんな退避したのに僕だけおろおろしていると、下士官がやってきて殴られ、2メートル近く吹っ飛ばされました。敵機の姿は見えず、被害はありませんでしたが。
 そんなある日、講堂に集合がかかり、教員の下士官連中は外に出され、僕ら練習生が残されました。紙が配られたあと、壇上の司令官が言いました。「優れた新兵器ができた。必死の覚悟でそれに志願する者は◯、このまま教程を修了して航空機に搭乗したい者はX、どちらでもいい者は△をつけなさい」と。僕は◯ではあきたらず、五重丸をつけました。そして兵舎に戻ってから、愛国心が足りないと言って、Xをつけた同期の者を皆で殴りました。あのころ僕らは悪かったんです。
 あとで教員から「五重丸などつけたのは貴様だけだ」と冷やかされましたけど、見直すような思いがあったんでしょうか、それから僕に対する態度が少し変わりました。彼は僕ら志願者がどうなるのかを知っていたのか、「鬼が島に行くんだぞ」と言いました。そのときまで僕らは、自分たちが搭乗するのは途轍もなく優れた飛行機だろうと思っていました。