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ミュージシャンでジャーナリストのスコット・クロフォードは、80年代ワシントンD.C.のパンクシーンを追ったドキュメンタリー『サラダデイズ:80年代D.C.パンクの軌跡(Salad Days: A Decade of Punk in Washington DC 1980-90)』で映画監督デビューを果たした。日本でも10月に公開が決定しているこの作品では、イアン・マッケイ(Ian Mackaye)、デイヴ・グロール(Dave Grohl)、ヘンリー・ロリンズ(Henry Rollins)、サーストン・ムーア(Thurston Moore)、J・マスシス(J Mascis)のインタビュー、そして貴重なライブ映像などで、固く結ばれたD.C.の音楽コミュニティがいかにして世界中に影響を与えたのか、しっかりと綴られていた。そして、現在クロフォードは『Boy Howdy! The Story of CREEM Magazine』という新しいドキュメンタリー作品の製作を進めている。Kickstarterで資金を集めた本作は、1969年から1981年まで発行されていたデトロイト発の音楽雑誌『CREEM』に焦点を当てた作品だ。

ティーンエイジャーの頃、ファンジン『METROZINE』を制作し、成人してからも雑誌編集者として活動していたクロフォードは、音楽ファンとしての自らの成長に欠かせなかったこの雑誌について、持ち前のDIY精神を発揮し、その軌跡をまとめている。雑誌の発行人であった故バリー・クレーマー(Barry Kramer)の息子、J.J.クレーマー(J.J. Kramer)も、この映画のプロデューサーとして尽力しており、彼自身にとってもこの作品は、ドラッグの過剰摂取により、37歳の若さで亡くなった父について知る、ひとつの機会にもなったようだ。

クロフォードは、『CREEM』誌を「ロックンロールの歴史書」と例えるだけあり、本誌が影響を与えたのは、彼のようなワシントンDCのパンクスだけではない。KISS、イギー・ポップ(Iggy Pop)、ボブ・シーガー(Bob Seger)、NEW YORK DOLLS、アリス・クーパー(Alice Cooper)、デヴィッド・ボウイ(David Bowie)など、ニューウェーブからヘビーメタルまで、数え切れないほど多くのアーティストが世に出るきっかけとなった雑誌である。音楽ジャーナリズム、音楽批評の世界との関わりを鑑みるに、簡単にいってしまえば『CREEM』誌は最高にオリジナルで、最高に偉大な雑誌だった。この雑誌から生まれたジャンルもある。名だたる音楽ライターたちも参加していた。少し挙げるだけでも、レスター・バングス(Lester Bangs)、デイヴ・マーシュ(Dave Marsh)、キャメロン・クロウ(Cameron Crowe)、パティ・スミス(Patti Smith)、そして現在VICEでも執筆しているロバート・クリストゴー(Robert Christgau)などが名を連ねている。

その『Boy Howdy! The Story of CREEM Magazine』について、スコット・クロフォード監督に話を訊いた。アメリカ文化の軌跡と歩んだ、最も偉大かつ最もブッ飛んだローカル誌『CREEM』。これまでの写真や記録映像、そして最新インタビューをクロフォードはどのように組み合わせ、どのように伝えるつもりなのだろう。

『CREEM』の影響について、これまであまり語られず、見逃している音楽ファンも多いですよね。あなたは、どのように『CREEM』と出会ったのですか?

発刊初期、つまり70年代の『CREEM』は、私が読むには早過ぎました。『CREEM』を知った頃、私はパンクキッズで、80年代初頭には、パンクロックのライブに行くようになっていました。私は、熱中するものがあると、そのことについて何もかも知りたくなるタイプの子どもだったんです。当時はファンジンも山のように読みましたし、パンクロックについて手に入れられるものすべてに目を通していました。多くのジンには、レスター・バングスのテキストや、イギー・ポップ、デトロイトの音楽シーンなどが載っていました。だから過去を遡って、『CREEM』のバックナンバーを買い集めたんです。私にとっては、歴史の授業のようなものでしたね。この経験は、若い頃の自分にかなり深い影響を与えてくれました。徹底した美学がすべてのページに貫かれていましたし、レスターの文章も私は好きでした。それが彼らの編集センスだったんです。体制に反抗する姿勢は、もちろん、当時の私は共感できました。

あなたのルーツがパンクにあるからこそ、その「体制に反抗する姿勢」が心に響いたのでしょうか。

私はワシントンDCのパンクスでしたからね。『サラダデイズ』で、実は、キッズの頃の私が2秒ほど映ってます。『Metrozine』というファンジンを長年やってたんです。ジンではいろいろな人を取材しました。DCハードコアシーンのアーティストはもちろん、HÜSKER DÜのボブ・モールド(Bob Mould)、DEAD KENNEDYSのジェロ・ビアフラ(Jello Biafra)など、その界隈のアーティストがDCに来たら、取材をさせてもらいました。’84年、’85年頃の話です。多くの人は成長していく過程で、クラシックロックやパンクロックを発見し、そうしてどんどん進んでいく。そうですよね? でも私は違ったんです。始まりはニューウェーブ、HEAVEN 17なんかのチープなシンセポップで、そのすぐあとにパンクロックを聴くようになったんです。だから改めてLED ZEPPELINやBLACK SABBATHを学ぶ必要がありました。『CREEM』にもその経過で出会ったんです。結構、特殊な音楽遍歴ですよね?

どんなバンドが好きでしたか?

BAD BRAINSが大好きでしたね。MINOR THREATは見逃したけど、VOIDやBLACK MARKET BABY、SCREAM、MARGINAL MAN、RITES OF SPRING、そしてFUGAZI。これが私の「シーン」です。ずっと、そんな音楽について書いたり読んだりしてきています。私にとって『CREEM』は、『TROUSER PRESS』誌と合わせて大事な存在でした。

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The writers and editors of CREEM

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Lester Bangs

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All black and white photos by Charles Auringer

『CREEM』は、70年代ロックシーンで多大な役割を果たしました。しかし、本作の予告であなたは、「デトロイトのローカル誌」という位置付けをしています。そんな『CREEM』がなぜ、全国規模で成功し、音楽批評を発展させる重要な雑誌になったとお考えですか?

いい質問ですね。それこそ、映画の中で答えを出そうとしているんですが、そこには色々なファクターが考えられます。デトロイトはニューヨークともロサンゼルスとも違い、メディアの中心地ではありません。当時デトロイトに住んでいた人たちは、ある種の怒り、劣等感があった、と語っています。だから自分たちのコミュニティ内で、オリジナルを創り、それを力のあるものにしようとしたんですね。そこには誇りがあります。『CREEM』を創刊したチームが抱いていた野望のなかには、その「誇り」があったんでしょう。そして『CREEM』は、『ROLLING STONE』誌に次いで、音楽雑誌第2位になりました。まさにデトロイトっ子の頑固さの顕れではないでしょうか。「これがデトロイトだ。俺たちは、俺たちのしたいようにやる」と。常に誠実で、自らの立ち位置をハッキリさせていました。その姿勢が、ミュージシャンとも共鳴したのでしょう。リスナーだけでなく、ミュージシャンのための雑誌でもありました。今回、取材したミュージシャンたちは、『CREEM』が評価してくれた意味は大きかったと振り返っていました。

『ROLLING STONE』誌に次いで音楽雑誌第2位になったようですが、それは評価ですか、それとも売上? あるいは発行部数でしょうか?

発行部数です。店頭での売上と定期購読を合わせてナンバー2になったんです。

70年代は、雑誌を購入してもらうのが困難でしたよね? 国中に届けるなんて考えられません。

さらに加えるなら、当時のロックンロール・ジャーナリズムはまだ揺籃期だったんです。1970年代以前に価値があったのは、『CRAWDADDY!』、『ROLLING STONE』、そして『CREEM』のみ。音楽について、しっかり語られる機会はあまりなかったんです。今なら、あるアルバムの意見が知りたければ、ネットで300万人ものレビューが簡単に見れます。でも当時はその3誌にしか頼れなかった。3誌がそこまで成功した事実を踏まえれば、いかに内容がしっかりしていたのかがわかります。それに、それらの雑誌がトレンドセッターでした。現在は、ウェブ上で『Pitchfork』がその役割を担っていますが、70年代の音楽の流れは『CREEM』がつくっていたんです。それこそが、売上部数を伸ばした要因ではないでしょうか。

私が観た映像では、MC5のウェイン・クレイマー(Wayne Kramer)が『CREEM』のライター陣を「高慢なヤツら」と称していました。一方、アリス・クーパーは、『CREEM』でこてんばんにされたのを「名誉の証」だと誇っています。

面白いですよね。だってレスター・バングスとアリス・クーパーはのちに大の仲良しになるんですから。レスター・バングスは、結局アリスの音楽が好きだったんです。『CREEM』は、『ROLLING STONE』の無礼な弟分みたいな感じですかね。

そんな風に『CREEM』は、やりたいようにアーティストを酷評していましたが、「エリート主義」的な批評とは一線を画していましたね。

『CREEM』の批評は、いつも音楽への真の情熱と、愛に基づいていたと私は捉えています。ただ文句を垂れるのではない。彼らが酷評するのは、つまり「もっとやれるだろう」という期待の現れです。コーチは一流のプレイヤーにプレッシャーを与えますよね。『CREEM』の姿勢もそうだったはずです。ボコボコにノックアウトしてやろう、なんて意図はなかったはずです。アリス・クーパーが良い例でしょう。「コラ!もっと良い音つくれるだろ!」というエールです。

『CREEM』は、自らの言葉と行動に一貫性がありましたよね。彼らはブレなかった。後世にずっと残る見解に溢れていました。それにパティ・スミスもいましたよね! ミュージシャンになる前、彼女はライターだったんですよね。

その通りです。映画監督のキャメロン・クロウもそう。Kickstarterのキャンペーンで、出資者へのリターンのひとつに、当時のライターたちへの支払いに使われた「使用済み小切手」を用意しました。そのライターのなかには、パティ・スミス、キャメロン・クロウ、レスター・バングスがいます。彼らへの支払いに使われた小切手です。すごいでしょう! 1973年に『CREEM』からパティに支払われた額は、確か25ドルでしたよ。

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Lester and Bruce Springsteen

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SLADE

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なぜ『CREEM』からは、名だたるライターたちが排出されたのでしょうか? そんなすごい人たちが揃うなんて、奇妙というかドラマみたいです。

改めて当時の状況を考えてみてください。執筆できる媒体はそんなにありませんでした。そして雑誌名の『CREEM』から連想できる「クリーム」、つまり乳脂肪分は、表面に浮いてきますよね。だから「上に浮いてきた=才能あるライター」を選ぶのが上手かったんじゃないでしょうか。そして才能あるライターは、才能あるライターと同じ雑誌で執筆したいでしょう。そうやって、素晴らしいライターたちを大勢引きつけたんです。1971年は、飽きる暇もありませんでした。今のように、参照すべきロックの歴史が40年もあったわけじゃありませが、文化的に非常に白熱したいち時代でした。60年代後半には、デトロイトで暴動があったのも忘れてはいけません。文化意識の面で、さまざまな事件が起きた時期であり、そして『CREEM』は、まさにその震源地にいたんです。改めて誌面を見みると、MC5も関係していたホワイトパンサー党との緩い繋がりさえ見出せますし。まあ、それはまた別の話ですけど、とにかく『CREEM』は、確かにムーブメントの中心にいました。そういう時代だったんです。先ほどあなたが言及したように、名だたるライターが『CREEM』に貢献していたのも、それが理由かもしれません。今も音楽ライターとして活動している人もいれば、もう筆を折った人もいます。例えばパティ・スミスは、本当に素晴らしい作品を制作しています。キャメロン・クロウも大作をつくりましたし、他にもいろいろなライターがいます。発行人のバリー・クレーマー(Barry Kramer)が本当に聡明で、そのおかげで彼の周囲に才能あるライターやカメラマンが集ったんでしょう。

多くの人が、「パンクロック」という言葉をつくったのは『CREEM』だと考えているようですが、本当なのでしょうか?

それは映画の中で必ず明らかにされるでしょう。身内でも話題に上るテーマですし、みんなに語って欲しいですね。編集者だったデイヴ・マーシュが「パンクロック」という言葉をつくったと伝えられていますが、更に深く掘り下げられれば面白いですね。私みたいなオタクにとってはかなり盛り上がる話題です。

最後に『CREEM』誌上で、好きだった記事を教えてください。

レスター・バングスが書いたBLACK SABBATHの記事同じくレスターによるルー・リード(Lou Reed)、そしてジャン・ユヘルスキ(Jaan Uhelszki)のKISSです。