HBOは、今春放映する4部作のドキュメンタリーシリーズ『The Defiant Ones』の中で、ドクター・ドレー(Dr. Dre)とジミー・アイオヴィン(Jimmy Iovine)の登場シーンで使用する写真を探すため、DEATH ROW RECORDSに所属していた写真家シモン・グリーン(Simone Green)に連絡した。グリーンは、この有名なヒップホップレーベルでの体験を綴った著書『Time Served:My Days and Nights on Death Row Records』(2012)を執筆したベテラン写真家だ。モハメド・アリ(Muhammad Ali)、シュガー・レイ・レナード(Sugar Ray Leonard)といったボクサーから、バリー・ホワイト(Barry White)、ルーサー・ヴァンドロス(Luther Vandross)、そして80年代のソウルトレインにおけるスティーヴィー・ワンダー(Stevie Wonder)など、各界の有名人を撮影していた彼女が、シュグ・ナイト(Suge Knight)と初めて出会ったのは、まだ彼がSOLAR RECORDSで使い走りをしている頃だった。

シュグ・ナイトは、ドクター・ドレーと1991年にDEATH ROW RECORDSを設立すると、経験豊かな写真家であるグリーンをすぐさま雇い、急成長するレーベルの様子を隈なく記録するよう指示した。しかし、当時のグリーンは、25年後にこれほど歴史的価値と需要がある写真を撮っているとは気づいていなかった。ヒップホップ神話のなかで重要な役割を果たす現場で、ヒップホップカルチャーの伝説となるアーティストの記録を撮っているなどとは、知る由もなかったのだ。グリーンがDEATH ROW RECORDS時代に撮らえた、西海岸ギャングスタ・ラップの台頭を物語るオリジナル写真と、彼女のコメントを紹介する。

ドレーとシュグは親友でした。ドレーは「俺は、このレーベルをどこよりも大きくしてみせる」と豪語し、実際、ミュージックビジネス界でそれを実現しました。しかし多くの人は知らないでしょうが、ドレーは全ての楽曲を自分の功績にしていました。彼は、それほど曲作りが得意ではなく、全てを書いたわけではないのですが、誰にも著作権料を渡しませんでした。MOTOWN RECORDSと同じ道を辿っていましたね。いや、MOTOWNに激辛の唐辛子パウダーをまぶしたような状態でしょうか。だってMOTOWNでは、誰も殴られてはいなかったでしょうから。

私は、だいたい、真夜中にドレーとビデオ撮影をしていました。給料は良かったです。ドレーの下で働いている時期は、給料をオフィスで受け取るんですが、そのときに自分の給料がなかったら、それは〈クビ〉を意味していました。電話で伝えられるのではなく、給料を受け取りにいって、初めて事実を知らされるのがDEATH ROW流でした。

この写真は、フロリダで行われた最後の〈ジャック・ザ・ラッパー(Jack the Rapper)〉のときのものです。ホテルのキッチンで、サウンドチェックのためのセットアップを待っているところです。THA DOGG POUNDの準メンバーたちは、スヌープ(・ドッグ:Snoop Dogg)とダイスゲームに興じていました。私はデトロイト出身なので、スヌープは私を気に入ってくれていました。もしかしたら彼もギャングスタになっていたかもしれませんが、彼にはギャングスタのようなところはありませんでしたね。彼は子供の頃、教会に通っていましたし、それにとてもいい人でした。それは今も変わっていません。例えば、スヌープが私の町に来ると、「シモンを探してくれ。シモンに会いたいんだ」といってくれます。前にも、私が車で待っていると、ホテルに入ってくるよう、いってくれましたね。彼はいつも丁寧でした。

私はミシェレー(Michel’le)が、ドレーからのDVを公表したのは立派だと思います。でも、もっと早くそうすればよかったですね。23年間も黙っていたんだから。もし私が彼に暴行を受けたら、攻撃し返していたでしょうね。でも私は、ドレーが彼女に対して手を上げたところを見ていませんし、他の誰かに対しても同じです。私に対してはとても優しく、まるで息子のようでした。彼はいつも私に、バッファローウイングをつくるようせがんでいました。彼は、私のウイングが大好きでしたね。同じようにトゥパック(Tupac)もチキンウイングが大好きでした。ミシェレーは同じ時期に、シュグとも関係を持っていました。オフィスで彼らの様子を見かけましたよ。ミシェレーがそんな関係を保てたのは、ドレーに腹を立てている連中を味方につけていたからです。彼らはドレーの秘密主義に不満を感じていました。彼らによって、『ストレイト・アウタ・コンプトン(Straight Outta Compton)』は骨抜きにされましたね。

DEATH ROWファミリーのピクニックですね。皆が赤い服を着ていました。お婆ちゃんも孫たちもね。公園に着くと、警察が包囲していましたっけ。たくさんのシボレー・インパラを駐車していたので、私はシュグに、その光景を撮るよう指示されました。私は知らなかったのですが、緑色にも血の意味があるんですね。赤じゃなかったら、緑だったと聞きました。シュグは、刑務所の仲間に送りたいというので、私はそれぞれの写真を5枚コピーして、アルバムをつくらなければなりませんでした。彼はこの写真アルバムで、DEATH ROWの現状を仲間に伝えようとしていました。ケアパッケージにして私は刑務所に送りました。シュグは仲間に対し、非常に義理堅い人間でしたね。

デタラメをいう人間はすぐにわかります。彼らはゴマすりが得意ですから、渡世が上手です。ゴマをすらないと、叩きのめされるか殺されるかです。ええ、どちらかですね。私は、ゴマすりは得意ではないけれど、恐れませんでした。DEATH ROWに入ったとき、私はシュグを恐れてはいませんでした。それが良い方に働きましたね。シュグは、自分を恐れていない私を知っていたからです。シュグに会うほとんどの人は、彼を恐れています。彼の悪名は、響き渡っていましたから。

DEATH ROWのクリスマスパーティです。メアリー・J.ブライジ(Mary J. Blige)と契約するところでもありました。DEATH ROWは、様々なイベントでパーティを開催するのが上手でした。控え目なパーティなんてありませんでしたよ。私は写真を撮るとき、いつも何かを撮らえようとしていました。でも私の写真が、彼らの歴史に残るなんて考えたこともありませんでした。当時は「シュグがパーティに来る」と聞くと、何かが起こるだろう、と予想できました。例えば、もしあなたに彼女がいて、彼があなたに腹を立てたら、シュグはあなたの彼女を寝取るタイプですね。

この写真に写っているみんなは、シュグ以外、死んでしまいました。ジェイク(・ロベルズ:Jake Robles)はアトランタで殺されました。バントリー(アルトン・マクドナルド:Alton “Buntry” McDonald)は、ガソリンスタンドでシュグの車の中で殺されました。みんな死んでしまいました。シュグだけが生きています。彼らは、シュグの取り巻きでした。この取り巻きたちは、トゥパック(Tupac)やビギー(Biggie)ことノトーリアス・B.I.G.(Notorious B.I.G.)を殺した犯人を知っていたはずです。知っていたからこそ殺されたのです。

シュグはいち時期、ドラッグも酒も絶っていました。ドラッグや酒を再び始めてから、判断を誤るようになりました。以前はタバコしか吸っていなかったのですが、ドラッグをやり始めると、すべてがおかしくなりました。真実と嘘の見分けがつかなくなったのです。彼は、DEATH ROWの全従業員それぞれに、車を購入してあげたんですが、従業員にその車を持たせませんでした。結局会社が所有していましたね。あと、彼があなたに腹をたてると、あなたの車もなくなりますよ。シュグは、なぜ自分が刑務所にいるのかわかっています。彼が刑務所にいるのは人を轢いただけではなく、彼のこれまでの行動の全てのせいなのです。

シュグはいつもドレーと競い合っていました。ドレーがリンゴを1ブッシェル(約35キロ)買ってきたら、シュグも1ブッシェルのリンゴを欲しがりました。それも全く同じリンゴでないと納得しないのです。対等な関係を周りにアピールしたかったのでしょうが、実際は対等ではありませんでした。ドレーには創造力がありました。しかしシュグには、何かを動かす筋肉こそありましたが、プロデューサーではありませんでした。彼は、レコードのプロデュースはできなかったのです。彼が、ドレーみたいに努力したかどうかは知りませんが、とにかくシュグはプロデュースができないのです。自分がプロデュースしたように見せてはいましたが、私たちは真実を知っていました。現在も私自身は、DEATH ROW RECORDSでたくさんのことを学んだ事実を大事にしています。DEATH ROW RECORDSのおかげで、これからも収入を得られるでしょう。しかし音楽業界を知らなければ、町の売春婦のように斡旋されてしまうだけです。当時の私は、シュグが私のボスであり、今後もそうなのだろう、と考えるにとどめていました。

DEATH ROWのオフィスでの事件では、まさかシュグが私に暴行を加えようとするなんて考えてもいませんでした。それは、1995年のスーパーボウルの前に起こりました。彼が私のポケットベルを鳴らしたので、私はオフィスに駆けつけ「どうしたの?」と尋ねました。彼は自分のことを告げ口する人は嫌いますが、自分には告げ口するよう要求します。私は彼に、いついつの夜誰がスタジオにいたか、と訊かれましたが、知らない、と答えました。彼は卑劣なヤツです。あっという間に裏切ります

彼は、私が手に何を持っているのか、と尋ねました。鉛筆だ、と答えると、彼は、それをよこせ、と私に指示しました。それに従うと、最低野郎は私に殴りかかってきました。私は倒れましたが、立ち上がり、シュグの急所を蹴り上げると、トイレに駆け込みました。ちょうどINTERSCOPE RECORDSの秘書もトイレにいて、「まあ、どうしたの!」とパニックになりました。彼女も、シュグやデイヴィッド・ケナー(David Kenner)がトイレのドアをドンドン叩くのを聞いていました。彼女が「声を出さないで。私が外に出て、誰もここにはいないというから」といってくれたので、私はトイレに隠れ、それからそっと下の階に降りてから、脱出するためにエレベーターで駐車場に向かいました。

しかし駐車場では、シュグのパシリが私を待ちかまえていて、DEATH ROWの敷地から5分以内に出なければ殺す、と告げられました。私はほうほうの体でそこから脱出しました。もし私の父がまだ生きていたら、シュグは現在刑務所にはいないでしょう。シュグはとっくの昔に殺されていたはずです。私が本を書いたのは、私に起きた事実を内に秘め、黙っていたくなかったからです。黙っていれば、あとで自分になんらかの影響があるのが明らかだったからです。私は自費で本を出版しました。刑務所の人たちもこの本を買ってくれたので、信じられない気持ちでいっぱいです。さらにたくさんの注文が刑務所から来ているんですよ。それだけでもこの本は、私にとって救いとなりました。