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HISTORY OF DJ : REGGAE ③ 最終回

HISTORY OF DJ : REGGAE ③ 最終回 良く良く考えてみる。「DJとはなんぞや?」9月に東京で開催されるRed Bull Thre3style World DJ Championships 2015に向けて、DJの歴史を辿るシリーズ。レゲエ編最終回です。

HISTORY OF DJ : REGGAE ①はコチラから

HISTORY OF DJ : REGGAE ②はコチラから

はい!HISTORY OF DJ : レゲエ編第三回、最終回になります。

1970年代後半に入ってもボブ・マーリーを筆頭に、ジミー・クリフ、バーニング・スピア、そしてディージェイではU・ロイ、ビッグ・ユース、プリンス・ジャズボ、I・ロイなど、ルーツ・レゲエの人気は高まる一方。それはジャマイカを越え、海外でも大きく花開きました。ただその海外進出によって、本国のシーンが大きく変わってしまったから、そこがまた歴史の面白いところ。ルーツ・レゲエ・アーティストの海外公演やら活動やらで、人気アーティストがジャマイカ不在となる時間が増えたのです。置き去りにされちゃった生のジャマイカ。そんな状況への回答は、ストリート…ゲットーから返って来ました。そうダンスホール・レゲエ。ちなみにルーツ・レゲエ=硬派、ダンスホール・レゲエ=ナンパ…ってイメージありません?でもそうじゃなかった。海外への進出を強化させ、ともすればポップスみたいな存在になりかねないルーツ・レゲエに対し、ならば自らの手で本来のレゲエを取り戻そう…そんな強い決意がダンスホール・レゲエには込められていたのです。

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だから名前はダンスホール。海外なんて関係ない。ベースはやはり一番近い場所。ジャマイカのシーンを重視し、レゲエを一番愛しているファンのところへ届けよう。その効果が一番現れるところはどこ?そう、その答えはレゲエを愛する人が集うダンスホールなのでした。また、81年にボブ・マーリーが亡くなり、更に社会は人民国家党の失政により政治、経済が混乱。それも手伝ってルーツ・レゲエの硬派なスタイルやラスタファリズムの意識が薄まり、ダンスホール・レゲエへの期待が大きく膨らんで行ったのです。

そんなダンスホール・レゲエの主人公こそがディージェイ。それもプロデューサーが送り出す従来のディージェイではなく、普通の若者、ストリートから出て来たディージェイたち。お金が無くてもマイク一つで何とでもなる。サウンド・システムに飛び入りで参加する新しい世代。そしてその場でお客さんが評価する。カッコいいディージェイなのか、カッコ悪いディージェイなのか。なんともリアルで健全なシーンが形成されたんです。そしてダンスホール・レゲエの特色と言えば歌詞。ルーツ・レゲエよりも身近で、馴染みの深いリリックを彼らはテーマにしました。それもセクシーでエッチな下ネタ系…スラックネスと呼ばれるものです。スカやロックステディでもそのようなテーマは扱われていましたが、それを80年代の男女間にアップデートさせたスタイルは、やはりシーンでバカ受け。元々性に対してオープンなお国柄もあってか、男女問わず、ダンスホールは受け入れられました。そんなスラックネス満載の元祖下ネタ・ディージェイがジェネラル・エコー。まだダンスホール・レゲエ爆発前夜でしたが、彼なくしてその夜は明けなかったことでしょう。この曲のタイトルは「バスルーム・セックス」!!

そしてユーモア抜群のローン・レンジャーや、シングジェイ(歌とディージェイを混ぜたスタイル)を生み出したイーク・ア・マウスなどが続き、遂にヒーローが現れます。イエローマン登場。

ジャマイカでは強い差別を受けているアルビノであり、孤児院で育った辛い経歴を持つこのディージェイは、スラックネスに固執し、更に自身の姿を逆手に取って、「これほどまでに魅力的な男がいるだろうか?こんな俺に濡れない女はいないぜ」と、強烈なリリックとフロウでシーンを圧倒。サウンド・システムでのパフォーマンスは即興性に溢れ(ラバダブというスタイル)、そのライヴ感といったらハンパじゃなかった。イエローマンは、ダンスホール・シーンの最大のスターとなるのです。

Yellowman – Mr. Chin

イエローマンは海外でも人気爆発。大メジャーCBSと契約するくらいの存在となりました。そしてブロ・バントン、トーヤンといったディージェイたちも登場。更にすでに人気のあったシンガー、シュガー・マイノット、グレゴリー・アイザックスなどもダンスホールに接近し、シーンは一気にダンスホールに移行します。そして1985年には更なる事件が。また歴史が動くのです。スレンテンです。

Casio MT-40 keyboard (sleng teng riddim)

ハイ、こちら。カシオトーン。日本が世界に誇るカシオトーンMT-40です。ある日キング・タビーの弟子であるキング・ジャミーとウェイン・スミスは、友達のノエル・デイヴィーが持って来たMT-40をいじってました。で、あらかじめインプットされているドラムパターンを試して遊んでいましたが、その中にレゲエのビートはまだ入っていません。

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「じゃ、このロックのビート、ゆっくりにしね?」
「やるっしょ」

そしたらしっくり来ました。更に調整を加え、そこにこれまでウェインが温めていたリリックを乗っけました。

♬ Under mi sleng teng, mi under mi sleng teng, Under mi sleng teng, mi under me hey hey ♬

はい、大ヒット・ナンバー「アンダ・ミ・スレン・テン」が完成。そして新しいリディムであるスレンテンも完成。ベースラインもなく、機材が作ったこの新しいビートは、サウンド・システムでも大ブレイク。どこもかしこもスレンテン一色になるのです。

マイク一本に加えて、安価のキーボードだけでレゲエが出来る!僕にも君にもアナタにも!ダンスホール・レゲエ・シーンは新たな時代を迎えました。スーパーキャットやタイガーなどのスターも生まれ、更にリディムで言えば、スレンテンに負けじと御大キング・タビーはテンポを、テクニクスのウィンストン・ライリーはスタラグというリディムを生み出しました。

Peego & Fatman & King Tubby’s All Star-Crank Angle (Tempo Riddim 1985) King Tubby’s

Sister Nancy – Bam Bam Instrumental (Stalag Riddim Version) Techniques Records

これ以後、ダンスホール・レゲエは、急速にドラムマシンやシンセサイザーを取り入れ、エレクトリック・ミュージック化していきます。特にデジタル・リディム・メイカーのスティーリー&クリーヴィは、リディム・トラックを大量生産し、ヒット曲を連発。彼らが得意とする同じリディムを何度も流用するスタイルも大流行となりました。

90年代に入ると、ダンスホール・レゲエは、ほぼ打ち込み中心の状態になると同時に、「レゲエ=ダンスホール」と言っても過言ではないほどの主流となります。高速ダンスホール・レゲエで、バッドネス色の強いラガも出て来ました。ニンジャマン、そしてスーパースター・ディージェイとなるシャバ・ランクスなどが登場。ただ、シーンが大きくなるにつれ、サウンド・システム周辺の治安が悪化。警察の介入によりサウンド・システムは減少するのですが、逆にダンスホール・レゲエはマーケット~ショウビズの世界へ。それを象徴する存在がブジュ・バントン。ラバダブで修行せずに、レコーディング・アーティストとして登場した彼の登場は、時代の流れを感じさせるものでした。更に90年代中盤からはバウンティ・キラー、ビーニ・マンがシーンを牽引。この二人のビーフは有名でしたね。

一方で、ラスタファリ・ムーヴメントも再燃。ガーネット・シルクの登場、そして謎の死を経て、ルーツ・レゲエが再び脚光を浴び、ルチアーノ、ケイプルトン、シズラなどが台頭。ダンスホール・レゲエは、ラスタとスラックネス~バッドネスの二極化が進むようになります。そして2000年代に入るとショーン・ポールの大ブレイク、バウンティ・キラー率いるスケアデムとアライアンスといったクルーの結成、ギャングスタでありながらラスタでもあるギャングスタ・ラスのマヴァード、ムンガから、ポップコーンやキャラド、アルカラインなどの新世代スター候補も登場。一方、ルーツ・レゲエ・リバイバルとしてクロニクス、ジェシー・ロイヤルなども見逃せない勢力となっています。(こちらもぜひご鑑賞を!「NOISEY JAMAICA レゲエ新世代の逆襲」)

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Alkaline – Things Take Time

このようにスレンテン以降のデジタル化によって、大きく様変わりしたジャマイカのシーンですが、もう一本の流れを忘れてはいけません。そう、元々ジャマイカからの移民が多かったイギリスです。1960年頃にはここでもサウンド・システムが誕生し、ジャマイカの音楽を扱うレーベルも存在していました。そしてデューク・リードがアイランド・レコードと契約し、ジャマイカ・ミュージックを紹介するために立ち上げたレーベル、トロージャンが67年にスタート。これらの楽曲は、元々R&Bやソウルなどの黒人音楽を好んでいたモッズ、スキンズ層に特に支持されます。1970年代には英国からのオリジナル・レゲエ・アーティトも誕生。アスワド、UB40、スティール・パルスなどなど。更にサブジャンルとしてラヴァーズ・ロックも誕生。デニス・ボーヴェルがプロデュースしたジャネット・ケイの「シリー・ゲームス」は大ヒット。またスリッツやザ・クラッシュといったパンク・バンドも積極的にレゲエに接近。エイドリアン・シャーウッドはOn-Uサウンド・システムを設立し、レゲエ/ダブとニューウェイヴの融合を可能にしました。

New Age Steppers – Fade Away

しかし80年代に入ると、本国ジャマイカはダンスホールの時代へ。新しいルーツ・レゲエ、そしてダブは、イギリスに入って来なくなりました。もちろん、イギリスでもダンスホールは受け入れられましたが、本国ジャマイカとは別に、独自の展開でルーツ・レゲエを発展させた男がいたのです。名はジャー・シャカ。彼は、ダンスホールではなく、ルーツ・レゲエ/ダブのデジタル化に成功したのです。このスタイルこそがニュー・ルーツ。イギリスのレゲエからのサブジャンル化がスタート。

Jah Shaka – Deliverance & Kingdom Dub

更にニュー・ルーツを推し進めたのが、ジャー・シャカの弟子であるディサイプルズ。ルーツ・レゲエとダブ、そしてテクノもすんなりとマッチさせました。

The Disciples – Return to addis ababa & dub

また80年代終盤~90年代初頭には、ラガとブレイクビーツを融合させたジャングルが登場。どんどん早くなってBPMは160まで!メジャー・シーンにも切り込んでいきます。しかしそれがブームとして乱立すると、今度はそのアンチテーゼ&進化という形でドラム&ベースへ移行。そして今をときめくダブ・ステップもニュー・ルーツ、ジャングル/ドラム&ベースが、ハウスである2ステップと交配して生まれたもの。どんどんレゲエはアップデートされて行くのです。ただイギリスの流れを見ていくと、ディージェイ、もしくはDJというよりも、ダンスホール~ラバダブ以前のサウンド・システムからの進化という方がしっくり来ると思います。

最後はそのサウンド・システムについて。ラバダブによって、ディージェイのトースティング技術は抜群に発展し、それ以降サウンド・クラッシュは、チャンピオンシップなどの開催により、確固たる人気を誇り続けて行きます。90年代以降定番になったのは、セレクターが二台のターンテーブルを使い、どんどん曲を繋いで行くジョグリン。フロア全体を盛り上げることに特化したスタイルです。

DJ TIPPY JUGGLING @ WORK OUT MONTEGO BAY JAMAICA

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また近年では、システム面にも変化があって、会場の音響設備の発達により、スピーカーを持ち込まなかったり、CDやパソコンなどでのプレイをするサウンド・システム・クルーも出て来ています。そして人気のサウンド・クラッシュ大会は、世界各国で開催されており、日本のマイティ・クラウンが優勝したアメリカのワールド・クラッシュやジャマイカのデス・ビフォー・ディスオナー、イギリスでのグローバル・ゴールド・カップ、そして日本では2012年の「頂上」とか2013年の「激突」などが話題になりました。更にレゲエを越えて、ダブ・ステップ、ヒップホップ、グライム、R&B、ドラム&ベースなどなど、ベースミュージック・シーン周辺での複数ジャンルで争うサウンド・クラッシュ大会も開催されています。

Culture Clash feat Metalheadz, Soul ll Soul, Trojan and DMZ @ RBMA London 2010

さて三回に渡って駆け足で参りましたが、レゲエが本当にとんでもない音楽、そして文化だということをお分かり頂けましたでしょうか。ジャマイカからこの音楽が生まれなかったら、現在のシーンは全く違ったもの、そして全く魅力の無いものになっていたことでしょう。そしてDJではなく、レゲエ・ディージェーとは、やはりジャマイカの顔だと思います。元々既存の音楽をかけていたサウンド・システム。それが魅力あるオリジナルの音楽となり、それを支えるのがMCの役目でした。しかしMCがレコードに乗った瞬間、ディスクをジョッキーし始めた瞬間に、レゲエは従来のDJという言葉を越えてディージェイという世界で唯一の存在、そして主役になりました。そのディージェイこそがレゲエの伝道師。彼らのトースティングがあったからこそ、彼らの愛があったからこそ、レゲエは、世界のレゲエになったのだと思います。

ご存知の通り、レゲエの未来はまだまだ未知数。ここからどんなモンスターが生まれるのか、どんなジャーが生まれるのか、楽しみでしょうがないのジャー!レゲエスゲエ!