文:磯部涼(音楽ライター)

 

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クール・ハークがヒップホップを生み出し、グランドマスター・フラッシュが育てたのだとしたら、アフリカ・バンバータはそれを宗教の域にまで高めた。彼は、70年代半ばにブロンクスで始まり、ひょっとしたら、地元のキッズだけが夢中になった末につかの間の流行として消えてしまったかもしれないものを、商業化するのとはまた別の方法で発展させ、そして、布教したのだ。現在、世界中でDJ/ラップ/ブレイクダンス/グラフィティが、各々、風俗として消費されながらも、原理主義者たちによってひとまとまりの文化として受け継がれているのはバンバータの成果なのである。

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Afrika Bambaataa

ヒップホップの第5の要素に〝知識〟を挙げる思想団体<ユニヴァーサル・ズールー・ネイション>の創立者であるバンバータのバイオグラフィーに関しては不明な点も多い。例えば、Wikipediaには、本名はケヴィン・ドノヴァンだという記述があるが、ジャーナリストで、DJシャドウと共にレーベル<ソウルサイズ>を立ち上げたジェフ・チャンによるとそれは間違いだ。彼は80年発表のバンバータのファースト・12インチ「ズールー・ネイション・スロウダウン」に、バックを務めたハーレム・アンダーグラウンド・バンドのリーダーの、その名前がアレンジシャーとしてクレジットされていたことがミス・リードを誘ったのではないかと推測する。しかし、いちばんの要因はバンバータが過去を積極的には語らないことにあるだろう。そして、それこそがこのDJのカリスマ性を高めるのにひと役買っているものの、本人はそんなことを計算しているはずもなく、彼は、かつてズールー・ネイションがニューヨーク市警察からギャングだと怪しまれていたがために、プライヴェートを無駄に語らないようになったのだった。ただし、〝その後、アフリカ・バンバータと名乗るようになる男〟のかつての姿を知る人物の証言を継ぎ接ぎすることによって、ある程度の事実は浮かび上がってくる。多くのひとの記憶に刻み込まれているのは、少年時代の彼が部屋の窓を開け、外に向かって音楽をかけていた姿だ。その周りにはいつもキッズが溜まっており、彼はリーダーとして親しまれていたという。ひょっとしたら、その姿は今とあまり変わらないのかもしれない。

バンバータは57年4月、ニューヨーク市マンハッタン区で、ジャマイカ系とバルバドス系の両親の間に生まれた――らしいということも分かっている。その後は、看護師だった母親の手によって、ブロンクス区の低所得者用公営住宅=ブロンクス・リヴァー団地で育てられたが、彼女は幅広いレコード・コレクションを持っており、棚には南アフリカのミリアム・マケバや、トリニダード・ドバゴのマイティ・スパロウ、スパニッシュ・ハーレムのジョー・キューバ、そして、アレサ・フランクリン等のアルバムが並んでいた。また、伯父は有名なアクティヴィストで、親族にはブラック・イスラムの敬虔な信者も多かったため、バンバータも少年時代からアフロ・アメリカンの歴史と現在の状況に強い関心を抱いていた。例えば、彼は少年時代に観た『ズールー戦争』(原題『Zulu』、サイ・エンドフィールド監督作品、64年)に感銘を受けている。同作は1879年に南アフリカで起こった、大英帝国軍とズールー王国軍の戦いを前者の視点から物語化した、現在のポリティカル・コレクトネスに照らし合わせてみればかなり問題のある映画だが、バンバータは、劇中、極めて原始的に描かれるズールー王国軍に、しかし、コケージャンと真っ向から戦う勇気を読み取り、興奮したのだ。もしくは、この、作品の意図とは別のところに価値を見出すセンスは後の彼の音楽活動でも発揮されることになるだろう。

Cy Endfield – Zulu (Trailer)

しかし、そんな文化的な少年は、次第にストリート・ギャングの世界に引き込まれていく。当時のブロンクスはギャングの全盛期で、プエルトリカンやコケージャンといった異人種間だけでなく同じアフロ・アメリカンでもチーム間で激しい抗争が行われており、銃声が鳴り止まなかったことから〝リトル・ヴェトナム〟とさえ呼ばれていた。そんな状況だったがために、武器になる人材を欲していたギャングが、カリスマ性があり、体格が大きく、頭の切れる少年を放っておくはずがなかったのだ。バンバータは地元のギャング=ブラック・スペーズに加入。軍事司令官に任命されると、本で学んだ戦争の歴史をストリートの状況に置き換えることで見事に立ち回り、成果を挙げていく。やがて、ブラック・スペーズはハーレムやブルックリン、クイーンズにも進出し、ニューヨーク最大のギャングとなった。とは言え、バンバータは決して好戦的だった訳ではなく、敵チームにも友人が居て、揉め事がある度に調停役を買って出ていたのだという。そして、75年1月、彼は従兄弟のソウルスキーが警察官に射殺されたことをきっかけにストリート・ライフから足を洗うことを決意する。同年、公営住宅局の作文コンクールで優勝し、賞品のチケットでアフリカへ行った経験も大きかった。彼は『ズールー戦争』を通して憧れていた先祖の地を実際に踏み、本当の敵と自身の使命について深く考えるようになったのだ。

バンバータは、ブラック・スペーズから分派する形で結成したブロンクス・リヴァー・オーガニゼーションというギャング・チームをジ・オーガニゼーションに改めると、ブロック・パーティをオーガナイズし始める。その頃、ブロンクスのキッズの間では、もうギャングはうんざりだとばかりに新しい文化が芽生えつつあり、血気盛んなキッズたちはクール・ハークを筆頭とするDJがかけるブレイクビートに合わせてダンスの技を競うことでストレスを発散し、グラフィティ・ライターたちはギャングがつくった地図を書き替えるかのごとく彼らの縄張りを越境してはタグを描いていた。ブラック・スペーズを脱退したメンバーがクール・DJ・Dとディスコ・キング・マリオというDJになって活躍し出したことにも影響されたバンバータは、まずはふたりの元で既に豊富だった自身の音楽についての知識をDJとして発揮することを学び、満を持してフライヤーを刷る。彼はギャングの仲間たちにそれを手渡しながら、チームを認識するためのギャング・カラーは身に付けて来ないように言ったという。そして、当日、バンバータは満員のフロアに向かってまずはマイクを通してこう宣言したのだ。「今のギャング同士の争いは警察が仕向けているんだ。オレたちは仲間だ。共に音楽を楽しもう」と。

その神秘性も手伝って、バンバータを巡る逸話は過剰になりがちだ。「ヒップホップの名付け親」説は前回書いた通り違うだろう。「ヒップホップ4大要素を定義した」説は、もともと、自然な状態としてあったものに対して意識的になったという意味ではそうかもしれない。ひとつだけはっきりと言えるのは、彼は他の誰よりも〝その後、ヒップホップと呼ばれるようになるムーヴメント〟の多文化主義、あるいは、折衷主義に可能性を見出したのである。バンバータのブロック・パーティには様々なギャングや、プエルトリカンも足を運んだ。コケージャンとの融和もダウンタウンに進出した際に達成される。また、そのような考え方は、DJ・プレイにも表れており、彼はありとあらゆるジャンルのレコードをかけることから〝マスター・オブ・レコーズ〟と呼ばれるようになる。例えば、80年代初頭にブロンクスのジェームズ・モンロー高校で行われたバンバータのDJを収めたブートレッグ『デス・ミックス』にはその音質の悪さも相俟って呪術的な雰囲気が漂っているが、ジャクソン・ファイヴ「イッツ・グレイト・トゥ・ビー・ヒア」、グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイヴ「スーパーラッピン」、リック・ジェームス「ファイアー・イット・アップ」、クイーン・サマンサ「テイク・ア・チャンス」、コール・キッチン「キープ・オン・プッシン」……と、ブレイクをねちっこく2枚使いしていった後、この音源を初めて聴いた日本人が驚くのは、YMO「ファイアークラッカー」がかかることだろう。

D.J. Afrika Bambaataa – Death Mix

クール・ハークが主にR&Bやファンク、ラテン・ロックのブレイクを使っていたのに加えて、バンバータはザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズ、ザ・モンキーズ、フライング・リザーズ、スージー・アンド・ザ・バンシーズ、ゲイリー・ニューマン……果てはTVから録音したコマーシャル・ソングまでかけた。彼はそのような他の誰も知らないブレイクを見つけるため、ニュージャージーやコネティカットといった他州まで足を延ばした他、ヒップホップ・DJにしては珍しくレコード・プールに入会して、新譜を片っ端から聴いていたという。十八番はクラフトワーク「トランス・ヨーロッパ・エクスプレス」とマルコム・Xのスピーチのミックスだ。あるいは、ジ・オーガニゼーションはズールー・ネイションへと発展し、インフィニティ・レッスンズと呼ばれる教義を掲げるようになったが、それは、ネーション・オブ・イスラムやファイヴ・パーセンターズに影響を受けつつも、ブラック・ナショナリズムではなくマルチエスニシズムを打ち出しており、様々な宗教や哲学のコラージュで成り立っていた。つまり、バンバータが実践していたことは、音楽に限らずありとあらゆるものの良いところだけを抜き出して繋ぎ合わせるという〝ブレイクビートの思想〟なのである。また、そこからは、ひとつの明確なメッセージが立ち上がる。「ピース(平和)、ラヴ(愛)、ユニティ(団結)、アンド・ハヴィング・ファン(楽しむこと)」だ。ズールー・ネイションにとってパーティは宗教的な祝祭空間だった。

そのメッセージをポップ・ソングの形にまとめたのが82年発表「プラネット・ロック」である。もしくは、それまで、ヒップホップを大して知らないレーベルがつくっていた同ジャンルの12インチは、DJが様々なレコードを2枚使いする上でMCがグルーヴしていくというひと晩のパーティの流れをヴィニールの片面に凝縮するにあたって、バンドがDJの代役を務め、ひとつの曲のブレイクを淡々と繰り返す演奏に合わせてラップしていたため、カヴァーや替え歌としか思われていなかったが、「プラネット・ロック」によってヒップホップ・DJの革新性は初めてレコーディングされたのだ。バンバータによる、クラフトワーク「ナンバーズ」のリズムと「トランス・ヨーロッパ・エクスプレス」のメロディ――ちなみに、曲の最後の方で顔を出すのはエンリオ・モリコーネが書いた『夕日のガンマン』のメイン・テーマ――をミックスするというアイデアは、プロデューサーのアーサー・ベイカーとプログラマーのジョン・ロビーの力を借りることで見事実現する。そして、同年発表のグランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイヴ「ザ・メッセージ」が〝現実〟を歌ったのに対して、バンバータとズールー・ネイションのラップ・グループ=ザ・ソウル・ソニック・フォースは、その多文化主義的、折衷主義的なトラックの上で、「もし地球がひとつのブロック・パーティだったら」という〝理想〟を歌った。確かにラップ・ミュージックに限れば未来を予言していたのは前者かもしれない。しかし、後者はエレクトロやマイアミ・ベースといったサブ・ジャンルを派生させ、その延長線上に現在のベース・ミュージックの潮流もあるように思える。もしくは、〝ブレイクビートの思想〟はディプロのようなDJにも引き継がれている。バンバータはヒップホップがかつて持っていた可能性を布教するからこそ、その影響は、むしろ、ヒップホップを越えていくのだ。

Afrika Bambaataa & The Soul Sonic Force – Planet Rock

主な参考資料:
■ビル・ブルースター/フランク・ブロートン=著、島田陽子=訳『そして、みんなクレイジーになっていく』(プロデュース・センター出版局、03年)
■ジェフ・チャン=著、押野素子=訳『ヒップホップ・ジェネレーション~「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語』(リットーミュージック、07年)
■『Wax Poetics Japan No.7』掲載、マーク・マッコード=著、ハシム・バルーチャ=訳「The Birth of “Planet Rock” – 宇宙から送信されたメッセージ~「Planet Rock」の誕生とエレクトロの影響力」(サンクチュアリ出版、09年)