ローファイバンドからメジャーレーベル会社員 そしてプレジデントになった男

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ローファイバンドからメジャーレーベル会社員 そしてプレジデントになった男

Beatsこと〈Beats by Dr. Dre〉のプレジデントであるルーク・ウッドが来日。彼は、NIRVANAやSONIC YOUTHが所属したメジャーレーベル〈GEFFEN RECORDS〉の出身であり、PRディレクターからプロデューサー業まで、幅広く音楽業界を支えてきた人物だ。しかしこの男、見たことある…絶対に見たことあるぞ…。

5月某日、都内某スタジオにて、Beatsのプレジデントであるルーク・ウッド(Luke Wood)と、Dragon Ashの降谷建志(Kj)氏によるトークセッションが開催された。

Beatsこと〈Beats by Dr. Dre〉は、2006年にドクター・ドレ(Dr. Dre)と、大手レコードレーベル〈INTERSCOPE GEFFEN A&M RECORDS〉の会長ジミー・アイオヴァイン(Jimmy Iovine)が立ち上げた音楽企業だ。ヘッドフォン、イヤフォン・スピーカーなどを手がけているほか、ストリーミング・ラジオBeats1も展開。2014年には、アップルが総額30億ドルで買収し、このニュースはここ日本でも大きく取り上げられた。

同社のプレジデント、ルーク・ウッドは、NIRVANAやSONIC YOUTHが所属したメジャーレーベル〈GEFFEN RECORDS〉の出身。PRディレクターからプロデューサー業まで、幅広く音楽業界を支えてきた人物である。そんな経歴から今回のトークセッションは、巨大な〈卓〉を舞台に、実際にレコーディングがどのように進められているのか、解説をまじえながら進められた。降谷氏は、Dragon Ashのニューアルバム『MAJESTIC』からの楽曲を、ルーク・ウッドは、50セント、BLACK EYED PEAS、エリオット・スミス(Elliott Smith)の曲をサンプルにしながら、トラックが重ねられていく様を細かく説明してくれた。

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しかし、このルーク・ウッド、どこがで見たことがある。絶対どこかで見たことがある。会話の節々に、パンク、ハードコア、オルタナ系アーティストの名前がビシビシ登場する。AFIのつまらなかったレコーディング話から、「私も昔はバンドをやっていた」発言など、うーむ、やはりこの男、なにかを持ってる、なにかあるぞ、とありがたいレコーディング講義を受けながらググっていると、はい、やっぱり出た。この人、SAMMYだった。

SAMMYは、90年代に活動していたオルタナ系ギターバンドだ。当時隆盛極めた〈ローファイムーヴメント〉を代表するバンドで、大ブレイクには程遠いながら、PAVEMENTやSEBADOH、GUIDED BY VOICESなどとシーンを牽引していた。1994年にはSONIC YOUTHのスティーヴ・シェリー(Steve Shelley)が設立したレーベル〈SMELLS LIKE RECORDS〉からファーストアルバムをリリース。そして1996年には、なぜか彼自身が働いていたGEFFENから、セカンドアルバム『Tales of Great Neck Glory』でメジャーデビューを果たす。ファーストで展開されていたローファイバンド特有のチープでトテチテタなサウンドは確実に進化していた。THE VELVET UNDERGROUNDから繋がる蒼いサイケデリック感とノイズアプローチ、そして、より輪郭がはっきりしたメロディラインを奏で、ローファイだのムーヴメントだのを超えた、素晴らしい〈オルタナティヴロック〉を展開していたのだ。このアルバムでSAMMYは、ワンオブゼムな存在ではなくなり、その後の活動にも期待が寄せられていたのだが、なぜかそのあとはなんの音沙汰もなくバンドは消滅。よくある〈メジャー移籍→失敗→解散〉のパターンにSAMMYも飲まれたのだ、と勝手に判断していたのだが、うーむ、そうではなかったようだ。

THE VELVET UNDERGROUNDです。今でも大好きですね。ギタープレイでいうと、TELEVISION、FAIRPORT CONVENTIONのリチャード・トンプソン(Richard Thompson)、そしてニール・ヤング(Neil Young)。彼らのギターを聴いて学びました。でもやはり、THE VELVET UNDERGROUNDが大きかった。彼らを聴いて、人格が形成されたといってもいいほどです。反抗的な態度をとりながら、アーティスティックでもあり、大胆不敵、エモーショナル、そしてもちろん完全オリジナルなスタイル。私が好きになったあらゆる音楽のベースがそこにはありました。

SAMMY結成のいきさつを教えてください。

SAMMYは、大学時代の親友であるジェシー・ハートマン(Jesse Hartman)とのプロジェクトでした。もともと、彼とは別のバンドを組んでいたんです。私はリード・ボーカルとリズム・ギターを、彼はリード・ギターを担当していましたが、SAMMYではふたりのパートを交代しました。とても楽しいトレードでしたよ。その頃、ジェシーはフロリダで映画制作をしており、私はニューヨークに住んでいたので、曲のアイデアはカセットテープに録り、お互いに送り合っていました。そして2、3カ月に1回くらいニューヨークで会い、録音するためスタジオに入っていました。インターネットなんてない時代でしたから。

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SAMMYのファーストアルバム『Debut Album』は、SONIC YOUTHのスティーヴ・シェリーが設立したレーベル〈SMELLS LIKE RECORDS〉からリリースされましたよね?

当時私は、SONIC YOUTHのプロモーション担当として、GEFFEN RECORDSで働いていました。ですから彼らとは親しい間柄だったんです。その頃、スティーヴはSMELLS LIKE RECORDSを立ち上げたばかりでしたが、既にBLONDE REDHEADの素晴らしいアルバムをリリースしていました。私たちは、どこのレーベルとも契約していませんでしたが、まずはファーストアルバムを自分たちでレコーディングし、スティーヴの意見を聞くために渡したら、彼はとても気に入ってくれて、SMELLS LIKE RECORDSからのリリースが決まったんです。彼はとても心強い存在であり、今でも良い友人です。その後はありがたいことに、ヨーロッパではFIRE RECORDS、日本ではTIME BOMB RECORDSがライセンス・リリースし、サポートしてくれました。

日本でSAMMYは、PAVEMENTやSEBADOHあたりと並んで〈ローファイムーヴメント〉の重要バンドとして注目を集めていましたが、ご自身は〈ローファイバンド〉と呼ばれることをどう思っていましたか?

セカンドアルバムの『Tales of Great Neck Glory』をリリースする頃には、もっとしっかりしたプロダクションで演奏していたのですが、実際にローファイバンドだったので、そう呼ばれるのも当然です。ファーストアルバムは8トラックのカセットによる録音でした。インディペンデントな活動をしていたので、作品をリリースするには、そうするしかなかった。まぁ、録音するお金がなかったのも事実です。また、ストレートな感情を大切にしていた…例えばBLACK FLAG、HÜSKER DÜ、MINOR THREATなどのバンドに親しんで育った世代ですから、その影響も確実にありましたね。米国では1980年代半ばに、メジャーレーベルがインディーズ系バンドと契約するようになり、商業的な成功の期待が高まるにつれ、レコーディング予算も増え始めました。1990年代のローファイムーヴメントは、DINOSAUR JR.が1987年にリリースしたセカンドアルバム『You’re Living All Over Me』から始まったと私は思っています。このアルバムには、しっかりしたメロディや独特の雰囲気が溢れていますが、パンクが持つ原始的なストレートさも備えていて、当時の生ぬるいカレッジ・ロックをぶち壊そうとする意識的な欲求さえ聴こえてきます。常に録音は、ハイファイとローファイのあいだを正弦波のように揺れ動いています。現在も素晴らしいラップ・ミュージックのなかには、ローファイサウンドが存在しています。それはプロダクションであり、表現でありながら、同時に究極的な感情のツールのひとつだともいえるのではないでしょうか。

あなたは、1991年からGEFFEN RECORDSで働き始めたんですよね? レコード会社に就職した経緯を教えてください。

NIRVANAの『ネヴァーマインド』(Nevermind)が、GEFFEN RECORDSからリリースされたのも1991年ですね。

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はい。1991年は印象的な年でした。この年にGEFFENにいたという事実には、とても深い縁を感じます。1991年以前、オルタナティヴ・ミュージックは、メジャーレーベルにとって趣味のようなものでした。R.E.MやU2のブレイクもありましたが、ヘヴィで風変わりな音楽は過小評価され、常にカレッジラジオに追いやられていたんです。NIRVANAというグループ、そして『ネヴァーマインド』というアルバムは、オルタナティヴバンドが、商業音楽の世界で果たして何を成し遂げられるのか、という概念を覆したんです。

NIRIVANAが大ヒットしたときのGEFFENの様子はいかがでしたか? 何か面白いエピソードがあれば教えてください。

SAMMYは、そのGEFFENから『Tales of Great Neck Glory』でメジャーデビューしました。あなたはGEFFENのスタッフとしても働いていたわけですが、どうしてこのような形になったのですか?

SMELLS LIKE RECORDSからシングルでリリースした「Inland Empire」という曲が、頻繁にオンエアされはじめたので、次のアルバムは、きちんとした録音スタジオで制作しよう、と決めていたんです。しかし、まだ自費制作で、セルフ・プロデュースのままでした。ただ、アルバムのミキシングが完了した頃、いくつかのメジャーレーベルが私たちとの契約に興味を示し始めたんです。そこで、ゲフィンのA&Rをやっていたロバータ・ピーターソン(Roberta Petersen)にもアルバムを聴いてもらったところ、彼女が契約したいといい出したのです。ライバルのレーベルからアルバムを出すのもおかしな話なので、1996年にゲフィンと契約しました。私にとってはそれが最善の結論でした。

では、なぜSAMMYをやめたのですか?

そのとき私はマーケティング・ディレクターだったんですが、ある日、ボスのデヴィッド・ゲフィン(David Geffen)から呼び出しの電話がかかってきたんです。そこで「オマエ、バカか?」といわれました。「オマエはロックスターとして成功しない。でもレコード会社のスタッフとしては成功する。素晴らしい才能がある。だからもうそっちをやれ」とね。「はい」と即答しましたよ(笑)。

これまで私は、本当に才能あふれるアーティストたちと仕事をしてきました。JIMMY EAT WORLDからは、本当に好きな音楽を演奏し続けて、オーディエンスに見出してもらおう、という誠実さを学びました。BRAND NEWとAFIからは、プロフェッショナルなアーティスト人生のなかで育まれる本物の友情のパワー、そしてTV ON THE RADIOからはサウンドが持つパワーを学びました。そして、最も影響を受けたのは、たぶんエリオット・スミスですね。彼は音楽界でどうやって生きていくか、音楽を通じ、正直かつ明確に自己表現をする方法、そして音楽の美しさと醜さのなかにある真実を恐れてはならないことを教えてくれました。エリオットとの仕事が、最高に幸せな瞬間だったとはいい切れませんが、間違いなく人生最大の影響を受けた瞬間でした。

セッションの冒頭ではなしていた〈AFIのつまらなかったレコーディング〉について教えてください。

彼らが2003年にリリースしたアルバム『シング・ザ・ソロウ』(Sing the Sorrow)のレコーディングですね。ジェリー・フィン(Jerry Finn)とブッチ・ヴィグ(Butch Vig)の共同プロデュースだったんです。もちろんふたりとも素晴らしいプロデューサーですが、レコーディングに対する姿勢は異なっていて、ジェリーはどちらかというとギターとか各パートの音にこだわり、ブッチはもっとプロダクション寄りで、ヴォーカルなどにこだわるタイプだったんです。で、まずジェリーがドラムの音づくりから始めたんですけど、「ドン、パーン!、ドン、パーン!」というあれですね、これを3日間やり続けたんですよ。たったそれだけを3日間。正直つまらなかった(笑)。その3日間で、30種類のスネアドラムを試したり、スタジオじゅうのいろんな場所に移動させたり、マイクの位置を変えたり、とにかくいろいろ試すんです。もうそれは、雲ひとつない青空を飛びながら、素晴らしいなにかに出会うのを期待しているような作業でした。で、3日後にブッチが登場したんですが、ある音を出したら「それでいい! それが完璧だ!」とこの作業を終了させたんですね。あれは素晴らしい決断でした(笑)。先ほどの話に戻りますが、やはり交通整理をする役割がレコーディングには必要だ、と改めて感じた出来事でした。

では、現在のBeatsファミリーに参加した経緯を教えてください。

GEFFENのあと、〈INTERSCOPE RECORDS〉で7年間、ジミー・アイオヴァインの下で働いたあと、彼とドクター・ドレーが立ち上げたBeatsに入社しました。ジミーを通じてドレーとも友人になり、多くのプロジェクトにも取り組みました。音楽制作のプロジェクトもあれば、音楽ビジネスのプロジェクトもありましたね。

友人のフィービー・ブリッジャーズ(Phoebe Bridgers)の新しいアルバムにハマっています。彼女はロサンゼルスを拠点に活動するシンガーソングライターです。あとはARCADE FIREの新しいシングル「Everything Now」や、ケンドリック・ラマー(Kendrick Lamar)の「HUMBLE」、そしてサンファ(Sampha)も好きですね。他にも良い音楽はたくさんあります。先日、東京で水曜日のカンパネラに会いましたが、新しいシングル「メロス」はいいですね。90年代以降、ヒップホップもロックも、オルタナティブミュージック・シーンは活気がありますね。

はい。メイン・ストリームのオルタナティブとしての音楽シーンは、なくならないでしょうね。それは、革新的な作品が生まれる文化の境界にあり、リスクを恐れず、音楽のあり方を再定義します。NIRVANA、RADIOHEAD、ケンドリック・ラマー、エミネム(Eminem)など、各時代にはそうしてきたアーティストたちがいます。芸術性と商業性の葛藤が、偉大なアーティストをインスパイアし、刺激し、意欲をかきたてるのでしょう。音楽は、いってみれば、包括的な芸術形態であり、最も奥深い真摯なものであり、多かれ少なかれオーディエンスを見出します。大切なのは、仕事における誠実さです。