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亡き息子エイサップ・ヤムズの誕生日に母からの手記

2010年代ヒップホップシーンの重要人物であり、経営者としても活躍していた故A$AP Yams。彼の死からもうすぐ3年。息子の死について、そしてその死が自分自身に与えた影響について、残された母親が手記を寄せた。
亡き息子エイサップ・ヤムズの誕生日に母からの手記

2010年代ヒップホップシーンの重要人物であり、経営者としても活躍していた故スティーヴン・ロドリゲス(Steven Rodriguez)、別名A$AP Yams(エイサップ・ヤムズ)。2015年にドラッグのオーバードーズによって26歳の若さで亡くなった彼は、A$AP Rocky(エイサップ・ロッキー)や、A$AP Ferg(エイサップ・ファーグ)を生み出したヒップホップ集団A$AP MOB(エイサップ・モブ)の創始者であった。

ヤムズの母親、タチアンナ・パウリーノ(Tatianna Paulino)が息子の死について、そしてその死が自分自身に与えた影響について、手記を寄せた。

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11月13日。息子スティーヴン・ロドリゲスが生きていれば29歳になります。

2015年1月18日午前3時頃、電話が鳴りました。画面に表示されていたのはスティーヴンのルームメイトの番号でした。息子は友人の電話を借りて、しょっちゅう私に電話をしてきていましたが、こんな時間にかかってきたのは初めてだったので、これは良い知らせではないと私は直観しました。「タチおばさん、スティーヴンの具合がよくないんだ」。不安そうに話すその声が、誰の声なのかも私にはわかりませんでした。心臓がドクドクと鳴り始めました。

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電話の向こうで喋っているのは、スティーヴンのルームメイトでした。「今、救急車でブルックリンのウッドハル病院に向かっている」。私は聞き返しました。「何ですって? 本当なの? 息子は生きているの!?」 彼は喧騒の中から、「スティーヴンは大丈夫だ」と、いって私を安心させようとしていましたが、何か非常によくない状況になっているのがわかりました。

私はひとりだったので、酷く混乱し、絶望的な気分になりました。すぐに仕事中の夫に連絡しました。しかし、繋がらなかったので、夫の兄弟に連絡を取り、スティーヴンが搬送される病院に、車で連れていって欲しいと頼みました。車を待つ時間は永遠かのようでした。そして20分後に車が到着しました。ブロンクスの私の家から病院までの道のりを、私も彼も知らなかったのですが、とにかくスティーヴンに会うために高速を飛ばしました。しかし、車を走らせて15分も経たないうちに再度電話があり、私の大事な息子が26歳で命を落とした、と知りました。

私は信じられず、「いや! いや!」と叫びました。彼はすぐに車を停めました。私たちは、「信じない!」と叫びました。路肩に車を停めたまま、10分ほど私たちはショックを受けていました。そしてブルックリンへ、長く静かなドライブを続けました。

走馬灯のようにスティーヴンを思い出していました。微笑む姿、大笑いしている姿、いたずらをする姿。私が仕事から帰宅したとき、物陰に隠れては、とんでもない大声で、「わあっ!」と私を驚かし、全身で笑っていた息子。私がベッドで寝ているときは、指で私のまぶたをこじ開けて、「目覚めてる? 起きてる?」なんて、ふざけていた息子。いつもあの子は笑っていて、楽しそうで、輝いていました。

そんな息子が死んだ。楽しかったあの瞬間を二度と共有できない。そう気付いたとき、息が止まりそうになりました。何も考えられませんでした。私のひとり息子が死んだんです。信じられませんでした。

救急治療室の待合室に向かいました。そこでスティーヴンの友人や仲間に会いました。彼らは辛そうな顔をしていました。でも彼らは生きている。私は騙されているような気さえしました。「どうして私の息子をしっかり見ていてくれなかったの?」と詰め寄りたかったのですが、すぐに息子の遺体が安置されている部屋へと案内されました。身体中の穴に管が通されていました。私は駆け寄って、起こそうとしました。「起きて、スティーヴン。目を覚まして。ほら、お母さんはここにいるから」。ここで私は限界を迎えました。私は気を失いました。

スティーヴンの死因は、ドラッグのオーバードーズだと知りました。確かに息子は、過去にドラッグ依存症の治療を受けていましたし、彼の仲間の数人が、『New York Times』などのメディアに、「彼は常にドラッグの問題を抱えていた。ドラッグについて悩んでいた」と語っていましたが、それも事実です。

それでも、「ただのドラッグの問題」として息子の死を片付けてしまうのは、あまりに単純で、あまりに簡単過ぎます。息子が死んでから、彼が中毒になったドラッグ、「リーン(lean)」について私はできる限り調べました。コロンビア大学の教授で、ドラッグ専門家のカール・ハート(Carl Hart)博士にも何度か会いましたし、博士の著書『High Price』を読み、ドラッグに依存してしまう社会的、生物学的な要因についても多くを学びました。

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Photo via A$AP Mob's Instagram

息子は、エイサップ・モブを、「ひとつにまとめて成長させていく」「成功させる」「ヒット曲を生み出す」など、たくさんの責任とプレッシャーを抱えていました。また、創造性豊かな友人たちをまとめるために、かなりの時間と労力を割きながらも、同時に、「搾取されているような気持ちになる」と私に打ち明けたりもしました。いつもスティーヴンは、金銭的に逼迫していました。大金を手にする機会などありませんでした。実際、私が従業員給付制度(employee benefits plan)を利用して、彼のドラッグ治療費を払わなければならなかったほどです。彼もそれを知っていました。息子は時が経つにつれて、エイサップ・モブでの自らの役割、立ち位置についてナーバスになっていったようです。精神的にも、肉体的にも、ビジネスの負担が大きくのしかかるようになっていたのです。仲間内の楽しい集まりから、「A$AP Worldwide」* をビジネスにしなくてはならない。その変遷を窮屈に感じていたのです。息子がドラッグを使用していたのは、プレッシャーから逃れるため、そして解放されるためのひとつの手段だったのです。
* エイサップ・モブが運営するレーベル/ストリートブランド。

彼が使用していたリーンは、コデインを成分とする咳止めシロップと、味付きのソフトドリンクを混ぜてつくります。「purple drank」、「po」、あるいは「syrup」とも呼ばれています。コデインはモルヒネに似たオピオイド* で、ケシから見つかる天然由来の化学物質です。咳を抑えるため、あるいは軽~中等程度の痛みの緩和のために、医療目的で利用されています。このドラッグは、接種者をストレスから解放し多幸感をもたらします。つまり、コデインは「ハイになるため」に利用できるのです。
* 麻薬性鎮痛薬や、関連合成鎮痛薬などのアルカロイド及び、モルヒネ様活性を有する内因性、または合成ペプチド類の総称。

2000年にはDJスクリュー(DJ Screw)が、2007年にはピンプC(Pimp C)が、それぞれ同じドラッグの摂取により亡くなっています。もしスティーヴンがそれを知っていたなら、と私は仮想しました。また、どうしてそんな危険な咳止め薬が市場に出回っているのか不思議でした。しかし、そこには一筋縄ではいかないストーリーがあるのがわかりました。ハート博士とのディスカッションで、オピオイド単体でのオーバードーズで亡くなる可能性はあるものの、それは一般的ではない、と学びました。オピオイドに関連した死亡例の大半は、複数のドラッグを摂取した結果です。特にオピオイドと他の鎮静剤…アルコールやベンゾジアゼピンなどを併用すると起こるそうです。

スティーヴンの検査レポートによると、彼が摂取していたのはコデインだけではなかった、と判明しています。同時にオキシコドン* と、アルプラゾラム** を摂取していたのです。オピオイドと他の鎮静剤を併用する危険性を彼は知っていたでしょうか? もちろん私は全く知りませんでした。一般へのドラッグ情報は、起こり得る最悪の結果を過小評価するような注意ではなく、もっと明確に、もっとシンプルに、真の懸念を強調する警告として拡散されるのを願います。つまり単純に、「オピオイドと他の鎮静剤を混ぜないで!」と警告すればいいのです。もしそういうメッセージが発信されていたら、もしかしたら、私の息子は今も生きていたかもしれません。
* オピオイド系の鎮痛剤。
** 抑うつ状態に効果を発揮するベンゾジアゼピン系の薬。

ハッキリいうと、私を含む親たちは、もちろんドラッグ使用に反対すべきです。でも、私の息子は、ただハイになりたかった。死にたかった訳ではないのです。多くの若者が同じような経験をしています。好むと好まざるとに関わらず、彼らが安全に生きられるように、私たちはできることをすべてやるべきです。それは人としての義務です。

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「A$APファウンデーション(The A$AP Foundation)」 は、ドラッグ乱用に対する意識を高め、乱用を防止するための活動をしており、このコミュニティ内では、依存症の影響を小さくする道を模索している。彼らの活動を知るにはこちら