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セックス抜きでプリンスは語れない

プリンスのディスコグラフィさえあれば、学校で、保健の先生が〈フィストファック〉についてしどろもどろに説明する必要もない。プリンスの普遍的なエロティシズムは、あらゆる二元論を軽々と超えている。プリンスが優しくも獰猛に性を歌うと、ジェンダーも性的指向も霧散する。
Emma Garland
London, GB
セックス抜きでプリンスは語れない

プリンスの訃報を耳にしたとき、私は、ついぞ味わったことのない衝撃を受けた。最初はとにかく信じられなかった。次に恐怖と吐き気に襲われた。そして身体じゅうの水分が絞り出されるかのように涙がこぼれ、胃が激しく痙攣した。母親から、大丈夫かとメッセージが届いた。身内も含め、誰かの死にさいして、あんなに早く母親から連絡がきたことは、後にも先にもない。普段、携帯なんてほぼ使わない父親も、自分のお気に入りソングだといって〈スノウ・イン・エイプリル(Sometimes it Snows in April)〉のリンクを送ってきた。プリンスが座るスツールの軋む音が聴こえるのがいい、と父はメッセージをくれた。私は、プリンスのコンサートを生で観られなかった自分を呪った。同時に、プリンスという天才と、長大な宇宙史の刹那を共有できた奇跡に感謝した。彼を讃える言葉など、この世にない。それほど偉大なプリンスの死を、私は心から悲しんだ。そして私は、セックスについて考え始めた。

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セックス抜きでプリンスは語れない。プリンスのディスコグラフィさえあれば、学校で、保健の先生が〈フィストファック〉についてしどろもどろに説明する必要もない。プリンスの普遍的なエロティシズムは、あらゆる二元論を軽々と超えている。プリンスが優しくも獰猛に性を歌うと、ジェンダーも性的指向も霧散する。私たちは、今後、プリンスのようにタイトな衣装を着てクラブで踊るときも、『ダーティー・マインド』(Dirty Mind, 1980)を聴き、泣きながら家でスパゲッティをむさぼるときも、プリンスを、そして、彼のエロティシズムを悼み続けるだろう。

プリンスは、米国黒人男性が求められるセクシャリティの規範をことごとく打ち破った。フランク・オーシャン(Frank Ocean)が評したように、「彼は、ビキニとハイヒールブーツでテレビに出た史上初の黒人ストレート男性」だった。また同様に、権力にも盾突いた。彼は、発音できないシンボルを名前にし、頬に〈SLAVE(奴隷)〉と書き、当時契約していたワーナー・ブラザースに激しく抗った。プリンスの芸術性の中心には奇行があり、彼の名声、影響力、伝説と切っても切り離せない。しかし同時に、私たちそれぞれの心のなかに、それぞれの〈殿下〉像がある。

英国白人クィア女性である私にとって、彼の女性の扱い方こそが、殿下が殿下たるゆえんだった。それは、彼の歌詞、女性がまだ圧倒的少数だった音楽業界にいながら、パーカッションなど男性優位のセクションで積極的に女性ミュージシャンを起用する彼の姿勢、アルバム『ラヴセクシー』(LOVESEXY, 1988)のジャケットで魅せた、右手で乳首を隠したボッティチェリのヴィーナスのようなフルヌードに表れている。プリンスは、女性の力強さと美しさに敬意を払うことを惜しまなかったし、力強さと美しさは女性の裡に共存できる、と世間に提示したのだ。

私は、年齢を重ね、歌詞の意味を徐々に理解し、プリンスがいかに女性を愛していたかに気づいた。いわゆるラブソングに限った話ではない。彼の女性観、女性の描きかたに、愛があるのだ。男性アーティストの音楽作品では、女性はいつも受け身の〈欲望の対象〉として描かれる。それはもはや、女性の姿が描かれていないも同然だ。一方、プリンスは畏敬と共感をもって女性を描く。彼の歌う女性は、等身大で、力強くて、複雑で、敏感で、セクシュアルだ。プリンスは、そんな女性たちから様々なことを学び、そして、人生を充実させたのだ。プリンスの女性観は、B面や、控えめなアルバム収録曲でひっそりと歌われているのではない。彼のヒット曲で、堂々と歌われている。

プリンスは、『ラヴセクシー』からシングルカットされた〈アルファベット・ストリート(Alphabet Street)〉で、臆面もなくオーラル・セックスを歌う。〈ビートに抱かれて(When Doves Cry)〉をはじめ、女性の欲望の描写を研究する学術論文も多々ある。〈ドゥ・ミー・ベイビー(Do Me, Baby)〉では、世間で女性のものとされてきた「私を押し倒してほしい」という欲望を、プリンスが打ち明ける。〈スキャンダラス(Scandalous)〉では掠れたファルセットで叫んだ。「今夜は僕が 君のファンタジーになろう」。つまりプリンスは、意識的に自分が〈欲望の対象〉になり、女性の快楽に奉仕する歓びを実感しているのだ。『パープル・レイン』(Purple Rain, 1984)の圧倒的エクスペリメンタル・ソング〈ダーリン・ニッキー(Darling Nikki)〉で、彼は、ペアレンタル・アドバイザリー(parental advisory)のステッカーをPMRCが考案しなければならなかったほど卑猥な歌詞で女性の性欲を露骨に歌った。同曲は、プリンスのセクシャルな側面を象徴する1曲でもある。

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この曲は、作曲者と色情狂のニッキーとのストーリーだ。ふたりは、「雑誌をネタにマスターベーションしている最中に」(ニッキーとプリンスどちらが主語なのかは不明)ホテルのロビーで出会い、ニッキーのお城に向かう。そこには、あらゆる道具が揃っている。部屋に足を踏み入れたが最後、誰もがニッキーに従属せざるを得ない。彼女との経験を境に「俺の身体は変わった」とプリンスは歌う。これはおそらく80年代のプリンスが経験した、ブッとんだセックスを自慢する歌なのだろうが、同時に、女性の性的なエネルギー、性の表現の自由、そして激しいセックスの歓びへ向けた、プリンスからのラブレターともいえる。プリンスは、男性にとって都合のいい、よくある受動的な女性の〈エロさ〉ではなく、女性のセクシュアリティを武器として描いているのだ。

2016-04-25

ウェンディ(Wendy)とリサ(Lisa). 映画『プリンス/パープル・レイン』より.

プリンスが女性から得たのは、性の歓びだけではない。例えば〈ドロシー・パーカーのバラッド(The Ballad of Dorothy Parker)〉ではこんな物語が綴られる。あるとき、恋人とケンカをし、不貞腐れて部屋を飛びだしたプリンスは、ひとりでうろつき、飲食店に入る。フルーツ・カクテルをオーダーした彼に、とあるウエイトレスが声をかける。それがドロシー・パーカーだ。ドロシーは、いっしょにお風呂に入ろうよ、と彼を誘う。ふたりは夜をともに過ごすが、セックスはしない。バスタブのなかのプリンスはパンツを履いたままで、ふたりは、ラジオから流れるジョニ・ミッチェル(Joni Mitchell)を聴いていただけだ。機嫌を直したプリンスは、部屋に戻る。彼は再びパンツを履いたまま風呂に入り、恋人と仲直りした。プリンスは、ドロシーとの時間から、恋人と友だちでいる方法を学び、充足した関係に性行為の有無は無関係だ、と理解したのだ。ロブ・シェフィールド(Rob Sheffield)は、『ローリングストーン』のコラムで「女性をこんなふうに歌った男性ソングライターは、プリンス以外にはひとりもいなかった」と評している。

プリンスの女性を讃える姿勢は、歌詞だけでなく、音楽へのアプローチ全体にも表れている。ガールズグループ〈VANITY 6〉をプロデュースしたり、ステージ内外で常に女性に囲まれていた彼は、女性を意のままに操る暴君、と評されたりもしたが、実際は、女性たちの才能を見極めていた。彼が抱えていた女性ミュージシャンといえば、THE REVOLUTIONのリサ・コールマン(Lisa Coleman)とウェンディ・メルヴォワン(Wendy Melvoin)、そして、10年間プリンスのバックバンドでプレイした、ベーシストのロンダ・スミス(Rhonda Smith)、ドラマー/パーカッション奏者のシーラ・E(Sheila E)、キーボード奏者のゲイル・チャップマン(Gayle Chapman)、サックス奏者のキャンディ・ダルファー(Candy Dulfer)など、枚挙にいとまがない。トレイシー・キング(Tracy King)は、『The New Statesman』のコラムに、プリンスについて記している。「プリンスがともに活動していた女性たちは、美貌だけではなく、才能にも恵まれていた。権力、ステータス、栄誉を手中に収めたプリンスは、数々の美女に出会うチャンスがあった。しかし彼が重用したのは、尊敬すべき音楽スキルのある女性だけだった」

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ただ、彼も人間だ。完全無欠ではない。〈リトル・レッド・コルヴェット(Little Red Corvette)〉は、自分より性経験が豊富な女性をどうにか〈手なずけよう〉と頑張る男性の歌だが、「ベイビー 君は速すぎる」という歌詞は〈スラット・シェイミング(slut shaming)〉といえなくもない。1996年の〈ディナー・ウィズ・ドロレス(Dinner with Delores)〉では、性に奔放な女性に「カーペットに膝をつくのはもうやめろよ」と説いている。1979年の〈バンビ(Bambi)〉では、バイセクシュアルの女性に、「男とのほうがいいのに」と女性の恋人を捨てるよう迫っている。「バンビ 君が必要なものが僕にはわかる/バンビ 君は血を流さないと」。それが同曲のエンディングだ。映画『プリンス/パープル・レイン』(Purple Rain, 1984)には、モーリス・デイ(Morris Day)とジェローム・ベントン(Jerome Benton)が女性を文字どおり〈ゴミ箱に捨てる〉シーンがある。これは、当時許されたとしても、今はアウトだろう。プリンスの過ちを告発しようとすれば、このようにキリがない。しかし、プリンスは、お尻丸出しの衣装で、自己の裡から迸る歌詞とともに、性別を奔放に飛び越えた。そうやって性の既成概念を打ち破ってきた功績と比べれば、彼の過ちなど些事といえよう。

アルバム『サイン・オブ・ザ・タイムズ』(Sign O’ the Times, 1987)収録の〈If I Was Your Girlfriend〉では、プリンスの別人格〈カミール(Camille)〉が男性目線で、もし自分が恋人の女友だちだったら、彼女ともっと親密になれるのでは、と問う。「もし僕が君の女友だちだったら/全部僕に話してくれる?/恋人の僕には 忘れて話してくれなかったことも」。この曲では、恋人の親密な姉妹関係への、プリンスの嫉妬が歌われている、との通説がある。しかし歌詞から聴こえてくるのは、男女の恋愛関係では到達できないレベルの親密さや誠実さを求めるプリンスの姿だ。「君の髪を洗わせてくれる?/ときどき君のために朝食をつくっていい?/それとも ふたりで出かけるだけでもいいな/映画を観にいっていっしょに泣くとか/だって僕にはそれが最高のことに思えるんだ」。私には、これが嫉妬には聴こえない。むしろプリンスが歌うのは、憧れや悲哀だ。髪を洗って、料理をつくって、いっしょに涙を流す。それがプリンスにとって大切な、プラトニックな愛の行為なのだ。彼は、自分もそれが欲しいと訴え、結果として、女性同士の強い友愛を称えている。もともとプリンスがそういう意図で歌詞を書いたのかは定かではない。しかし、自らの価値観を超えた視座から世界を捉えるプリンスの才能は突出している。

ジェンダーは、プリンスにとって問題ではなかった。女性への従属を楽しみ、自分より性に習熟した女性に敬意を払える繊細で傷つきやすい男性の姿を、自ら肯定的に体現することで、プリンスは、過度な男らしさにとって代わる新しい男性像を提示した。そして、女性を、男性と同様の性欲や性衝動をもつ人間として描いた。プリンスがVANITY 6に書いた〈Vibrator〉は、女性の性の歓びに男性は不要だ、と歌う。「カレの我慢強さはぶっちぎり/もうあなたなんて要らないかも」。プリンスがすごいのは、歌詞を書くときに啓蒙の意識など微塵もなかったことだ。人間は人間であり、みんな同じ欲望、願望、要求を抱いている、と信じていたプリンスにとって、こういう歌詞は自然の産物だった。彼の信じる人間像こそ、私たちのあるべき姿ではなかろうか。

自由奔放な生きかたから、マスターベーションの美学まで、自然体のプリンスは、私にたくさんの教えを授けてくれた。そのなかでもいちばん大切なのは、男性にとっても、女性にとっても、生きかたに正解なんてない、ということだ。例え何かしらの放棄であろうとも、自らのセクシャル・アイデンティティを恥じることなく、それを誇る勇気を、プリンスは教えてくれた。プリンスは、友人として、パートナーとして、そして、ひとりの人間としての女性の大切さも教えてくれた。女性が無理やり型にはめられ、女性の意見も考慮されない世の中で、通常とは異なる〈問題と特権〉を背負うクィアの白人女性である私にとって、スタッズ・ジャケットとGストリングを着こなすプリンスは、今までも、これからも、性的流動性、反骨心、異端児精神の象徴として燦然と輝いている。この世界がどれだけ醜悪で残酷だろうと、プリンスが謳う多彩な世界のどこかに逃げ込める。私たちはみんな、同じなのだ。