QuincySketch2.25pt

Illustration by Brad Beatson.

マイルス・デイビスは、クインシー・ジョーンズ(Quincy Jones)をこう評した。「新聞配達のなかには、どの家の庭に入っても犬に噛まれない少年がいる。クインシーがそれだ」

ボノ(Bono, U2)にとっていちばんクールな人間は、クインシー・ジョーンズ。オプラ(Oprah)にとってクインシーは「まさに愛そのもの」。テレビ番組『The Fresh Prince of Bel-Air』のエグゼクティブ・プロデューサーを務め、ウィル・スミスをフィラデルフィア西部で掘り起こしたのもクインシーだった。彼は、目隠しをして池の中に飛び込んで、金の斧を見つけられるのだ。

『Ray/レイ』(Ray, 2004)のなかでクインシー・ジョーンズが、自らのポリシーに反する、ジム・クロウ法が存在する南部諸州のツアーを拒否するシーンがある。彼は、若い頃から、洗練された作曲能力と広い視野でもって、社会的良心のバランスを保っている。自身が作曲した「ウィ・アー・ザ・ワールド(We are the World)」でアカデミー歌曲賞にノミネートされた、最初のアフリカン・アメリカンでもある。ラップ界最初のビリオネアになる以前のドクター・ドレ(Dr.Dre)は、独創的なプランをもつクインシーに憧れていた。彼の髭ですら影響力があり、ビリー・ディー・ウィリアムズ(Billy Dee Williams)が真似している。証拠はないが、スクールボーイQ(Schoolboy Q)の「Q」は、クインシーの「Q」かも知れない。

50年代、クインシー・ジョーンズは、ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)のトランぺッターでアレンジャーだった。60年代、彼は、サラ・ヴォーン(Sarah Vaughan)、フランク・シナトラ(Frank Sinatra)、エラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald)、ペギー・リー(Peggy Lee)、ダイナ・ワシントン(Diana Washington)といったアーティストのアレンジを手がけた。70年代と80年代には、『オフ・ザ・ウォール』(Off the Wall, 1979)『スリラー』(Thriller, 1982)『バッド』(Bad, 1987)をプロデュースした。クインシーがカヴァーしたLovin’ Spoonfulの「Summer in the City」を聴けば全てがわかるだろう。ファーサイド(The Pharcyde)の「Passing Me By」、ザ・ルーツ(The Roots)の「Clones」、アウトキャスト(Outkast)の「You May Die」などにも大きな影響を与えている。

そして、これは、クインシー・ジョーンズ伝のたった3%にも満たない。彼に比べれば、世界で一番興味深い人の話も、アル中のたわごとに聞こえてしまう。おしりかじり虫もクインシーを尊敬している。本名は藤澤守なのに久石譲なのも、クインシー・ジョーンズの影響だ。現在81歳だが、彼には18歳なみのエネルギーがみなぎっている。

ドキュメンタリー『The Distortion of Sound』に彼が出演したのがキッカケで、クインシー・ジョーンズと話をする機会に恵まれた。彼との会話は、2パック(2Pac)からマイルス・デイビス(Miles Davis)、青春期におけるクリント・イーストウッド(Clint Eastwood)との友情、マイケル・ジャクソンとの仕事にまで及んだ。

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『The Distortion of Sound』は、テクノロジーがいかに音楽の素晴らしさを損なってしまうのかにフォーカスしていましたね。テクノロジーによる制作の簡易化は、創造する上での即興的な要素に悪影響を与えたのでしょうか。

ラッパーに関してはそうでもない。彼らは、自らが欲するものを提供してくれる音楽人に出会えない、という問題にぶち当たることがある。僕は、85年にラッセル・シモンズと出会った瞬間を一生忘れないだろう。当時、僕の息子は、ティーンエイジャーで、ヒップホップ・ダンサーだった。彼は、そういう若いヤツなら誰でも会ってたんだ。ラッセルは、世界中の最高なラッパーを抱えていたんだ。

その後、あなたの息子さんは、LLクール(LL Cool J)やアイスキューブ(Ice Cube)、2パックなどをプロデュースしましたね。

息子には才能があった。今もそう。彼はベジタリアンになって、とても健康的だ。1968年、ロンドンでマイケル・ケイン(Michael Caine)と一緒に『ミニミニ大作戦』(The Italian Job, 1969)を制作している最中に彼は産まれたんだ。そういえば、その当時、マイケル・ケインと僕は、2人が星図上の双子であることを発見したんだ。僕らは、同じ週、同じ月、同じ時間に生まれている。すごくびっくりした。僕らは最近、80歳の誕生日を、べガスで一緒に盛大に祝った。とてもすばらしかった。ボノ、スティービー・ワンダー、みんな来てくれた。上手に歳を重ねるのは素敵なことだ。自分が年寄りとは感じていないけどね。僕はまだ24歳みたいな気分でいる。

「大人になる」のでいいことなんてなにもない。大人は、自らにたいしてシリアス過ぎる。これについては、最近、作曲、編曲家のジョニー・マンデル(Johnny Mandel)とも話したばかりだ。彼は今、88歳のハズだ。僕らは、カウント・ベイシー(Count Basie)やライオネル・ハンプトン(Lionel Hampton)と演奏していた18歳のころから、半世紀以上も親友なんだ。

ジョニーは僕に、「Q、君と僕は成長せずに、幼児からアルツハイマーになる最初の2人だ」とジョークを飛ばしてきたんだ。

そういった、子供のような遊び心は、アーティストの創造性には重要なのでしょうか。

間違いなくそうだ。ジャズメンにとっては、とくにそう。僕のキャリアは、レイ・チャールズ(Ray Charles)とナイトクラブで演奏したのが始まりなんだ。ティーンエイジャーだった僕らは、一晩に5つのクラブで演奏した。僕は、シアトルのガーフィールド・ハイスクールに通っていたんだけど、そこにはパーカー・クックという素晴らしい先生がいたんだ。彼は僕に、「君は、神様に命じられたことをやっているんだ」と教えてくれた。僕らは、スイングからスーザ・スタイルのマーチングまで、なんでも演奏して、午前3時までエルクス・クラブ(Elks Club)でビバップを演奏してたんだ。お金や名声については、まったく考えなかった。僕らは、ただただ、良い演奏がしたかったんだ。お金や名声はどうでもよかった。とにかく良いミュージシャンになりたかったんだ。

リッチで有名になりたい、と願う人が多い昨今、あなたたちのようなアティチュードは失われているのでしょうか。

まったく理解できないけれど、今日、ほとんどがそう望むみたいだ。もちろん、全員ではない。そういう考えはよくわからない。14歳のときにレイ・チャールズに会った。彼は17歳。一緒に人生を過ごしてきたんだ。キャリアの最初、彼は、ナット・キング・コール(Nat King Cole)とチャールズ・ブラウン(Charles Brown)を足したような歌声で、チャーリー・パーカーのようにアルトサックスを演奏していた。彼は6歳で視力を失ったけれど、彼は楽譜の読み方を知っていたから、点字で読み方を教えてくれた。シアトルでジャムしてた初期の音楽活動は、人生最高の思い出だ。

デューク・エリントン(Duke Ellington)からは何を学びましたか。

デュークとサラ・ヴォーンは、編曲と作曲における聖杯だ。「ビッグバンドの時代」は、僕にとって、抗いようのない権威みたいなものなんだ。12~13歳のころ、耳が爆発するまで、ありとあらゆるバンドを観た。カウント・ベイシー、デューク・エリントン、ウッディ・ハーマン(Woody Herman)。しかも毎晩。

でも、11歳まではギャングになりたかった。僕は、シカゴの出身で、僕の父は、中西部で一番大規模な黒人ギャング、ジョーンズ・ボーイズ(The Jones Boys)の大工だった。父が、彼らの家を全部建てたんだ。1941年、彼らは、安物雑貨店の違法宝くじで1億1,000万ドル(約123億円)儲けた。僕は、明かりの下にある死体、銃、安物の葉巻、札束などを目にして育った。1941年に、大金を稼いでいるのがアル・カポネにバレるまで、みんなそれで生計を立てていた。アル・カポネは、みんなをメキシコに追いやったんだ。

父は、家族を連れてシアトルに引っ越し、ブレマートン造船所で働き始めた。そこでは、僕ら11歳のちびっ子ギャングが近所を仕切っていた。僕らは兵器庫に忍び込んで、パイやアイスクリームを盗み、食べ物を投げて遊んだりしてた。それが、ある管理者の部屋でスピネット・ピアノを見つけて以来、頭の中で「バカ。あの部屋に戻れ」という声が聞こえるようになった。僕は、その部屋に入り、なんとなく単音を弾いてみた。そこから僕の人生とライフスタイルは変わったんだ。全細胞が、音楽をやるべきだ、と震えたんだ。

それから、ピアノとスーザフォン、その次に、トロンボーンはマーチングバンドの先頭だったから、トロンボーンを練習した。最終的にトランペットになったんだ。

シアトルに住んでいたティーンエイジャーのころ、あなたはクリント・イーストウッドと仲良しだったんですよね。

彼とは、トリアノン・ボールルームで出会った。彼の両親は、ボーイングの仕事でオークランドからシアトルに転勤してきたんだ。それ以来ずっと友達だ。僕は彼のことを「アルビノ・レッド」と呼ぶ。彼はピアノを弾き、ジャズを愛している。モントルーで一緒に演奏するために、彼の息子、カイルを雇ったこともある。

自分でいうのもなんだけど、素晴らしい人生だ。過去60年、僕は、才能あるミュージシャン、ほぼ全員と一緒に仕事する機会に恵まれてきた。ルイ・アームストロング、レイ・チャールズ、サイモン&ガーファンクル、マイケル・ジャクソン。ビリー・ホリディと演奏したのは、まだ14歳のころだった。僕自身がどうこうではなく、ただ、運命だったんだ。

来米する前のTHE BEATLESに会ったこともある。1962年、レスリー・ゴーアとロンドンに行った際に会ったんだけど、ポールはまったく変わっていない。その旅で、僕は、The Beatles、The Rolling Stones、当時17歳だったエルトン・ジョンにも会った。

お気に入りのマイルス・デイビス伝説を教えて下さい。

マイルス・デイビスに初めて会ったのは、1950年かな。僕はちょうど、ボストンのバークリーを卒業したばかりで、慈善興行でニューヨークに行ったんだ。ニューヨークは初めてで、天国みたいだった。マイルスは、僕をバスに呼んでくれた。彼のためにアレンジをしたんだ。

ある晩、僕らはブルー・ノートに行った。そこで、オスカー・ピーターソンが、たくさんのミュージシャンを紹介してくれた。酔っ払ったオスカーと僕が車の後部座席に座ると、前の席には、盲目のシンガー、アル・ヒブラーと、やはり盲目のピアノニスト、アート・テイタムが座っていたんだ。

突然、車のエンジンがかかったかと思ったら、アート・テイタムとヒブラーが運転をし始めた。びっくりしたオスカー・ピーターソンが急いで前に移動して、ハンドルに飛びついたんだ。彼は完全に酔っ払っていから、目が見えないほうがまだましだったかもしれない。

僕らは、とあるクラブにたどりついた。僕の後ろには、ガールフレンドを3人連れた男が歩いてた。すると誰かが「俺みたいに演奏出来るって勘違いしてるクソ野郎がいるらしいな」と吠えたんだ。それがマイルス・デイビスだった。彼は、人を脅かすのが好きだったんだ。ただ叫ぶだけで、危害は加えない。フランク・シナトラもそう。ふたりとも、僕の親友だ。マイルスは、彼の本で、僕を、最も親しい5人の友人のなかに入れてくれた。僕はそれを知って、すごく嬉しかった。マイルスは、決して博愛主義者ではなかったから、余計嬉しかった。

パリのジュリエット・グレコ(Juliette Gréco)を含め、僕らには共通のガールフレンドがたくさんいた。マイルスの初妻、フランシズ・デイビスに会ったのは、僕が20歳の時。彼女が僕のことをかわいいといったから、彼はいつもちょっと嫉妬していたよ。

あなたは、才能がありながらも有名になれなかったミュージシャンとたくさんの名作を創りつつ、誰もが認める有名人とも仕事をしてきましたね。ポップスターと、真に才能あるアーティストの違いを教えて下さい。

人同士を比較するのは無理だ。14歳のころから、ビリー・ホリディ、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、アレサ・フランクリン(Aretha Franklin)、レスリー・ゴア(Leslie Gore)みたいなアーティストと仕事をしてきたけれど、みんな全く違う。

彼女たちに、僕にはロックンロールのレコードは創れない、といわれ続けたけれど、僕は、12歳からロックンロールをやっていたんだ。ロックンロールがリズム&ブルースと呼ばれていた時代から。あるとき、2週間だけ音楽の勉強する予定で渡仏したんだけど、結局5年間フランスに滞在した。フランスの先生は、「神は私たちに12個の音をくれた。ベートーベン、チャーリー・パーカー、バッハ、カウント・ベイシー、誰であろうと12音しか使っていない。神が13個目をくれるまで、君は君に出来ることをやりなさい」とアドバイスしてくれたんだ。

オーケストラ、金管楽器、木管楽器、打楽器、全てやった。28年間演奏を続けて、技術的基礎を身に付けたんだ。怖いものは何もない。

建築家のフランク・ゲイリーはよくこう説明していた。「建築が凍りついた音楽だとしたら、音楽は、流動的な建築であるべきだ」とね。それに対して、僕は、「流動的で感情的な建築だ」と応えていたんだ。父は大工だったから、僕が建築家になることを望んでいた。ある意味、音楽も建築みたいなんだ。

あなたの成功には秘密があるのですか。

人生を振り返り、全てが自らの体験だった、とおもうと奇妙なかんじがする。僕には怖いモノがない。怖いのは、こなせない仕事を与えられることだけだった。

シナトラやレイ・チャールズと仕事をするなら、その仕事をこなせるだけの準備がしっかりできていないとダメだ。でも、僕にはできていた。何事にも揺るがない基礎が身に付いていたから、そういった仕事をたのしめたんだ。

プロデューサーは難しい。アーティストのキャパシティ、何を考えているのかを把握しなければならない。もうワンテイクやってくれ、とどうお願いすべきか、いつ休憩を与えるのか。曲のテンポが間違っていたり、シンガーやエンジニアの選択を誤れば、全てプロデューサーの責任だ。曲がヒットしたら、全てシンガーの手柄になる。それはそれでかまわない。人生はそういうものだから。

マーヴィン・ゲイが『ホワッツ・ゴーイン・オン(What’s Going on)』で一緒に仕事をしようとしてくれた。もちろん、そうしたかった。でも実現しなかった。マイケル・ジャクソンとの仕事に関しても、エピックのスタッフは、僕がジャズ過ぎる、と最初は心配していたんだ。

『オフ・ザ・ウォール』から『スリラー』では、コンセプト、音、どちらも革新的に変化しました。その背景を教えて下さい。

あの時は、僕が曲を選んで、マイケルがそれをレコーディングしていた。『オフ・ザ・ウォール』でマイケルは、「Don’t Stop Till You Get Enough」を含む2曲と半分を書いた。『スリラー』で彼は4曲を書いた。『バッド』では「2曲以外は全部書きなよ」と勧めたんだ。僕の出版社には作曲家が13人いたんだけど、そのなかの1人を「Man in the Mirror」のために呼んだんだ。あの歌は、彼のキャリアで、最大のヒット曲のひとつだ。

『スリラー』のレコーディングとツアーが重なっていたから、レコーディング現場で仕事するまで、私たちが何をするかも把握していなかったんだ。でも、結局、とてもうまくいった。当時の僕の妻、ペギー・リプトンがヴィンセント・プライスを知っていたから、彼も呼んだんだ。やりたいことはなんでもやった。成功するかどうかなんて誰にもわからない。もしわかる人がいたら、そいつは嘘つきだ。自分が愛し、信じることをやればいいんだ。市場調査なんて信じない。みんながきっと気に入るだろうから、なんて理由で音楽を創るなら、そのアーティストは間違っている。

マイケルと僕は、ふたりに鳥肌が立つまで突き詰めた。曲に対して鳥肌が立てば、僕たちは正しい方向に進んでいるのがわかった。『スリラー』と「ウィ・アー・ザ・ワールド(We are the World)」まで、僕は、名声について考えたことがまるでなかったんだ。その後は、避けられなくなったけれど。

2パックと出会ってから、彼が殺されるまで、あなたたちはどんな関係でしたか。

出会う以前に、彼は、僕の子供たちについて奇妙なことを書いたんだ。そしてその後、彼は僕の娘に恋をして、すべてが変わった。彼との出会いは、今でも覚えている。僕らは、ロサンゼルスにある深夜営業のデリカテッセンにいたんだ。ラシダとキダダ(娘たち)と一緒だった。僕は、彼のテーブルまで行って、「パック、話をしよう」と持ちかけたんだ(笑)。殺されたかもしれないのにね。

彼の発言が気に入らない、と伝えた。そうしたら、たちまち解決したんだ。僕らは、すごく仲良くなった。彼は良い奴だ。あるとき、2パックは、ベルエア・ホテルまで僕に会いに来てくれた。僕はそこで、堅苦しいミーティングに参加していたんだ。そしたら、彼は、いったん家にもどってネクタイをしてきたんだ。すごくいいヤツだった。

コミュニティでの活動や社会的正義への関心、という共通点もあって、あなたたちは意気投合したのですか。

そのとおり。僕らは、彼とスヌープ・ドッグ(Snoop Dogg)に出演してもらって、アイスバーグ・スリムの『Pimp』を作品化しようとしていたんだ。その話で、彼はしょっちゅう電話をしてきた。当時、ラップの世界は今と全然違っていたんだ。1989年『The Fresh Prince of Bel-Air』の現場を今でも覚えている。最初、ネットワークの連中は、ウィル・スミスにえらくビビってたんだ。だから、ウィルほど良いヤツはいないぞ、と教えてやった。あれにはビックリした。でも2パックは、ラスベガスで僕の娘の腕の中で死んでしまった。アーリヤ(Aaliyah)、ビギー・スモールズ(Biggie Smalls)も失ってしまった。彼女が21歳になる前に。彼女は傷ついていたよ。

僕には6人の娘がいる。みんな頭が良くて、ばかなことに惑わされたりしない。年齢は21歳から61歳。彼女たちを本当に愛している。でも、6人も娘をもつストレスのせいでハゲてしまった(笑)。

ラシダは、2パックの発言からあなたを護るために『The Source』に手紙を書いたんですよね。

彼女の行動には驚いたし、誇りにも思った。彼女はまだすごく若かったんだ。娘たちは、決してストリート育ちではないけれど、ストリート的要素があるんだ。僕はストリートで育ち、全てをストリートで学んだんだ。