ひとりの人間は、人生でどれくらいのモノを創り出せるのだろう。多くのアーティストにとって、自らの人生そのものが作品になるのが何よりだろう。現代、誰よりもこのゴールの近くにいるのはコージー・ファニ・トゥッティ(Cosey Fanny Tutti)だ。この50年近く、彼女は、それまであまり誰もやってこなかったようなかたちで、媒介や境界に囚われずに、クリエイティブな活動を絶え間なく続けている。COUM TRANSMISSIONSとしてのひときわ過激な活動(このおかげで、彼女を始め、メンバーたちは公益性を脅かす危険な芸術家としてレッテルを貼られたりもする)から、THROBBING GRISTLEのメンバーとしての〈インダストリアル・ミュージック〉確立まで、彼女が携わった初期のプロジェクトだけでもかなりの数になる。現在進行中のプロジェクトである、夫、クリス・カーター(Chris Carter)との〈CARTER TUTTI(以前はCHRIS & COSEY名義)〉でも、相変わらず音楽界に影響を与え続けながら、70年代のセックスアート・アクション関連の作品のリワークもしている。

しかし、世間が興味を持つのはアートそのものだけではない。それを生み出す原動力となったのは何か、制作中に何が起きたのか、そういった舞台裏もひっくるめて、ひとりのアーティストが形成されるのだ。コージーの新刊『Art Sex Music』では、自叙伝というフォーマットにのっとり、彼女の活動が明らかにされる。そこでは、重大な出来事も、些末な個人的な出来事も、等価に描かれている。本書を読んでいると、古い友人の隣に座り、反抗的だった幼年期のさまざまな逸話、長い時間ともに過ごした友人の葬式への参列まで、みんなのいろいろな経験を掘り起こしているようでもある。おもしろい話、心の痛む話、胸が張り裂けそうになる話もありながら、揺るぎない芯が本書を貫いている。

彼女の刺激的で破天候な自伝としては決定版ともいえる本を手にしたうえに、アーティストであり著述家である彼女自身の話を聞けるのに、私はワクワクしていた。支配的な男性たち、検閲、それに加えて、芸術性と生産性に溢れた人生について、コージーと意見を交わした。

Photo credit: Chris Carter

あなた日記から抜粋された本書の内容は、非常に挑戦的ですね。日記というフォーマットがそうさせたのでしょう。意図的にそうしたんですか? 執筆のプロセスを教えてください。

意図的。どんなかたちであれ、内容を膨らませたり美化したり、神話化したりもしたくなかった。分析的な物言いもナシ。いつもの話し方で自分の人生について語っているような、そんな本にしたかった。幼年期から始めて、いかに物事が相互作用しながら発展したのかを明らかにして、読者を私の世界に引き込みたかったから、すごくたくさんの内容を詰め込んだの。とある出会いが、何年後かにプロジェクトとして結実する、なんてこともあったから。お茶しながらおしゃべりしているような、ざっくばらんで親しみやすくしたかった。

本書を読んでいてまず印象的だったのは、あなたが幼い頃に住んでいたイギリス、ハルでの、あなたのお母さん、友人のレス(Les)、この2人の存在の大きさです。性格は大きく異なるとはいえ、ふたりとも、幼年期のあなたにとっては、助けが必要であれば助けてくれる、影響力の強いふたりだったようですね。お母さんとあなたは、こっそりとやりとりしなければならなかった、とも書いてありますね。

子どもの頃、母は、私に対する父の厳しさや冷酷さに反対していた。でも、彼女は難しい立場だったはず。なぜなら、両親の関係は、今の私とクリスと同じくらい近いものだったから。今になって、当時、母が置かれた状況がいかに厳しかったかがわかる。子供は、両親は自分を守ってくれる、と信じているでしょ。両親の実際の関係性の力学、自分がそれにどのくらい影響を与えているか、そんなこと考えない。時折、私の替わりに母が父にウソをつかなければならないときもあった。そのおかげで私は、自由に、やりたいことをやれた。そういう状況は幼年期から10代まで続いた。でもICA(Institute of Contemporary Arts)の件でそれも終わり。私のために父にウソをつくのを、母が正当化できなくなったからね。それでよかった、とはならなかったけれど、受け入れた。立派な成人として生きる道を自ら選んでいたし、母と父の関係を壊したくなかった。両親は距離が近すぎた。父は、母がもっと楽に生きられるようにすべきだったし、私の人生に母がもっと関わるのを許すべきだった。孫に会うことを許すとか、そういうこともしてくれればよかった。父はとにかく自己中心的。そういう頑固者に対しては為す術がない。

お父さんはかなり厳格そうですね。

ヴィクトリア風の古いひと。父親として必要なスキルを幼い頃から学んできたようなタイプではなかった。だから、ある意味しょうがない。だけど違うレベルで見ると、私に対する父の態度なんて一生影響を及ぼすわけでもない。だから許せる。社交術も学んだし、子どもとの関係の築き方も学んだ。戦争やら何やらで、父がどれほどダメージを被ったのかは知らない。かなり難しい。父は閉鎖的な人間だから。

レスは私の人生におけるもうひとりの重要人物。私たちは一心同体だった。今もそう。彼は兄弟みたいなもの。家では母、家の外ではレスが私を見守っていてくれた。私はとてもラッキーだった。母もレスのことをすごく好きだった。でも、父は彼を〈敵〉と認識していた。レスが家の周りにいるのすら許してくれなかったの。庭にも入れてくれなかった。

お父さんとの体験には、〈支配〉というテーマで表出している気がします。支配的な男性が、あなたのような強く、自己実現しようとする女性を押さえつけようとする。父親の家を出てジェン(Gen、Genesis P-Orridge)との交流が始まっても、その関係性があったようですね。

そう。そういう男性は、自分には資格がある、と錯覚していたのが大きいかな。あとは1950年代がそういう時代だったから。家父長制が当たり前の時代。でも、一歩家を出てしまえば私は自由だった。父の目は届かないからね。私が家にいないときに何が起きていたか、どんなふうに物事が進められていたか、そういうことはいっさいわからない。でも、支配っていうのはそういうものでしょう。隠されていたの。でも私は、文字通り私自身の居場所のために闘うのに慣れていたから。実際はそんな意識なかったんだけどね。ハルはガラの悪い土地で、私とレスは子供ながらに、自分たちの団地を守るために闘ってた。団地間の闘いもあった。今だと〈ギャング〉って呼ばれるのかも。

COUM TRANSMISSIONSのメンバーとしてハルのプリンス・ストリート(Prince Street)に住むようになって、いろいろなことが起きたけれど、私は自ら選んだ道を進んでいた。私の力じゃどうしようもないような事柄は気にしないようにしながらね。自分の望む方向に娘を無理やり押し進めたり、息苦しくさせてきた父親にも17年ものあいだ対処してきたから、自分の力でなんとかできた。だから問題は特になかったの。ただ、あまりにも外に出たくて、すごく不満だったから、最終的には、さすがに問題になってきたんだけど。ロンドンに移る前、ハルにはたくさん友だちがいた。レスとか、フィジー(Fizzy Peat)とか、皆んなが集まってすごく楽しかったから、ロンドンに引っ越したら、すごく孤独を感じた。そこで私の考え方にも大きな変化があったはず。意図的であろうとそうじゃなかろうと、私は自分がいかに孤立しているかを理解するに至ったの。エロ雑誌の仕事については、外に出ていろんな新しいひとに会おう、という意志があったからやった。ハルを離れて、もういちど、友人グループをつくったの。もう抑圧されるもんか、と意気込んでた。

それも、本書を通して何度も言及されるテーマですね。支配的な人間による抑圧だったり、健康問題があったようですが、それでもめげないあなたの力が、はっきりとは描写されていなくても本書には顕れていますよね。

この本を書くまで、自分がどれほど不健康だったか気づきもしなかった。ずっと不健康だったみたい。ホントに、自分では、割と健康な人間だと勘違いしていたから。心臓にトラブルを抱えるまで、子どもみたいにいつもニックと一緒に泳いだりサイクリングしたりしてたから、本当にショックだった。でも、それが人生。ある朝目覚めて、病気になっていて…、でも病気とうまく付き合う。それ以外にどうしようもないから。

決して負けない、ということですね。先ほどおっしゃってましたが、あなたはロンドンに移住し、エロ雑誌の仕事をしますね。その経験こそ、あなた自身のアートや目標がはっきりし始めたスタート地点ではないでしょうか。エロ雑誌の作品は、これまで何度もギャラリーで展示されましたし、今でも話題になり、あなたが過去を振り返るときには必ず登場します。その活動とあなた、あるいはあなたの活動と観衆との相互関係は、これまでにどのように変化してきたのでしょう? あるいは、どうやって変化せずにすんだのでしょう?

今になって、改めて作品を再見したり再制作することはすごくおもしろい。今見ると、当時とはまったく違って見えるの。当時、作品に没頭しているときは、その時々の状況に入り込んでいた。作品それぞれまったく違うから。私は「これが私のアートだ」なんて考えてなかった。とにかく求められていることをしなきゃいけなかっただけ。私がやっていたのは、自らのアートじゃなかったけれど、実は、自らのアートだった……矛盾してるけどね。私はモデルで、商品を届けなきゃいけなかっただけで、行動するアーティストだったわけでも、ギャラリーに作品が飾られるようなアーティストでもなかった。コンテクストの外にいたの。当時はそれがジレンマ。自分がやってることがアクションとして解釈されて、ギャラリーに展示されることになるっていうのはわかっていたけど、私にとって正しいやり方で作品にしたかった。ねじれた状況だったかな。仕事をこなすために、アートだ、というのを忘れる必要があったけど、その仕事が実は、自分が希求している純粋なアートを生み出してしまっていた。

もちろん、当時はそんなふうに考えていたけど、もう昔のこと。今はまったく違った見方ができてる。実際のアクションそのものより、違う見方ができるようになったのがおもしろいし、充実してるかもしれない。雑誌を見ていると、どこをとっても、当時の様子をまざまざと思い出させてくれる。当時のカルチャーがどんなだったか、70年代のセックス産業がどんなだったか、その雑誌の広告を含めたレイアウトなんかを見ると思い出すの。本にも書いたけれど、どれもショッキングだったり、悪どい。だけどそれが当時の雰囲気。今改めて考えると、今、みんながあのアクションを、フェミニスト的だ、と感じる理由もわかる。セックス業界に女性が参加するのはすごく難しいから。ただのモデルであったとしてもね。キツい仕事だった。

あなたが当時のアクションを〈フェミニスト的〉と称したのは興味深いです。フェミニズムのスタンスやセックス産業など、物事の核心は時代とともに変遷します。あなたのアートを、フェミニスト、というレンズを通して観ると、どういう相互作用があるのでしょうか。かつて、まったく同じ〈フェミニズム〉という観点から、あなたに対してかなりの批判が投げかけられたりもしましたが。

そう、酷評だった。私は人を見るときは、その人そのものを観るよう心がけてる。私はひとりの女で、アクションを起こしているだけで、どんなレッテルも貼られたくない。フェミニズムが何を意味しているのかもうわからない。私にわかっているのは、女性たちは自分自身がすべきことをしているってこと。だから彼女たちには〈フェミニスト〉なんてレッテルは必要ない。いったんレッテルが貼られてしまうと、そのグループに所属することになり、そのあと〈フェミニズムとは何か〉についてまったく違った理論を主張するさらに細分化されたグループに仕分けされる。だけどベースにあるのは、この世界で自分自身として生きること。女性である、という事実は、それとは何も関係がない。まあ、私にとってはね。特に今はインターネットの普及もあって、女性たちには、ポルノをつくる当然の権利がある。私がセックス業界で働いていた頃とはまったく別の世界。フェミニストをテーマにした美術展で私の作品が展示されたりもするけれど、私はアーティストで、それは私の作品。それ以上の意味はない。それに〈フェミニスト〉とレッテルを貼られたのはただの偶然。なぜならその作品を創った当時は、〈フェミニスト〉だなんていわれなかった。私がそこで、自分の作品を創った。ただそれだけ。これで納得してもらえればいいんだけど…

あなたの作品に対する検閲は、時代とともに変わりましたか?

今はもうICAほどひどいことはない。反応も当時ほど悪くない。雑誌に掲載した作品が今じゃギャラリーに飾られているほどだしね。展示の上に注意書されたりしたことが何度もあったけれど、それは構わないでしょう。でも、もし、私のと似たような作品なのに注意書がなければ、そういうのはお断り。そうされないのは、大抵男性作家の作品。どうして、同じ題材の私の作品と、他の誰かの作品の評価のあいだに差異が生まれるのかわからない。こちらだけに注意書があったり、ギャラリーのメインエリアからは見えないようにちょっと奥まったところに展示されていたり…。そもそも、フルヌードで股が顕な写真をギャラリーの外から見えるような場所には展示しないよう、注意を払わなきゃいけないはずでしょ。私はただ公平に扱ってほしいだけ。そうするのが当たり前だと信じているから、頼んだりもしない。それが問題になること自体がおかしい。問題になっちゃうときもあるんだけど。

Photo credit: Studio of Lust, Nuttfield Gallery, Southampton, UK

THROBBING GRISTLEがメンバー間の緊張感をベースに成り立っていたのは明白ですが、ジェンとのあいだのトラブルや、そこから生じた避けがたい崩壊を経験がなくても、今のあなたになっていたでしょうか?

それはないかな。THROBBING GRISTLEに繋がる活動を、COUMに参加していた仲間たちとしていたんだけど、クリスが加入する前はTHROBBING GRISTLEのような音楽じゃなかった。当時は単に不可能だったの。4人がそれぞれ強い個性を持っていたから、誰かひとりの意志に他の皆んなが二つ返事で従うようなグループじゃなかった。COUMよりもずっと民主的だったし、再始動のときもそれは変わらなかった。むしろそうじゃないといけなかったの。多数決で決める、っていうスタイル。あるいは投票さえしないときもあった。公式に投票したことなんてないしね。どういう活動をするか話し合って、もし、4人のうちひとりが反対で他の3人が賛成なら、実現するよう進める。もし2対2ならとりあえずいったん棚上げして、ちょっと経ったらまた話し合う。間違いなく、メンバーそれぞれがTHROBBING GRISTLEにいろんなものを持ち込んだはず。4人全員が混ざり合ってグループになっていたし、同時に、4人のあいだには緊張状態があった。

あなたが言及している、残念ながら活動が短命だったX-TGの作品に興味をそそられます。もちろん音源や作品は残っていますよね。もしX-TGを続けることができていたなら、今でもスリージー(Peter “Sleazy” Christopherson)と活動を続けていたんではないでしょうか。3人で初めて活動したときはどんな気分でしたか?

最高だった。最初、スリージーは怖気づいていた、とまではいかないけれど少し全体像を把握できなかったみたい。長いあいだいっしょにスタジオで作業もしていなかったし。CHRIS & COSEYの曲は聴いてくれていたみたいだけど、私たちの自主レーベルCREATIVE TECHNOLOGY INSTITUTE(CTI)から出した作品は、そこまで知らなかったんじゃないかな。スリージーは、どのグループをベースに活動かを悩んでいたみたい。CHRIS & COSEYとTHROBBING GRISTLEは全然違う。スリージーはCOILでリーダーであるのに慣れていたしね。スタジオに入って、彼は、再び私たちといっしょに作業するのにリラックスしていた様子だった。あるとき、彼が主導権を握って「じゃあこれをやろう」って指示してきたの。クリスはとても礼儀正しくて特に何もいわなかったんだけど、私は礼儀なんて正しくないから「ここではそんなふうに私たちに命令しないで。皆んなでいっしょに創るんだから」と返した。でもスリージーは気にしていなかったみたい。3人がそれぞれ本能に従って作業を進めていたし、彼のやりたいことにみんな反発しなかった。とにかくいっしょに音楽をやりたくて、ついにその日、物事が収まるべきところに収まった感じ。彼が戻ってきてくれて音楽を創り始めて、私たちは再び、本能的なやりとりで曲を創るプロセスに戻ったの。

スリージーとクリスはすっかり元の関係に戻ったみたいで、新しい楽器についてのアイデアとか、新しい機材やサウンドの使い方について考えてた。常にそれに取り組んでたかな。特に、再結成のときはずっとそんな感じ。私たちは並行して物事を進めてた。まずTHROBBING GRISTLEのライブ、そしてもちろんアルバム。でも3人でスタジオにいるときには、私たちはX-TGとして機能してて、ずっとジャムってた。で、外に出たらTHROBBING GRISTLEとして活動する。きっと私たちが楽しくやれたのはそのおかげだと思う。再結成してよかったなって思えたし。2度目もダメになったけれど、X-TGとして復活できてスリージーはとてもワクワクしてた。残念なのは、スリージーがもう参加できないこと。ライブ2回とスタジオレコーディングしか残ってない。実はX-TGの音源で、いつかリリースしようと思っているものがあるの。

最終的なTHROBBING GRISTLEの解散後、ジェンは、あなたとクリスを相手に訴訟を起こしました。それについて教えてください。この訴訟がここ数年のあなたたちにかなり影響を与えているのでは?

それはとりあえず解決して、MUTE RECORDSに私たちのカタログの管理を任せることになった。クリスと私は、生活にそんな不安要素が入り込んでくるなんていやだった。そんなの不必要だから。

すごいストレスでしょうね。それに誰も幸せにならない。

本当にそう。特に、私にとってはね。あんなこと起きてほしくなかったんだけど。人生であんなことが起きるはずじゃなかった。誰かに訴えられるなんて、有益じゃない。有益なのは、起こらないようにすること。

Cosey and Gen. Photo credit: John Krivine

70年代には小さなアート専門のスペースでパフォーマンスしていたあなたが、ついに2009年にはコーチェラのステージに立ちました。コーチェラはいかがでしたか? 実験的で過激なアーティストがコーチェラのステージに立つのは珍しいですよね。

そうかも。でも、逆に私たちの皮肉っぽいユーモアのセンスに合致してるでしょう。私たちの初めてのギグは、小さな町の、子どもたちが帽子をつくるお祭り。そこで演奏したの。コーチェラとは真逆。コーチェラへの出演は、向こうが就労ビザにかかるお金も出してくれるっていうし、渡米して現地のファンの前で演奏できる良い機会だった。もしコーチェラがなかったらそんなチャンスなかったからね。まあ、1回きりのチャンス。ファンにとってはよかったんじゃないかな。

すばらしかったでしょうね。THROBBING GRISTLEは、ライブのブートレグを自ら創るカルチャーを築きました。デジタル時代の著作権侵害行為に対して非常にユニークな方法で対応しています。THROBBING GRISTLEの精神をもって、誰にも侵害できないアート作品を創ったんですね。

本でも説明しているけど、音響スタッフのチャーリーが小さいループマシンをもっていて、ライブの前後にそれで遊んでいたの。それから、クリスがマシンのすばらしさについてツイートしたら、マシンの制作者のクリスチャンが連絡をくれた。THROBBING GRISTLEのサウンドでマシンを造ろう、とやりとりをして、そうやって始まったの。私とクリスはスリージーにその話をしていて、「これだったら誰にもブートレグはつくれない」とまとまった。自分たちの活動から始まりで、そこにチャンスが転がっていた。いかにも私たちらしいプロジェクト。新しいことをやるチャンス、それを自分たちで生み出した。クリスチャンはロンドンにいて、スリージーはタイに住んでいたけど、連絡を取り合った。そして、私たちのノーフォークのスタジオにクリスチャンがきて、音源のパッケージングについて話し合って、周波数やループの技術的な面を調整した。結構難しかったけど、すごくワクワクした。私たちは、そういう作業が大好き。まだ持ってるし、皆んなライブでも使ってる。ジェンもライブで使ってたはず。

ちょっと話題を変えますが、あなたの本、すなわちあなたの人生には、クリスが頻繁に登場します。あなたの人生は波乱万丈ですが、そばにはいつもクリスがいてくれましたね。2人の愛が長続きする理由を教えてください。

わからないなあ。もしそれを知っていたら、それでひと儲けできるでしょ? 結構稼げるはず。ただ単に、私たちはお互いに深い愛情があるだけ。それはとても深いから、そのおかげでそれぞれ自分らしくいられる。どちらかがどちらかを食い物にしてしまうような関係じゃない。私たちは離れずにいっしょにいる。そう考えると、普通じゃない気もする。大多数のカップルが日中は仕事で離れているけれど、私とクリスの場合はそれじゃダメ。なぜかはわからないんだけど。いっしょにいるためにかなり苦労したから、もしかしたらそれが関係しているのかもしれない。相手に触れられない日が続いたら、相当キツいし、憂鬱になるときもある。ロンドンの地下鉄で座っていても、「公衆の面前ではいちゃいちゃしちゃダメだ」と自分を戒める。私たちは、2人がいっしょにいられて、自由に愛し合えるの常に感謝しているし、結局、それに尽きるでしょう。それに、いっしょに音楽も創れるし。ソロプロジェクトもお互いサポートしている。いつもそう。たとえば私がこの本を書いている最中、クリスはアルバムの制作中。私は上のオフィスで本を書いて、クリスは下のスタジオでアルバムのレコーディング。で、ランチや夕食をいっしょにとって、夜は2人で休む。このスタイルで最高にうまく進んだ。たまに下に降りて彼の創っていた音源を聴いたり、逆に、彼が上がって来て、私が書いた文章を読んで聞いてもらったりもした。自分自身のプロジェクトは独自に進めるんだけど、互いに助け合いもするの。

今、自叙伝を書き終わって取材三昧の日々でしょうが、自由時間にいちばん楽しみにしていることは何ですか?

何もしないのは難しいな、と思ってるところ。たとえばテレビを観ていても、絶対他のことをしてる。人生は短いからね。座ってテレビを観てるだけなんて私には無理。夏には庭に座って過ごすのが好き。本を読んだり、うとうとして。続きを読んで、またうとうとする。猫がきて膝の上に座り、鳥のさえずりを聴く。それが私の理想の夏の過ごし方だし、そうしたいと願ってる。でも、何より音楽をやらなきゃいけないし、音楽はどんどん創っていきたい。進めなきゃいけないソロプロジェクトもあるし、CARTER TUTTIもある。プロジェクトはたくさんあるからね。9月にはロンドンで展示会があるから、そのために短編映画を撮らなきゃいけない。いろいろ進んでるけど、全部最高。本の続きが進んでるみたいで、忙しい。


コージー・ファニ・トゥッティ著『ART SEX MUSIC』からの抜粋

メインのギャラリーに続くドアを開けると、オーディエンスがどっと押し寄せ、会場は人波でうねっていた。私たちはファースト・アクトだった。なぜなら、機材のほとんどをクリスが組み立てたので、サウンド・チェックをしたら、セッティングをそのまま残しておくのが好都合だったからだ。各自が定位置に立った。クリスはリズム、シンセ、各種マシン。私はレイバーのギターとエフェクト。ジェンはボーカル、ヴァイオリン、リッケンバッカーのベース。スリージーはテープを操る。私はレザーのライダースを着ていたけれど、前を開けていて、下には何も身につけていなかった。胸にはスリージーに怪我のメイクを施してもらい、深く傷つけられ流血しているように演出した。ライダースはパフォーマンスの最中に脱いだ。ジェンは前髪部分を剃って、逆V字のピーター・ガブリエル(Peter Gabriel)スタイルにしていた。また、スリージーがつくったニセの血液が入ったボトルを手に持ち、歌っている最中にそれを口に含ませ、世界滅亡についての歌詞をマイクに向かって叫びながら、その液体を口から吐き出していた。

セットはゆっくり始まり、「Very Friendly」から「We Hate You (Little Girls)」「Factory」「Slug Bait」「Dead Ed」へと高まる。最後は「Zyklon B Zombie」で何の制限もないめちゃくちゃな状態になった。THROBBING GRISTLEの公式なデビューは完璧だった。自分たちのパフォーマンスに満足していた。観客の感想など知らないし、気にしてもいなかった。

次のアクトはシェリー(Shelley)という名のストリッパーだった。彼女は無心に、ストリップショーの〈ステージ〉に立ち、観衆に向けてパフォーマンスを披露した。最後には、私たちのライブで使われた偽の血液が残るフロアを裸で転がりだした。観客のお気に召したようだった。そしてその後、LSDが登場してパンクなセットを披露した。友人たち(Siouxsie & the Bansheesを組む前のスージー・スー(Siouxsie Sioux)もいた)が歓声を送っていた。彼らのファンたちはみんな、間違いなく、SEXやジョンのやってるBOYで手に入れたパンク・ファッションに身を包んでいた。もちろん、アートについては門外漢、という感じ。

その夜は、アルコールの消費量がすごかった。特にジェンはパフォーマンスの前にウイスキーを1杯やるのが好きだった。バーはずっと混んでいて、もちろんギャラリーのフロアもスシ詰めだった。私たちは、機器を端のほうに寄せて、パーティー好きな人々が集まる中心地からはなるべく避け、友人たちと合流した。私たちのコミュニティに暴力やトラブルはつきものだったので、興奮した雰囲気も気にならなかった。THE KIPPER KIDSのブライアン(Brian Routh)と会えたのがうれしかった。彼がいるといつも楽しい時間を過ごせる。彼は、私のところへ寄ってきた頃には、既にかなり酔っぱらっていた。ジェンはイアン・ヒンチクリフ(Ian Hinchcliffe)といっしょにいたが、イアンもベロベロだった。

その頃、既に、イアンは、激昂すると抑えられずに口撃し、暴力に訴えてしまうので有名だった。その対象は、モノ、自分自身、他人、なんでもござれ。イアンとジェンとのあいだには問題があった。イアンはうわべだけの付き合いが嫌いで、これまで既にジェンの目に食器用洗剤をかけたりもしていた。彼が近づいてくると、彼の口もとが血まみれなのが見えた。秘技〈グラス喰い〉に失敗したのだ。誰がジェンに対して最初にパンチを放ったかはわからないが、ジェンが私を〈利用〉していることや、ジェンの私に対するひどい扱いについて叫ばれた言葉は辛辣だった。そこから地獄のような乱闘が始まった。殴り合い、足蹴り、ボトルがグラスもあちらこちらから飛んでくる状態。そして最終的には息も絶え絶えな屍たちが床に折り重なっている状態だった。みんな、一歩離れて見物していたり、関わらないようにしていた。テッド・リトル(Ted Little)は仲裁しようとしたけれど、昂ぶる連中に巻き込まれ、相当強い蹴りを股間に喰らったようで、病院に担ぎ込まれてしまった。

ジェンの指の骨が折れている恐れがあったので、その夜、チャリングクロスの救急センターを訪ねた。医者たちはジェンの血まみれの顔を見て、重症なのではないか、と心配していたが、それは偽の血液だった。そのせいで、指の怪我も疑われ、実際、骨も折れていなかった。私がジェンと病院にいるあいだ、クリスとスリージーはICAに残って、機材を車へ運び込んでいた。ジェンと2人で会場に戻ると、車でマーテロ・ストリート(Martello Street)に向かい、機材を下ろし、階段で地下のスタジオへ降りて機材をしまい、カギをかけ、そしてロンドン・フィールズ(London Fields)を歩き、ベック・ロード(Beck Road)の自宅に戻った。

 

昨夜のようなドラマはもうないだろうとタカをくくっていたが、その後、試練に直面する。翌10月19日火曜日、ショーが公式に始まった。そしてそこから、マスコミの〈暴動〉が始まったのだ。私とスリージーは、その週の水、金、土曜、翌週の日曜にICAでいっしょにパフォーマンスする予定だった。私たちは怪我のメイクを施すことに決めたのだが、それは、裸のセックス・アクションを期待していたマスコミをがっかりさせるためだった。その行動によって、COUM TRANSMISSIONSの〈COUMは皆さんを残念がらせます〉というスローガンを守った。水曜、1時からのショーのためICA入りすると、アーティストやマスコミ集団を含むオーディエンスが、既に客席にスタンバイしていた。私たちはいち度しかパフォーマンスしなかった。

1976年10月20日
この日のICAはマジでイカれていた。記者が多すぎるうえに、過剰に攻撃的だった。これ以上どうパフォーマンスしろというのだろう。無理だ。またアイツらが殺到する。今日はピックが3つ壊れた。てことは来週の火曜までには全部なくなってしまう。記者たちが私のことをギャラリー狭しと追い回すので、ドアも壊れる寸前だった。クリスは殴られたうえに、「このアホ」と罵倒されていた。裏口からこっそり抜け出さなければならなかった。そのあとポール(・バック、Paul Buck)とランチをした。彼といっしょだといい時間を過ごせる。

ショーに対して、メディアからここまで爆発的な反応があるなんて予想していなかった。元々、世間がCOUMをどう受け入れ、イメージどうゆがめられるか、ということをベースにした展示だったので、皮肉にも、メディアの反応のおかげで作品は進化した。日々、メディアがネタを提供してくれるなんて何という幸運だろう。メディアは、なんとも自発的なコラボレーションのパートナーだ。新しい素材を入手したら、毎回、私とクリスでICAに行って切り抜きを集め、コピーを採って、既存の作品が貼られている壁に並べてピンで留める。回顧展的な趣があったこの展示が、現在進行形の作品として進化する。メディアが熱狂的になればなるほど、どんどんサイズも大きくなっていった。

 

このマスコミの迷惑行為や、ICAでのひどいストレスを通して、私とクリスの距離は近くなり、私たちの関係は強固なものになった。ICAでのショーは、私たちの将来を決定づけるきわめて重要な経験になった。それはCOUMの終わりとTHROBBING GRISTLEの始まりだっただけではなく、ジェンと私との関係の、終わりの始まりだった。なぜなら私とクリスは深く愛し合うようになったからだ。また、ジェンにも予期せぬ出会いがあった。スー・キャットウーマン(Soo Catwoman)という女性との致命的な関係が始まったのだ。そして、私と両親の関係も終わろうとしていた。