Photo : Neil Monkhouse

1985年、ニュージーランドのJAYREM RECORDSは、ウェリントン出身のVIETNAMというバンドの12インチEP『Vietnam』をリリースした。陰鬱で不穏なポストパンク・サウンドを展開していたVIETNAMのメンバーは4人の若者だ。ニュージーランド国内をツアーし、オーストラリアに拠点を移したあと解散。その活動期間は、実に短かった。しかし、その独特なサウンドと抒情的ながら強烈な歌詞は伝説となり、唯一の作品である『Vietnam』は、長らく〈Lost Kiwi Classic(ニュージーランドの失われた最高傑作)〉と称されていた。長いあいだ廃盤になっていたが、スペインのレーベルB.F.E RECORDSによって、ようやく再発。今作には、未発表トラックも収録されている。

VIETNAMのメンバーは、ベース&キーボードのエイドリアン・ワークマン(Adrian Workman)、ドラムのレオン・リーディク(Leon Reedijk)、ギターのピーター・ドランスフィールド(Peter Dransfield)、ヴォーカルのシェーン・ブラッドブロック(Shane Bradbrook)。4人は高校生だった1982年から、ウェリントン郊外の労働者階級が住むワイヌイオマタ(Wainuiomata)のガレージでバンド活動を始めている。郊外在住ならではの孤独感や、JOY DIVISION、THE CUREなど、イギリスのポスト・パンク〜ニュー・ウェイヴ・サウンドにインスパイアされた暗くメロディアスなサウンドを展開していた。そこには典型的な10代の鬱屈だけでなく、当時のニュージーランド世相…アパルトヘイト時代の南アフリカ共和国に対するラグビー界への抗議や、ニュージーランドで起こった環境保護団体〈グリーンピース〉の活動船〈レインボー・ウォーリア号(Rainbow Warrior)〉の爆破テロ事件なども反映されていた。

地元のパブをまわってライブを重ねたバンドは、ニュージーランド国内の〈バンドバトル選手権〉に出場。トロントのニュー・ウェイヴ・バンド、MARTHA AND THE MUFFINSの「Echo Beach」のカバーを含むセットを披露して賞賛を得たが、もう一歩のところで〈産業ロック〉バンドに敗れた。しかし、そのときの審査員のひとりで、テレビ番組『Radio With Pictures』の司会者だったカリン・ヘイ(Karyn Hay)は、その後もVIETNAMのバンド活動をサポートし続け、テレビでも代表曲「Victory」のビデオをオンエアしていた。

『Vietnam』のリリース直後、ワークマンはシドニーへと拠点を移し、その1年後には、ドランスフィールドも彼に続いた。様々な方法でバンドを再生させようと試みたが、結局、1988年に解散。しかし今回の再発に合わせ、2月には、特別に再結成し、ステージに立った。エイドリアン・ワークマンに話を訊いた。

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70年代後半から80年代前半のワイヌイオマタはどんな雰囲気でしたか?

雇用、人口といった面で、あの町ピークは、70年代の中頃~後半だ。少年時代を過ごすにはいいところだった。大都会で暮らすのに比べたらの話だけども。〈ワイヌイ〉は、労働者階級が誇りをもって住む町で、コミュニティの繋がりも強かった。

80年代初頭には、国内の経済が混乱して、ワイヌイも他の地域と同じようにその影響をモロに受け、工場は軒並み閉鎖された。一般的な10代にたがわず、私も衝動を抱えていたし、谷間の町で暮らしている状況に、抑圧されている感じてもしていた。週末は、退屈した若者たちが公園でたむろしているのをよく見かけたよ。緊迫した雰囲気も少しはあったかもね。週末はだいたいどこかでパーティーがあって、私はそこでいい音楽を聴いてきた。そのなかで何人か生涯の友人もできたし、この町から生まれたサクセスストーリーというのもたくさんあるはずだ。

FLYING NUN RECORDSによるダニーデンを中心としたシーンについてはいろいろと語られてきましたが、同時期のウェリントンの音楽シーンはどうでした? パンクやポスト・パンクのシーンは盛り上がっていましたか?

私たちがバンドを組んだ1982年には、1977年当時のオリジナルパンク・サウンドからだいぶシフトしていた。もっと多様性があったし、ポスト・パンク自体もポピュラーになりつつあった。だから私たちのサウンドはフィットしたんだ。パブはまだバンドのブッキングに抵抗があったから、ほとんどのライブは、公民館とか他の場所を借りてやっていた。シーンには活気があったけど、同時に不安定でもあった。ケンカのせいでめちゃくちゃになるライブもあった。パンクコ・ミュニティのなかのグループが同時に集まると、ケンカになっていたね。でも基本的にバンドはお互いに助け合っていた。機材を一緒に使ったり、ライブの告知を一緒にやったりね。

Photo : Allan Potter

〈バンドバトル〉での結果には、驚きましたか?

1984年頃のVIETNAMは、もう相当弱っていたけどね。たぶん短期間にライブをやりすぎたせいで、もうあんまり歓迎されなくなっていたんだ。でもあの晩は、私たちの人生のなかでも最高のライブだった。

今日までずっと、当時の音源を聴くたびに鳥肌が立つ。その日の演奏が完璧だったからではなく、そのエネルギーがすごくてね。レオンのドラムはバンドを新しいレベルへと引っ張ってくれていたしね。私たちは、経験豊かなバンドたちに歯向かっていく無名のティーンエイジャーだった。最終的に勝利したのは、その大会のオーガナイザーがマネジメントしていた産業ロック・バンドだったけどね。彼らはスカした演奏をしてたけど、私たちの演奏が終わって、ステージから降りたときに見た彼らの顔は忘れない。実のところ、3人の審査員のうち2人は私たちを勝者として選んでくれていたんだ。でも残りのひとりがさっきのマネジメント責任者だった。最近ピーターが、当時の審査員に会ったらしいんだけど、彼が暴露したところによると、自分の仕事を守るために私たちのスコアを低くつけなきゃならなかったそうだ。だからどう頑張っても勝てっこなかったわけだ。だから僕は映画『スクール・オブ・ロック』(School of Rock, 2003)が好きなんだよ。

JOY DIVISIONの影響は、VIETNAMにとってどれくらいありましたか?

私たちは、何か特定のジャンルの音楽をがっつりやろうとは決めてはいなかった。確かに私はJOY DIVISIONを聴いてたし、シェーンも聴いてたんじゃないか。ベーシストとしてはピーター・フック(Peter Hook)とTHE CUREのサイモン・ギャラップ(Simon Gallop)から相当影響は受けているけどね。

彼らのエフェクターの使い方や、メロディ面で曲を盛り上げるスキルには、衝撃的な新しさがあった。歌詞的には、JOY DIVISIONにも、THE CUREにも、心を鷲掴みにされたね。彼らの歌詞には、あの時代の重苦しさや絶望感が反映されていた。実は、1984年にウェリントンであったTHE CUREのライブのあと、ロバート・スミス(Robert Smith)とビールを飲みながら、政治、その他いろいろな事柄について話す機会があったんだ。その出会いのあと、ちょうど当時のニュージーランド首相のロバート・マルドゥーン(Robert Muldoon)とイギリスのマーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)首相の会談もあったからね。とにかく音楽における彼らの影響は本当に理にかなっていたよ。

U2の「ブラディ・サンデー(Sunday Bloody Sunday)」の数年後に、あなた方のレコードはリリースされました。U2の政治色をはらんだ楽曲は、あなたたちのサウンドにも影響していますか?

そうだね。何かしらのカタチでU2の影響は受けているだろう。ニュージーランドってところは、新しいバンドの情報が入ってくるのがすごく早かったし、U2は特別な存在になるのがわかっていたよ。1980年に『ボーイ(Boy)』を聴いて、プロデューサーのスティーヴ・リリーホワイト(Steve Lillywhite)のサウンドに圧倒されたのを覚えている。U2は、1984年にウェリントンで観たけど、いまだに人生のトップ5に入るライブだったね。演奏は最高だったし、とてもまとまっていた。のちに彼らが使うシーケンサーとか、バンドのサウンドを軽くするような機材を導入する前のライブだったんだ。

Photo : Karen Downes

あなたたちのレコードは、レインボー・ウォーリア号沈没事件の数カ月後にリリースされました。地元のパンク〜ポストパンク・シーンは、この事件にどんな反応を示していましたか?

大した反応はなかったんじゃないかな。それよりも、ラグビー南アフリカ代表〈スプリングボクス〉が遠征試合に来たときの方が、シーンはかなり活発に動いたね。レインボー・ウォーリア号事件のときはもう力が残ってなかったんじゃないかな。そういった事件のあと、ウェリントンのパンクシーンは分裂した。

でも土着の音楽シーンやメインストリームの音楽シーンからは、かなり力強い反応が生まれていた。特にパシフィック・レゲエのパイオニアであるHERBSは、太平洋における核実験へのプロテストソングをつくっていたよ。1982年の「French Letter」という曲はチャートでも上位にランクインしたし、1985年にもシングル「Nuclear Waste」をリリースしている。メインストリームのアーティストなら、SPLIT ENZが反核実験ライブのために再結成していたね。

このレコードのリリースから1カ月後、シドニーに居を移しましたね。なぜですか?

1984年の終わり頃、私はだいぶ疲れていたから、生活を変えたかった。個人的にいろんなコトがあって、苦労していたんだ。私はピートと話し合って、何かしらレコーディングして作品にするまで、もうちょっとだけバンドで頑張ろう、と決めたんだ。驚いたことに、彼は、アート・カウンシルからの補助金を手に入れていたんだ。その資金でレコーディングもできたし、JAYREM RECORDSとも契約できた。でもVIETNAMは、レコードをリリースしてから1回もライブはしていない。バンド解散を決めた当時の決断については、今でもちょっとモヤモヤしているけど、いろいろあったからしようがない。

自分たちのバンドが、ネット上で注目されていると初めて気づいたのはいつですか?

 5年くらい前、誰かがYouTubeに「Victory」の映像をアップして、そのすぐあとにフランキー・ティアドロップ(Frankie Teardrop)というニューヨークのブロガーが、彼のサイトに作品のレビューを載せたんだ。それで〈Lost Kiwi Classic〉というフレーズが話題になり始めた。もちろんVIETNAMにはウェブサイトもなかったから、謎めいた雰囲気もその流れに貢献したね。私はフランキーと連絡をとるようになり、今ではいい友人になった。去年のクリスマスには彼に再発盤のレコードを送った。彼は今、ニューヨークのオルタナ系クラブでDJをするとき、「Victory」をよくかけているらしい。