南米はベネズエラ。なんだか面白いことが起きています。

南米といえばカトリック信者が多く、信仰心の篤いイメージ。週末、酒場で泥酔した挙句、見ず知らずの輩と口論になりぶん殴ってしまった。なんて事件があっても、翌朝、マリア様に懺悔すれば全部チャラ。南米のカトリック全員がそんな無頼なワケではないにせよ、非常に大らかな信仰心を持った陽気な人々が多いようだ。

20世紀後半、南米を中心に、解放の神学、というキリスト教神学ムーブメントが起こった。人によって解釈、定義は千差万別なので、一概に、こう、とは定義できないが、無理矢理説明すると、真の信仰たるもの困っている衆生が救済されないでどうする、神のことばかり観想せずに皆で手を携えて現実を変革してゆこう、といったところか。宗教的に思考を磨き抜いた碩学たちが、神同様、衆生をも観想対象に据えたわけだ。

それによって何が起きたか、というと、神から溢れ出す肥沃な精神性に匹敵する人間的豊かさが衆生の中にもあるではないか、ということを一部の碩学が、改めて現実から見出したのだ。理想の宗教的世界を観想しすぎたせいで、聖職者、神学者たちにとって、現実は取るに足らない些事に成り下がってしまった。聖書を肯定するために知的遊戯を延々と繰り広げ、知性に呪われた歴史を西洋社会は背負い込んでいるので、それはそれで致し方ない。しかし、そんな知的微睡みから、一部聖職者が目を醒まさざるを得ないほど、南米の社会状況は混沌としていた。

どれだけの人間が解放の神学により救済されたか、ということは明確にデータ化する術もないので定かでない。しかし、解放の神学は、衆生と聖職者に一条の光を投げかけただけでなく、イエス・キリスト、という神の子すら十字架から解き放った。

解放の神学が名乗りをあげる以前から、南米のカトリック信仰は非常に大らかで、グアダルーペの褐色聖母、アンデスのパチャママ等々、様々な地神が容認されていた。すでに、イエス・キリストは半ば解放されていた感もあるが、解放の神学が民衆に決定的に植え付けたのは、信仰対象の偉大さ、というよりも、信仰作法の有意義さだったようだ。

解放されたイエス・キリストに替わって、ベネズエラっ子の信仰心を満たすのは、稀代の悪党たち。信仰に対しては、必要以上に神経質な最近の日本だが、地球の反対側では、陽気で実直な信仰心を抱く、気のいい輩が大勢いる。新たな価値観が育まれるベネズエラ、是非、お楽しみください。