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お母ちゃんと地元が大好きな麻薬王エル・チャポ

エル・チャポの故郷、シエラ・マドレを訪ねた。住民が語るところによると、エル・チャポは、お母ちゃんと地元が大好きな、頼れる気の良いヤツだった。

白髪交じりの口ひげをたくわえ、白いカウボーイハットをかぶった大柄なアンヘル・ゼペダ・グスマンは、黄色に塗られた自宅の玄関に腰かけていた。ここアロヨ・セコはシエラ・マドレ山脈に位置する、ホアキン・グスマン「エル・チャポ」が育った村だ。

「チャポはいつもそそっかしかった」。ゼペダは、7月に脱獄し、1月8日に再び拘束された麻薬王の幼少期をそう評した。「自信過剰だから捕まったんだ」

ゼペダは麻薬王と面識がある。チャポが拘束されたロスモチスでなく、身寄りのあるこの村に潜伏していれば今も自由だっただろう、と確信している。

悪名高い犯罪者エル・チャポを知る、53歳のゼペダは、気さくにいろいろ教えてくれた。ここは世界中で麻薬を取引するメキシコ史上最大の犯罪組織、チャポ率いるシナロア・カルテルの拠点だ。麻薬は日常的に取引され、名を成した密売人は、英雄かのようにもてはやされる。

麻薬取引に批判的で、その裏にはびこる暴力を知っている人々は、意見を口にするのが賢明でないとわかっているが、ほとんどは匿名であれば記者の取材に応じる。

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「チャポは暴力的かもしれないが、それは環境のせいだ。シエラ・マドレでは仕方のないことだ」

この村に住む元ケシ栽培農家の男性は、過去10年間の麻薬戦争で、チャポは10万人以上を殺害した、と見積もっているが、彼に責任があるとは思っていない。

チャポが育った地域は、バディラグアトの街から車で4時間の場所だ。バディラグアトもシナロアの州都クリアカンから車で1時間の場所にある。

1月の風は冷たく、空は青く澄んでいた。谷間を抜けた小川は、紫色のアマバが咲く山腹を流れてゆく。山に分け入る曲がりくねった泥道から頂は見えないが、その向こうでは、何十年も前から、農民がアヘンやマリファナを栽培している。

アロヨ・セコの目と鼻の先に、険しいセロウ・ビエホの山頂があり、その麓にチャポが生まれ育った村、ラ・トゥナがある。小さな平屋が点在するなかに、麻薬王が母のために建てたカラフルな大邸宅がそびえ立っていた。

アルティプラーノ刑務所のトンネル大脱走から1月8日に拘束されるまでの半年間、住民2名が、チャポの姿を見かけた、と証言した。実際に目撃していないが、チャポがこの村を3-4度訪れた、と証言する住民も数名いた。

チャポが逃亡していた数か月の間、この地域で、海軍が何度か軍事行動を実施した。しかし、チャポは誰にも見つかることなく、何度も年老いた母親コンセロ・ロエラのもとを訪れていた、と住民は教えてくれた。

1月9日の『ローリング・ストーン』で有名になったショーン・ペンとの密会で、チャポ自身が、母によく会っている、と語っていた。

「お母さんにはよく会う?」とペンが尋ねると、「よくあうよ。オレの牧場でインタビューできたら、オマエもオレのお母ちゃんに会えたのに。お母ちゃんはオレのことオレ以上にわかってる。いろいろあって、牧場はムリだったんだ」とチャポは回答した。

世界中に論争を巻き起こしている、ショーン・ペンのエル・チャポに対するインタビューについて知っている住民はほとんどいなかったが、彼を子供の頃から知っている住民たちの証言は、インタビュー映像中のチャポの答えを裏付けた。チャポは、メキシコ・メロドラマのスター女優ケイト・デル・カスティーリョとともに、テキーラとタコスを肴に、7時間にわたってインタビューに応じた。

「6歳のときのことを今でも覚えている。俺の家族は質素で貧しい暮らしをしていた。母は家族を養うために、パンを作っていた」と映像のなかでチャポは回想している。「パンも売ったし、オレンジもソフト・ドリンクもキャンディーも売った」

チャポが生まれ育った地域で暮らす人々は、少年だった彼が近くのラ・パルマ村へ行ってオレンジを箱に詰め、ラ・トゥナで売るために、ロバに乗ってオレンジ箱を運ぶ姿を憶えていた。その数年後、10代の彼は、ラ・パルマより遠くのイキシオパという村へ出かけ、ドニャ・トニアの店でソフト・ドリンクを購入し、村に持ち帰って販売していたそうだ。

幼少期の経験が、富への欲求を生み、チャポの商才が覚醒するきっかけになったのだろう、「チャポは冒険好きで、いつも金を儲ける術を探していた」とゼペダは分析する。「そういう方面には頭の切れる少年だった」

チャポの5歳年下の従弟、ゼペダによると、従兄はスポーツ好きだった。「チャポはバレーボールが好きだった」よく一緒に「3対3」で試合をしたそうだ。

チャポは1970年後半、シナロア・カルテルの国際的な取引ルートを確立した幹部の1人、ペドロ・アビレス・ペレスに雇われて組織犯罪に関わり始めた。アビレス・ペレスはチャポの叔父だと噂されているが、ペレスの従兄弟ペドロ・アビレス・ブルゴスはそれを否定した。

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74歳のアビレス・ブルゴスは、イキシオパのオレンジ色の家に住んでいる。彼の家はチャポがソフト・ドリンクを買っていた店を見下ろす場所にあった。

「チャポは10代のときよく家の前を通っていた。ガールフレンドと一緒だったこともあった」

チャポの初麻薬取引は、1970年代後半、トラックを購入した後に始めたアヘンの輸送だとされている。一方、ベテランの密輸業者の用心棒になったことがきっかけだ、という噂もある。どちらにせよ、この頃から彼は村を離れることが多くなった。

チャポが麻薬密輸業界で有名になると、1989年、ラ・トゥナで、彼の母親のための小さな使徒教会の建設が始まった。

ラ・トゥナで信者が増えたのはマザー・チャポの影響であり、彼女の信心深さは、住民のあいだでも有名だ。

最近設置された、ラ・トゥナを訪れる人を歓迎する看板

最近、地方自治体が設置した「ラ・トゥナへようこそ」という、どんな村のそれよりも大きな看板を通り過ぎると、聖書の一節が記された台座がある。住民によると、チャポの護衛の一人であるエル・コマンダンテと呼ばれる人物の銅像が数年前まで台座の上にあったが、軍によって取り壊されたそうだ。人通りの多い交差点には聖歌や聖書の詩篇が彫られた金属の飾り板が設置されていた。

教会は小さいが、礼拝に参加している女性によれば、隅々まで手が行き届き、毎年塗り替えられているそうだ。彼女によると、山岳地帯では伝統的なローマ・カトリック教会が主流だが、ラ・トゥナや周辺に住む人々はほとんどが使徒教会の信者だ。

教会の先、地元の共同墓地にある、二階建家屋ほどの大きさの墓も、チャポが建てたものだ。墓の中には花と、エステバン・ゲラ、という人物の写真、名前の入ったプラスチック板が飾られていた。彼は11月23日に31歳で亡くなった。プラスチック板には、彼がコックピットにいる姿や、麻薬やシエラの人々を運んでいた飛行機の横に立つ姿を収めた写真もあった。

住民の話によると、ゲラはラ・トゥナ生まれのパイロットで、チャポの組織のために麻薬を輸送していたが、ソノラ州での飛行機事故で亡くなった。チャポは彼の貢献に敬意を表し、巨大な墓を築いたらしい。

「チャポは面倒見が良かった。部下の世話だけでなく、この地域の治安も改善した」とペドロ・アビレスは語った。「彼のおかげでこの村には強盗も誘拐も搾取もない。もしラ・トゥナの住民が喧嘩を始めたら、チャポは彼らを呼び出して喧嘩の仲裁をするだろう」

地元の英雄となった田舎の少年は、いまや世界に悪名を轟かせ、再び刑務所に戻った。住民たちは見捨てられた気分だと嘆いた。彼らはこの地域に軽犯罪がはびこり、ケシやマリファナ畑をめぐって縄張り争いが起こるかもしれない、と危惧している。

「彼の代わりに秩序を保てるような人はいない」チャポの従弟のゼペダは断言した。「俺たちは彼の帰りを待ちわびている」