OKINAWA 2015 遺骨を掘り続ける男 国吉勇さんの話(完全版)_top

photo by 亀山亮

那覇市在住の国吉勇さん(76歳)を取材させていただいた。国吉さんは約60年間、日曜と雨の日を除いたほぼ毎日、沖縄戦の犠牲者の遺骨を掘り続けている。これまで掘り出した遺骨は実に3,800柱。今回は、その活動に密着しつつ、国吉さんを突き動かしている熱の源に迫ろうと試みた。取材当日は朝から遺骨掘りに同行したのち、これまで収集した遺留品の一部を展示した自宅敷地内の資料館を撮影(OKINAWA 2015: EPISODE 2 – 遺骨を掘り続ける男)。夕方から、国吉さんが35年通っているという地元の常連が集うディープな酒場でインタビューした。

飲みながらやりますか。今日は昔の話から聞かせてください。沖縄戦のとき、国吉さんはおいくつでしたか?

6歳です。3月に幼稚園を出て、4月1日から1年生になるはずが、その日にアメリカさんが上陸してきたもんだから、国民学校に上がれなかった。僕らは北部を山原(やんばる)って言いますけど、山原にある大宜味村の大保(たいほ)というところの山奥に避難したんです。大宜味村の村民が四畳半ぐらいの茅葺家を200~300軒つくってくれていました。

避難する前は、那覇のいまと同じところにお住まいだった。

同じところです。

那覇から大宜味村までどうやって行きましたか?

おやじが持っていた馬車で避難しました。2~3カ月分ぐらいの食糧を満載して。ところが、アメリカさんの戦車やトラックが通れないように、日本軍が橋をみんな壊していた。それで、大宜味村に行くまでに相当遠まわりしたらしいです。途中、敵の艦載機が僕らめがけて超低空で来るんです。おやじが「あれは民間人には攻撃かけないよ」って言ったのを覚えています。パイロットの顔が見えたんですよ。確認に来るわけ、超低空で。でも、おやじの言うとおりで攻撃かけなかったですね。あとは、吹き飛ばされてバラバラになった死体が木からぶらさがっていたのを記憶しています。

それは米軍の上陸前ですか?

上陸前です。艦砲か飛行機の爆弾で亡くなったんでしょう。

ご家族は何人でしたか?

きょうだいが10人だから両親含め12人ですね。

国吉さんは何番目ですか?

7男3女の6番目。

おじいさんとおばあさんは?

おじいはもういなかったけどね、ばあちゃんはいたな。当時はどこの家庭にも5~6メートルぐらいの小さな避難壕がつくられていたらしいんですね。ばあちゃんは足が悪かったもんだから、兄貴らが畚(もっこ)で担いで避難させたんです。ばあちゃんと親戚のおじいとおばあの3名を僕らの壕に。それで半年分ほどの食糧を置いて、僕ら山原に避難したんですよ。戦争が終わって半年後ぐらいに帰ったら、3名とも死んでいました。僕は覚えがないけど、誰か年寄りが紛れ込んで、4名になっていたらしいですね。どういう状態で死んだか知らないけど、ばあちゃんの着物の懐に鰹節の削り残しが入っていたそうです。

最期はそれで飢えをしのいで。

そうそうそう。

当時、お父さんはどんなお仕事をなさっていましたか?

48歳ぐらいだから、もう兵隊には行けない。食糧営団というところに雇われていたらしいんです。軍に徴用されているので、僕らを大宜味に送り届けてから帰っていきました。おやじは無傷で戦後まで生き延びましたけど、おふくろは疎開中にマラリアに罹ってね、死んだんですよ。僕らの身内で亡くなったのは5名おるんです。ばあちゃんでしょ、おふくろでしょ、兄貴、弟、姪っ子。兄貴は予科練に行くときに敵の潜水艦にやられて。

お兄さん、予科練ということは16歳ですか?

16歳です。その下に商工学校3年生と中学2年生の兄貴がいて、ふたりとも鉄血勤皇隊(※1)でした。いちおう軍服は着せられて、鉄兜やら鉄砲、手榴弾もみんな持たされていたらしいんですね。どんな小さな軍服着ても、指が見えないぐらいダブダブだったらしいです(笑)。大人より身軽だから、敵兵が何名おるか、しょっちゅう匍匐前進で斥候に行かされたらしい。ふたりとも生き延びましたが、上の兄貴は弾の破片が体にめり込んだままでした。だから、飛行機で本土に行くときなんかはゲートを通過するときにブザーが鳴りよったらしいです。財布とか全部取っても何回やっても鳴るから、「わし、これ鳴るのはね、戦争で破片が入ってるんですよ」と言って、通してもらってました。3年ぐらい前に亡くなりましたが、火葬場で焼いたら遺骨から青く錆びた1センチほどの破片が4つぐらい出てきました。嘘かなと思ってたけど本当に出たんです。骨壺に入れるときにわかったんですけどね。

艦砲の破片でしょうか。

でしょうね。大きいのに当たったら即死かもしらんけど、小さいのだったから生き延びたんでしょうね。その下の兄貴は無傷でした。捕虜になってハワイに連れていかれて1年半いました。沖縄の人ばっかりハワイに連れていかれて、本土の人はほとんど行っていないそうです。沖縄で戦争中は日本軍から壕を追い出されたり、子供が泣いたら日本刀で斬り殺されたり、鉄砲や拳銃で撃たれたりしたんだからね。砲弾や銃弾が雨霰のように飛んでくるところに追い出されて、どんどん死んでいったでしょう。だから恨みがあるって、アメリカさんはわかってるんですね。

一緒に収容したら元日本兵が危ないと。

戦争が終わったら、沖縄の人に殺されると思ったんでしょう。下の兄貴はハワイの収容所に1年半いたものだから、おやじは兄貴のことを亡くなったと思っておったんです。

お兄さんが帰国されたときは喜ばれたでしょう。

でしょうね。僕は子供だったからあんまり記憶がないけど。顔が丸くなって帰ってきたのは覚えているけどね。太ってから。

弟さんはおいくつで亡くなりましたか?

あれは1歳半。姪っ子も1歳半。ふたりとも栄養失調でなくなったらしいです。

疎開先の大宜味村ではどういうものを食べていましたか?

山のなかだから食糧がないわけ。畑がないから野菜もつくれないしね。自分らが持っていった食糧を食い尽くしたら、みんな野草を食べて飢えをしのぎました。それで、食べられる草と食べられない草の見分けがつくようになった。それはいまでもわかります。
戦争が終わって那覇に帰ってきてからも、肉とかないですよ。あなた、ネズミとか食べたことないでしょ。最高でしたね。兄貴らがバネ式のネズミ捕りでパチンと捕まえて皮剝いで、頭とか内蔵は捨てて、塩焼きにして食べるんです。最高に美味しかった。いまでも食べようと思ったら食べられますよ。べつに毒ではないんだから。ハブも食べたことあるんです。ハブはね、ウナギみたい軟らかくないんですよ。硬くて筋肉質で。

ハブも焼いて食べるんですか?

そう。ハブはウナギみたいにきれいに骨が取れないんですよ。骨にトゲがいっぱいあるから肉に食い込んでいて。

OKINAWA 2015: EPISODE 2 – 遺骨を掘り続ける男(動画編)