ロシア正教の聖堂は1907年に建設されるもソ連時代の宗教弾圧のため封鎖されていた。

頭蓋骨に穴を開けて意識を覚醒させるトレパネーション、マリファナ愛好家が集うカンナビスカップ、ロシアの刑務所タトゥー、人体を冷凍保存し未来に蘇生させるプロジェクトを運営するアルコー延命財団、政治的なハッキングを行うハクティビストなどなどなど。上記のようなクレイジーな出来事の取材が収録された著書『クレイジートリップ』が2016年リリースされた。
このようなアウトローな世界に足を踏み入れ取材する意図とは? また、カルチャーの生まれる現場に立ち会うとは? 著者であるケロッピー前田が『クレイジートリップ』に至るまでの、クレイジーな半生とともに、この著書で伝えようとしている物事について語ってくれた。

今回リリースした書籍のタイトルが『クレイジートリップ』ですが、ケロッピー前田さんご自身、クレイジーな物事と旅について、興味を持たれたのは、いつ頃からですか?

人生最初のクレイジートリップは?と聞かれれば、中学1年生のとき、ネッシーを探すために渡英した体験でしょう。僕がオカルト少年だった過去の話は、本名の前田亮一名義で執筆した『今を生き抜くための70年代オカルト』(光文社新書)に詳しいです。その時期にイギリスに行けたのは、親戚家族がイギリスに赴任していて、中学一年生が子供料金で航空チケットが買えるギリギリの年齢だったから。現地に住む伯母を巻き添えにエジンバラ行きの長距離バスに乗りましたが、ネス湖までは辿りつけませんでした。それでも、その体験の影響は大きかったと思います。

ネッシーが騒がれていた時代ですね?

実際に行ったのは1977年です。同年、僕が中学1年生のとき、ニューネッシーと呼ばれる巨大生物の死骸みたいなものがニュージーランド沖で引き上げられました。朝日新聞で大々的に報じられるほどの大事件で、それを見たら、どうしてもネス湖に行きたくなったんです。子供って、自分が探しに行けばみつけられると単純に考えてしまうんですよね。カメラも好きだったので、伯母のカメラを首から下げて、ネス湖を目指したわけです。その頃から、未踏の地を目指す旅には躊躇はなかったですね。

オカルト好きの子どもだったのですね(笑)。

そのあともカルチャーの発祥地を見たいという気持ちは強くありましたね。大学生のときには、短期留学でニューヨークに1ヶ月居たんですけど、ちょうどヒップホップが流行っていて、グラフィティも盛んな時期でした。

80年代中盤くらいですか?

87年くらいですね。そのときは、パブリック・エネミー(Public Enemy)が衝撃的でマジソン・スクエア・ガーデンで行われたDef Jam(デフ・ジャム)のライブに行きました。夏休みに海外でも行こうかなって思ったときも、単身でヒップホップの現場を観に行ってしまう。それが、僕個人のもともとの性分なんですよね。

気になるカルチャーの現地がどうなってるか、見に行ってしまうんですね。

自分としてはあんまり意識してなかったんですけど、子供のときもオカルトが好きでテレビとかで観ていても、ただ妄想を膨らませるだけじゃ足らなくて、自分自身で現場に行ってみたいと思ってしまうんですよね。それは海外取材をメインに雑誌『バースト』を作っていたときもかわらなかったし、現在にも繋がっているんです。

では出版社に入った動機も、カルチャーの生まれた場所を見たくて出版社に入ったのですか?

本や雑誌は好きだったので、大学に入ってバイトをするなら出版社で働きたいと思っていました。それで最初のバイトは椎名誠さんの『本の雑誌』でした。高校時代のバスケ部の先輩が働いていたから紹介されたというだけなんですけど。そのあと、いろいろな出版社でバイトして、学生時代からライターや翻訳なんかもやっていました。

では、出版社に就職してから、仕事で世界を旅するようになるんですね?

91年に白夜書房に入社したんですが、最初はパチンコ雑誌にいて、翌年に新しいアダルト雑誌の定期化に伴って移動しました。そこで新しい雑誌の企画を考えるようにいわれて、いくつかのアイデアを出したなかのひとつに、ボディピアスの体験取材がありました。当時って、たとえば、編集者が風俗の体験取材をしたりとか、いろいろあったので、ピアスの記事を書くなら自分でやってみようというのは自然な流れでしたね。実際、自分でもやってみたいと思っていたので。その後、94年からはアメリカ西海岸に取材に行くようになりました。当時、タトゥーやピアスの世界的なブームはロスやシスコが発祥地だったんです。海外取材に行くようになってからも、現地でピアスしたり、タトゥーしたり、ずっと体験取材というスタイルは続いていましたね。読者にどう伝えるかというより、まずは自分が現地でそのカルチャーを全身で浴びてくるという(笑)。

西海岸の他の音楽やファッションなどにも興味があったのですか?

現地取材って、音楽だけ、ファッションだけって、切り離せないんですよ。ライフスタイル全体を取材することになるし、説明してきたようにそういう現場のシチュエーションに取材者でありながら深くかかわってしまうわけですから。で、もうちょっと90年代カルチャーについて説明するなら、20世紀って、前半に2つの世界大戦があって、第二次大戦後の60~70年代に、いわゆるカウンターカルチャーというものが生まれたわけですよ。それは若者たちが主導する形で新しいカルチャーを作って、新しいライフスタイルを模索するようなムーブメントだったんです。そんななかから、ロックとか、ヒップホップとか、いろいろな音楽が生まれたり、ファッションや映画、文学なんかも生まれたわけだけど、それらの根底には新しいカルチャーを生み出すようなライフスタイルがあったんですよ。そして、そのようなカウンターカルチャーのライフスタイルが、90年代に世界的に復興する時期があって、僕らが作っていた雑誌『バースト』なんかが出てくるんです。

なるほど。

90年代は、89年にベルリンの壁崩壊があり、世界的にも激変の時代であって、カウンターカルチャーも大いに盛り上がり、さらには日本と海外のカルチャーがすごくシンクロしていたんです。その当時、バックパッカーが流行して、若者たちがみんな普通に海外に行くようになりましたね。それまでは日本から出てなくて、雑誌なんかで見たものにただ憧れていたのが、カルチャーの現場に行ける時代になったんです。そうしたら、ファッションとか音楽だけじゃなくて、カウンターカルチャーのライフスタイルそのものがそのまま日本に入ってくるようになったんですよ。そんななかで『バースト』って雑誌は、タトゥーやハイカルチャー、まさにカウンターカルチャーのライフスタイルを紹介していく雑誌メディアになっていくわけです。

ハードな内容でしたよね(笑)。

『バースト』は確かにとんでもない雑誌だったんですけど(笑)、日本中の書店で普通に売っていたし、その頃の若者たちはみんな結構読んでくれていたんです。日本の60~70年代だと、一部のクリエイターたちが海外に行って、サイケデリックな体験をしてとんでもない絵を描いていたり、音楽をやったりしていたけど(笑)。それが90年代になると、『バースト』を読んでいるような若者がカルチャーが生まれる現場に行けるようになって、実際にみんな行っちゃてたんですよ。頑張ってバイトすればお金を稼げた時代でしたし。とにかく、誰もが海外に行きやすくなった時代に、『バースト』はワイルドな現場に行きたい人たちに、カウンターカルチャーの情報を提供していました。そして、いまでも世界のカウンターカルチャーの最前線というのはとんでもないんですよ。

90年代の日本では、実際に海外に行って、カウンターカルチャーの現場を体験した人たちによって、どんなカルチャーが日本で生み出されたんでしょうか?

いまも『バースト』読者の世代が日本のカルチャーの担い手になっているんじゃないかな。とにかく、90年代は海外で新しいカルチャーが生まれると、同時発生的に日本に伝わってましたね。例えばレイブカルチャーとか、インドのゴアで始まったものがヨーロッパを経由せずに、日本に直接入ってきたりして、世界のカウンターカルチャーがひとつのネットワークのように繋がって、どこかで面白いものが生まれれば、打てば響くみたいにすぐに伝わってくるみたいな。そんな世界のシンクロニシティが崩れるのが、2001年の911テロから。テロ以降、まずアメリカのカウンターカルチャーの勢いが鈍くなるんです。

保守的になっていくからですよね?

たとえば、マイケル・ムーアの映画『華氏911』で描かれているような、911を契機に90年代は大人しくしていた保守派が急に発言権を増していくような状況ですね。そして、カルチャーが生まれる雰囲気が潰されてしまうんですよ。それに対して、日本はカルチャーに関しては911の影響をあまり受けなかったので、ゼロ年代も「おら、いくぞ!」みたいな感じで、『バースト』から『タトゥー・バースト』や『バースト・ハイ』が派生して、ゼロ年代も盛り上がっていました。タトゥーでいえば、世界中のトップアーティストが次々に来日して、日本に来るのがカッコイイ時代だったんです。音楽の方でもそうでしょう。そういう流れは、多少失速しつつも、2011年の震災&原発事故まで続いていたと思いますよ。

アメリカが保守的になり、その後日本に注目が集まったのがゼロ年代なんですね。

さらにその時期にインターネットが世界的に普及するようになって、カウンターとメジャー、アンダーグラウンドとオーバーグラウンドの区別が曖昧になっていくんです。そんななかでカウンター精神を貫いているものを探していくと、ロシアや東欧が面白くみえてくるんですよね。特にアメリカがけん引したグローバリズムみたいなものに対して、結局、日本もどっぷりと浸っちゃってるから。カウンターという視点で、現代的だけども、アメリカ的なものを排除しているものを探すと、ロシアに行き着くんですよ。いわゆるアメリカ的なグローバリズム、あるいはネットによって平均化された世界に対して、もうひとつの選択としてのカウンター性を備えているのが、ロシアなんです。

〈サンクトペテルブルク・タトゥー・コンペンション〉でボディペインティングするロシア人女性

現代的で、なおかつグローバリズムのカウンターとしてのロシアへの興味ということですね。

ロシアは流石、第二次大戦後の冷戦時代にアメリカと世界を二分していただけはあるなと思います。ロシアに住みたいとか、ロシア人になりたいとかじゃないんです。そうではなくて、僕らがアメリカ的なグローバリズムにどっぷりと浸ってしまってるから、モダンで現代的な社会だけど、もうひとつの選択肢があったとしたら、こうなっていたかもしれない〈もうひとつの未来〉というべき現実がロシアにはあるんですよ。アメリカ的な呪縛から解き放たれた〈カウンター〉というか(笑)。

ロシアでの取材をまとめたのが、『クレイジートリップ』の1章です。つまり、ケロッピーさんは、時代時代によって、カウンター精神が根底にあるカルチャーを、追い求め続けていて、現在面白いもののひとつとしてロシアが持つ〈カウンター〉を紹介しているんですね。

もちろん、アメリカが全部ダメっていってるわけじゃないですよ。ヨーロッパやカナダにもアメリカ文化に対するカウンターという部分はありますから。でも、911以降、アメリカがますます躍起になってけん引したグローバリズムは、どこか抑圧的であったり、支配的かつ監視的で、僕らの個人の自由や選択のチャンスを巧みな情報操作で奪っているような気がしてならないんです。そういう意味では、インターネットも最初はマスメディアに対するカウンターとしてとんでもない破壊力を持っていました。たとえば、90年代半ばにインターネットが登場してきたとき、カナダのトロントに本拠地をおく身体改造ホームページBMEが世界的な身体改造ブームを仕掛けました。また、ヨーロッパでいえば、アムステルダムはカウンターカルチャーにおいてずっと重要な存在でした。

アムステルダムの老舗コーヒーショップ〈グリーンハウス〉が営む大麻栽培工場 Photo By Mike J Hurt

『クレイジートリップ』の2章はハイトリップ、つまり、ドラッグなどで精神的なトリップをするハイの章で、カンナビス・カップ、グリーンハウスを始め、アムステルダムが登場しますね。

1976年、オランダは世界に先駆けてマリファナを解禁した事実がやはり大きいですかね。他の地域でもそれらしきところで売ってるかもしれないけど、いち早く近代国家としてマリファナ解禁を達成したのは、オランダという国、その首都であるアムステルダムという都市がカウンター性を象徴する存在となったわけですから。この本に載っているコーヒーショップやカンナビスカップのレポートは年代的にはゼロ年代に取材したものですけど、今から考えると世界中がマリファナ合法化に向かっていくきっかけとなった現場であったと思うんですよね。いまの日本はすごく逆行しているので、実感がわかないという読者も多いかもしれませんけど。

同じくハイトリップで紹介されているデンマーク独立自治村〈クリスチャニア〉も面白いですね。福祉国家で市民の生活満足度も高いと伝えられるような国において不思議です。

あそこは、もともとデンマーク軍の基地で、ナチス時代にドイツ軍に占拠されていたんです。第二次世界大戦でドイツが負けたとき、デンマーク市民がその基地にいたドイツ人と占拠に協力したデンマーク人、何千人かを虐殺してしまいました。そのことでデンマークはドイツに賠償金を要求しなかったといいます。そういう暗い過去があった場所がクリスチャニアなんです。だから、コペンハーゲン空港からも近く、かなりの面積があるにもかかわらず、デンマーク政府はこの土地を放置していたんです。そこに60年代以降のカウンターカルチャーの時代に、スクワッターの人たちが住みつくわけです。ただ、そういう過去があるから、政府も彼らを追い出せなくて、クリスチャニアが生まれたわけです。

デンマーク人だけじゃなく、様々な国から来たヒッピーが住んでいるのですか?

基本的にはデンマーク人がほとんどでしょう。ローカルな穴場ですから。アムステルダムがマリファナ解禁で世界的な観光都市として栄えているとするなら、知る人ぞ知るみたいな。マリファナ専門雑誌『ハイタイムズ』でさえ、1回も特集してないくらいですから。暗い過去を持つ土地だったから、ずっとほっておかれたのにゼロ年代に入ると、EUの統合に伴って政府が介入してくるようになっていくんです。ここの記事もギリギリ良い時代のレポートなんですよ。

アルコー延命財団にて人体冷凍保存を実践する現場。写真提供 Alcor Life Extension Foundation

ハイトリップでは、人体の冷凍保存を行うアルコー延命財団についての記事が掲載されていますね。

アルコーの取材は、この本に収録されているレポートのなかでは一番古く、97年のものです。人体の冷凍保存も実はカウンターカルチャーの申し子なんですよね。つまり、アポロが月を目指していた60年代って、21世紀になれば、人類はもっと宇宙に進出しているだろうと考えられていたんですよ。そして、宇宙物理学者のジェラルド・オニール(Gerard O’Neill)が民間スペースコロニー計画をぶち上げて、宇宙にユートピアを作ろうみたいなことをいって、ヒッピー世代のお金持ちに出資させていたんです。でも、民間で宇宙開発事業をやったとしても、いつになったら宇宙に行けるのかわからないってなって、宇宙に行ける時代が来るまで冷凍保存しようとスライドさせたんです(笑)。

これもヒッピーに関連した60年、70年代のカウンターカルチャーがルーツなのですね。

そうなんです。それで、民間の出資で人間を冷凍保存する技術を開発し始めます。実際、いまも冷凍した人間を蘇生する技術は開発されてないんですけど、冷凍する技術は完成されているといわれています。宇宙旅行のために人体の冷凍保存をするって、SF映画とかでよくありますよね。まあ、それを本当にやろうとしていると。さらにアルコー延命財団が面白い理由に、インディペンデントなサイエンスの実例であるという事実なんです。実際、アルコーが開発した冷凍技術は、精子バンクなどには応用されていて、人間の人体は無理でも、精子や卵子なら、冷凍保存が可能になっているという話なんです。あと、分子レベルの微細ロボットで人体細胞の修復などを行うナノテクノロジーというアイデアも人体の冷凍保存技術の開発から生まれています。