文:磯部涼(音楽ライター)

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HISTORY OF DJ : HIP HOP ①はコチラから

クール・ハークがブレイクビートの発見とメリーゴーランドの開発を通してヒップホップ・DJの基礎を形成していた頃、数年後にはそれをさらに洗練させ、そして、新たなポップ・ミュージックと共に、新たなインプロヴァイズド・ミュージックを生み出すことになる少年はブロンクスのサミュエル・ゴンパース高校で電子工学を学んでいた。彼――ジョセフ・サドラーは、58年にカリブ諸島のひとつであるバルバドスの首都=ブリッジタウンで生まれ、幼年期にニューヨークへと移り住む。当時、サドラー一家がアパートを見つけたブロンクスでは荒廃が始まっており、至るところに廃棄物が転がっていたが、そこは、機械いじりが大好きだったジョセフにとっては宝の山で、彼はラジオやスピーカーを拾ってきては自室で解体し、修理を試みていたという。

また、父がレコード・コレクターだったジョセフは、オーディオだけでなく音楽自体にも興味を持つようになり、ブロック・パーティに足を運び始める。そして、その頃、ブロンクスを賑わせていたDJの中でも彼が特に気に入ったのが39年生まれの大御所=ピート・DJ・ジョーンズと55年生まれの新進気鋭=クール・ハークで、しかし、ジョセフは2人に対して何処か不満も抱いていた。例えば、彼は他のブロンクスのキッズと同様にメリーゴーランドの新しさと熱さに魅了されたが、技術者志望の少年にとってハークのDJは少々、雑に感じられたのだ。初期のハークはプレキューイングを行わず、ブレイクの頭だと思われる大体のところに針を落として2枚使いを行っていた。あるいは、ピッチ・コントロールに無関心で曲毎のBPMがバラバラだった。一方、ピートはテクニシャンで、まるでリエディット・ヴァージョンをかけているかのようなスムースな2枚使いや、安定したミックスが持ち味だったものの、彼がかけるのはオーソドックスなファンクやディスコであり、そのセンスは好奇心旺盛な少年には些か古臭く感じられた。そこで、ジョセフはピートの下でDJを学びながら、家に帰ると自室にこもってピートの技術とハークのセンスを融合させるべく研究を重ねるようになる。

75年の夏、ジョセフは遂に自身のルーティン〝クイック・ミックス・セオリー〟を完成させる。それは、名前の通り素早い2枚使いと、目紛しいほどの展開が特徴だった。彼はターンテーブルを解体し、ミキサーを改造し、DJという行為を徹底的に追求することで、ハークのメリーゴーランドをヴァージョン・アップさせたのだ。ちなみに、現在でも使われている、レコードにマーキングをしてブレイクの頭出しがやりやすいようにする手法はジョセフが考え出したものだ。そして、彼は、カンフー映画に登場するグランドマスターとコミック・ブック・ヒーローのフラッシュ・ゴードンを合わせ〝グランドマスター・フラッシュ〟と名乗り、満を持してパーティを開催する。しかし、意気揚々と披露されたクイック・ミックス・セオリーをオーディエンスは棒立ちのまま見つめるばかりだった。ハークのワイルドなメリーゴーランドに慣れた人々にとって、フラッシュの斬新なカット・アップはダンス・ミュージックというよりも妙なアヴァンギャルド・ミュージックのように思えたのだ。彼は流石にショックを受けるが、そこで諦めた訳ではない。気を取り直して取り掛かったのが、クイック・ミックス・セオリーの魅力を如何にオーディエンスに伝えるかという翻訳作業だ。

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Grandmaster Flash

1年後、ブロンクスにおいてフラッシュの人気はハークを凌駕していた。やがて、アップタウンからダウンタウンへと進出し、パンク・バンド=ブロンディのシングル「ラプチャー」で「フラッシュは素早くて、フラッシュはクール」と讃えられた。そのように彼を有名にしたクイック・ミックス・セオリーの音楽性を手短に知りたければ、81年発表の、3台のターンテーブルと2台のミキサーを使って発売元<シュガー・ヒル>の楽曲やブレイクビート・クラシックをライヴでカット・アップしていくシングル「ジ・アドヴェンチャーズ・オブ・グランドマスター・フラッシュ・オン・ザ・ホイール・オブ・スティール」を再生してみればいいが、現在のリスナーは戸惑うどころか、ひっとしたら単なる耳馴染みのいい音楽だと思うかもしれない。しかし、それは、フラッシュの試みが大衆化し、今やポップ・ミュージックに吸収された結果なのだ。例えば、「ジ・アドヴェンチャーズ~」ではフラッシュが従えていたザ・フューリアス・ファイヴのレコードも使われているが、彼らこそは現在のラップの礎となったグループだった。

Grandmaster Flash – The Adventures of Grandmaster Flash on the Wheels of Steel

フラッシュはクイック・ミックス・セオリーをオーディエンスに受け入れてもらうために、まずはスポークスマンとしてラッパーを起用することを考えた。当初はシンプルにスリー・MCズと名乗っていた、カウボーイ、メリー・メル、キッド・クレオールの3人は、カット・ラ・ロックのように「To the beat y’all」といった短いフレーズを繰り返すだけではない、言語表現の可能性を模索していく。例えば、今や定番になっている「Say ho!」や「Throw your hands in the air and wave’em like you just don’t care」といったコール・アンド・レスポンスはカウボーイが有名にしたものだし、それどころか、〝ヒップホップ〟なる名称自体、彼が始めたとされる「To the hip, the hop, the hibby-hibby, dibby-dibby, hip-hip-hop, and you don’t stop」というスキャットが由来だとする説もある。やがて、スリー・MCズにスコーピオとラヒームが加わってザ・フューリアス・ファイヴとなり、彼らは掛け合いや、替え歌のようなテクニックを磨き、ラップという表現を豊かなのものにしていく。そして、彼らに触発され、ブロンクスではマイティ・フォース――後のコールド・クラッシュ・ブラザーズ――やファンキー・フォー・プラス・ワン・モア、Lブラザーズ等、次々とラップ・グループが誕生する。ちなみに、当時のザ・フューリアス・ファイヴのステージの様子を掴みたいと思ったら、ブロンクス・リヴァー・コミュニティ・センターでのパフォーマンスを切り取った「フラッシュ・イット・トゥ・ザ・ビート」が最適だろう。

Grandmaster Flash & The Furious Five – Flash It To The Beat (LIVE)

そして、ラップの歴史を変えたのが、82年発表のシングル「ザ・メッセージ」だった。ただし、同曲はグランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイヴ名義だが、メリー・メルしか参加していない。<シュガー・ヒル>のハウス・バンドのパーカッショニストだったデューク・ブーティが制作し持ち掛けた同曲は、ブロンクスの荒廃を歌ったもので、当時、ヒップホップと言えばむしろ荒廃を忘れるためのパーティ・ミュージックだったことから、フラッシュたちは拒否反応を示したのだ。それでも、オーナーのシルヴィア・ロビンソンの高圧的なプレッシャーもあって、メンバーの中でも最も目立ちたがり屋だったメリー・メルだけはレコーディングを了承する。結果、「ザ・メッセージ」はゴールド・ディスクを獲得するが、フラッシュが関わっていない、シリアスな同曲のヒットは、ヒップホップの主役がDJからラッパーに変わりつつあることと、同文化の幼年期が終わりつつあることを象徴していた。実際、その後、フラッシュとメリー・メルはギャランティを巡って仲違いし、ラップはゲットーの荒廃を歌うものになっていく。また、2007年、グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイヴはラップ・グループで始めてロックンロール・ホール・オブ・フェイムを受賞するが、カウボーイがその報を知ることはなかった。彼は89年にコカインのオーヴァードーズで死去していたのだ。

Grandmaster Flash & The Furious Five – The Message

グループの未来を見たところで、レコードをバック・スピンさせるように話を「ジ・アドヴェンチャーズ~」に戻そう。ラップの他に、同曲の随所で聴くことが出来るスクラッチも一般的になって久しい。〝ヒップホップ・DJ〟と聞くとまずはあのレコードをこする仕草とリズミックなノイズを思い浮かべるひとも多いのではないだろうか。ただし、正確にはスクラッチを紹介したのがフラッシュで、発明したのは彼のクルーのひとりであるミーン・ジーンの弟=グランド・ウィザード・セオドアだったというのが定説だ。フラッシュは難解だと思われていた自分のショーをより愉快なものにするため、二枚使いの途中でミキサーに背を向けてクロスフェーダーを切ったり、足でレコードを止めたりするいわゆるボディ・トリックを取り入れた他、当時、13歳だったセオドアのDJ・パートを設けたのだが、まだ幼さの残る少年が牛乳箱に乗りながら披露する見たこともないテクニックにオーディエンスは釘付けになった。ちなみに、セオドアが家でDJの練習をしている際、うるさいと怒った母親にブースから引き剥がされそうになり、それでも、ターンテーブルの上のラルフ・マクドナルド「ジャム・オン・ザ・グルーヴ」から手を離さなったがために偶然鳴ったノイズから、彼はスクラッチを思いついたというのは、その数年後には失われてしまうオールドスクールのイノセンスを象徴するエピソードだ。

Grandmaster FlashのDJ(映画『Wildstyle』より)

やがて、グラミー賞史上最高視聴率を記録した84年2月放送、第26回授賞式におけるハービー・ハンコック「ロックイット」のライヴで、やはりブロンクスのDJであるグランド・ミキサー・DSTが披露したスクラッチによって、このテクニックは広く知られるようになる。例えば、DJの世界大会=<DMC>でミックス・マスター・マイクと共に92年より3年連続で優勝を果たしたQ・バートも、14歳の時にテレビで件のパフォーマンスを観て衝撃を受けたと語る。彼はヒップホップ・DJを言わばラッパーの付人からターンテーブリズムという独立した芸術へと回帰させ、スクラッチをさながらビバップからフリー・ジャズへと発展させた立役者のひとりだが、そのーーそれこそフラッシュがオーディエンスを戸惑わせたのと同じくアヴァンギャルドにさえ聴こえる高度なテクニックがクイック・ミックス・セオリーと繋がっていることは、ブレイクビート・クラシックを延々と2枚使いしていく94年のミックステープ『デモリション・パンプキン・スクゥィーズ・ミュージック』を聴けば明らかだろう。歴史はレコードのようにスクラッチされ、ミックスされ、そして、周り続けているのだ。

DJ Q-Bert – Pumpkin Squeeze Music

主な参考資料:
■ビル・ブルースター/フランク・ブロートン=著、島田陽子=訳『そして、みんなクレイジーになっていく』(プロデュース・センター出版局、03年)
■ジェフ・チャン=著、押野素子=訳『ヒップホップ・ジェネレーション~「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語』(リットーミュージック、07年)
■『Wax Poetics Japan No.31』掲載、マーク・マッコード=著、早川将雄=訳「ONCE UPON A TIME IN THE BOOGIE DOWN BRONX/GRANDMASTER FLASH AND THE FURISOUS FIVE~殿堂に至る道のり」(サンクチュアリ出版、13年)