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Photo by 池田宏

リアル・日本で一番悪い奴ら。北海道警察銃器対策課と函館税関は「泳がせ捜査」と称し、覚醒剤130キロ、大麻2トンを「密輸」。主導したのは、100丁以上の拳銃を押収し、「銃対のエース」と讃えられた稲葉圭昭警部だった。覚醒剤使用で逮捕後、8年の刑期を終えてシャバに出た稲葉は、自らの罪と組織ぐるみで行なわれた違法捜査の数々を告白、事件の風化に抗っている。

稲葉圭昭は1953年10月、北海道沙流郡門別町(現日高町)に生まれる。営林署に勤めていた父親は転勤が多く、稲葉家はその後、瀬棚町(現せたな町)、室蘭市、厚沢部町など、道内を点々とする。稲葉は父親に3歳から柔道を仕込まれ、成長とともに腕を上げ、そのことが警察への道を切り拓いていく。

──柔道に打ち込んでいた少年時代の話からお聞きしたいのですが。

倶知安中学に2年生で転校して柔道部に入りました。倶知安は羊蹄山の麓にある小さな町です。2年の3学期の終わりに札幌へ昇段試験を受けに行き、5人抜きをやって初段を取りました。それを見ていた道警の師範が、「俺も倶知安出身だ。お前、高校決めたのか?」と聞くんです。決めてないと答えると「じゃ、北海行け」。すぐに北海高校の先生に会わせてもらって決まっちゃった。

──北海高校は柔道の名門校ですね。そこで稲葉さんは番長だったとか。

みんなが言ってただけです。

──高校は札幌市内ですから盛り場を遊び歩いたのでは?

1年から3年のインターハイが終わるまでは、朝昼晩ずっと稽古で遊ぶ暇なんてないんです。当時は先生がやってる道場の寮に寝泊まりしてました。朝4時半からバスの時間の直前まで稽古して、朝飯をかっこんでバス停に走る。1時間近く車中で揺られ、学校に着くと授業中ぐっすり寝て、3時に授業が終わると道場に直行、すぐに稽古です。6時に終わってバスで帰って夕飯食ったら9時過ぎまで稽古。毎日、気持ち悪くなるほど柔道に打ち込みました。ほとんど休みはなく、たまに先生の許しが出ると日曜日に映画を観に行ったぐらいです。

──1953年生まれの稲葉さんの高校時代は69年から71年ですね。柔道から解放された日曜日にどんな映画を観ましたか?

高倉健や菅原文太の任侠映画です。あのころは東映の映画館で3本立てをやってました。でも、3本いっぺんに観ちゃうとグチャグチャになってわけわかんなくなるんだよね。洋画は観た記憶がないです。

──補導歴があるそうですね。

インターハイが終わって遊びを覚えたてのころでした。喧嘩や恐喝、万引きなんかが大好きでね、いつも友達とスリルを味わってました。いまは男女共学の進学校で簡単には入れないそうですが、当時はメチャクチャな男子校でした。街を流しては喧嘩ばかり。補導されたときは札幌駅で、なんで喧嘩になったのかは忘れたけど相手の高校生を脅かして殴って、「お前ら、ナメんなよ」って言って帰ろうとしたら大人に声をかけられた。「ちょっと待ちなさい」と。悪いことにそれが私服の鉄道公安官で補導されちゃった。後日、札幌中央署に呼び出されて取り調べです。

──そのころ、将来どんな仕事に就きたいと思ってましたか?

警察官にはなりたくなかった。補導されてるし、ぜったい嫌でした。教員免許を取って柔道の指導者になろうかと、うっすら考えていたぐらい。柔道の特待生で東洋大学に入って教職課程は取りました。でも、教育実習の費用が3000円かかるのがわかって、カネないし、面倒くさくなってやめちゃった。

──しがらみもあって柔道の特別採用で道警に入ります。なりたくなかった警察官になってみていかがでしたか?

1976年4月に入り、10月にすすきの交番に配置されてすぐのころ、先輩と警邏(けいら)に出ると、すすきの交差点の真ん中に穴が開いてたんです。北海道は雪の影響で、よく道路が陥没します。「稲葉、参報出しとけ」と先輩に言われました。参考報告というA4サイズの用紙に状況説明と補修工事を依頼する文を書いて交通課に提出し、翌日に同じ場所を通ったらもう直ってた。警察ってスッゲエなぁ〜と感動しました。当時は、22歳の兄ちゃんでしたから無理ないですよね。