いきなり編集長が、「〈焼魚〉って苗字だったら、なんて名前がいいと思いますか?」と訊いてきました。「めばる…かな。〈焼魚めばる〉です。女の子です」と答えたら、「いいですね。私だったら、なめろう、です。〈焼魚なめろう〉です。こっちは男の子です」と返してくれました。最高の名前だと思いましたが、なめろうは焼魚じゃないし、それになんでいきなりそんな質問するんだろうと不思議でした。結構長い付き合いですが、まだまだ知らないもんですね。

日々の生活の中で、私たちはたくさんの人たちとすれ違います。でもそんなすれ違った人たちの人生や生活を知る術なんて到底ありません。でも私も、あなたも、すれ違った人たちも、毎日を毎日過ごしています。これまでの毎日、そしてこれからの毎日。なにがあったのかな。なにが起るのかな。なにをしようとしているのかな。…気になりません?そんなすれ違った人たちにお話を聞いて参ります。

塚本晋也(つかもと しんや)さん(57歳): 映画監督

このたび〈VICE PLUS〉にて、塚本監督の作品を順次配信させていただくことになりました。それを記念してぜひお話も色々とうかがわせてください。

はい。よろしくお願いします。

で、早速ですいませんが、東京ガスのCM、最高ですね!

はい。あれはいい企画でしたね。「よくぞ呼んでくださいました! 」という感じですよ。いわれたことをやっただけなんですけど。「アドリブとかもやった方がいいかな?」と思いましたが、短い中で多くのことを端的に表していかなければならなかったので余計なことはしませんでした。必要なことだけをして、ワンテイクでどんどん撮りました。

唐揚げの「君! 6個目だぞ!」ってところもですか?

あれは2回くらいでしたけど、ハレルヤの歌は1回です。

はい(笑)。監督は、お子さんはいらっしゃるんですか?

うちは中学校3年になったんです。

女の子ですか?

男です。女の子の親の気持ちはちょっとわからないんですけど、あのCMをやってるうちにだんだんわかってきましたね。女の子だと心配しすぎて辛いですね。男だったらいいですけど。

じゃあ息子さんには心配していないと。

まあ、普通の心配くらいですね。3年生になっちゃったから受験だしなあ、みたいな。女の子だったら心配しすぎて、居ても立っても居られないんじゃないですかね(笑)。

でも中3だったら、息子さんはやんちゃな時期じゃないんですか?

ある意味やんちゃですけど、外で暴れているという感じではありませんね。絵を描いたりとか、どちらかというとオタク系なんですよね。外で活発に活動するというよりは、物をつくったり、描いたりする方が好きみたいですね。

監督の小さい頃はどうでしたか?

あんまりやんちゃという感じではなかったですね。僕も息子と同じタイプでした。元気に遊んでいた記憶もあるので一概にはいえないですけど、基本的には内向的、恥ずかしがり屋ですよね。

ご出身はどちらなんですか?

ずっと東京です。高校生くらいのときまで原宿でした。

原宿ですか! スゲエ!!

いえいえ、表参道あたりがお洒落なだけで、ちょっと中に入ると普通の住宅街なんですよ。生まれて2歳くらいまでは下北沢にいたっていうんですけど、記憶は全然ありません。そこから高校生までは、渋谷と原宿を結ぶ動線が自分の原初的な風景です。

もちろん小学校も原宿の近くにあるんですよね?

はい。渋谷小学校です。

渋谷小学校なんてあったんですか? ど真ん中すぎて、まったくイメージが沸きません。

宮益坂上、こどもの城近くにあったんですね。今はなくなっちゃいましたが。

小学校のときは、どんなことをして遊んでいましたか?

そういうわけで、まわりにコンクリートしかないから、大自然にいそしんで…ということはありませんでしたが、ただ子供ですから、野球をやったり、ドッジボールをやったり、缶蹴りをやったりとか普通に元気にはしてましたけど。絵を描くのが好きだったので、ノートに漫画はよく描いていました。あと、江戸川乱歩の少年探偵シリーズにすごく没頭していたので、少年探偵ごっことかをしていましたね。探偵手帳を作って。あの頃は空き家があったので、勝手に中に入ったり、あと戦争の名残で防空壕がひとつ残っていたので、そことかも探検しましたね。

やはり、東京のど真ん中はクラスも少ないんですか?

ものすごく少なかったですね。20数人のクラスが2クラスしかなかったです。

じゃあ6年間、ずっと知ってる顔で?

はい。アットホームな感じでした。

初恋とか覚えてらっしゃいます?

覚えてますね(笑)。覚えてますけど、ちょっと(笑)。恥ずかしいですね(笑)。

(笑)。何年生のときでしょうか?

5、6年生のときだと思うんですけど。

交換日記とかしたんですか?

そんな積極的なことは(笑)。まず話をしませんからね。

ええ? おしゃべりしないんですか?

どちらかというと自分たちが小学生のときは、男子と女子できっちり分かれていたのです。男子は男子、女子は女子で遊んで。男子がすることは女子は嫌いだし、女子がすることは男子は嫌いだし(笑)。敵対まではしないんですけど、そういう関係でしたから。今の子とは違いますよ。

じゃあ眺めるだけたったんですね。外で野球をやって、探偵ごっこをやって。お家ではテレビですか?

テレビはむっちゃ見てましたね。テレビがぐわっと来た時代です。白黒からカラーになったときですからね。本当に昔を生きてたんだなと実感しますね。『巨人の星』はカラー放送だったんですけど、うちは最初白黒のテレビで見ていたんです。

カラーテレビになったときのことは覚えてますか?

もちろんです。その日はすごいスペシャルデーでした。手を洗って、おしっこも充分に振り絞って(笑)。テレビの前で、「今日は特別!」って感じで、体のコンディションを最高にして、お水を飲んで喉を潤し、すごくいいコンディションで臨みましたね(笑)。そして初めてカラーの『巨人の星』を観ました。

その頃の『巨人の星』ってどのくらいの時期だったか覚えていますか? 大リーグボールでいうと1号あたりですか?

大リーグボールでは覚えてないですね(笑)。でも花形が大リーグボール1号を打つところと、『あしたのジョー』で、力石とジョーが闘うところはビッグイベントでしたね。作画監督が両方とも同じ人なんですよ。

そうなんですか!

作画監督が一本のアニメに対して、何人かいるみたいなんですけど、自分が没頭したふたつのシーンの作画監督が同じいうことは後でわかったんです。『あしたのジョーをつくった男たち』という番組で、僕がナビゲーターみたいなのをやらせてもらったんですけど、そのとき初めてお会いして、目がハートになりまして。ジョーの絵を描いてくれました。でも作画監督の方っていろんな絵を描かないといけないので、いただいた絵も少し他のアニメの主人公に似ていました(笑)。今ももちろん大事に飾らせてもらっています。

力石との試合というのは、鑑別所の中の試合ですか? ちゃんとした試合の方ですか?

ちゃんとしたプロの試合の方ですね。格好いいんです。あとその前に、ジョーが少年院に入れられちゃう前に丹下段平にめちゃくちゃにぶん殴られるところがあるんですけど、ここもすごい描写なんですよね。

私がすごく覚えているのは、力石が豚と豚の合間をぬうところです。

あそこは違う作画監督なんですけど、すごいワザがあるということがあとでわかったんです。流してみると豚を避けているように見えるんですけど、コマで見ると、かなり少ないコマでああいう風に見える効果を狙ってるんです。コマで見ると別にくぐり抜けてねえぞって感じなんですよ。

では、もうひとつの花形のシーンがお好きな理由も教えてください。

パットに当たってくる恐ろしい力を持った玉を打ち返すんですが、そのデフォルメした線のダイナミズムがものすごいんです。あの絵は本当にビックリでした。

やっぱりその頃は巨人ファンだったんですか?

うーん…そういう訳でもないですけどねえ。父親はアンチ巨人で、巨人の試合ではいつも相手を応援してました。おへそ曲がりの父親なんです。無口でおへそ曲がりですね。子供の頃は、案の定野球をやってましたけど、全然上手くなかったですね、日曜日に朝の4時に起きて、練習に行ったり。〈神2パイレーツ〉という名前なんですけど。神宮前2丁目のパイレーツです。

監督は補欠だったんですか?

補欠中の補欠ですね。補欠にも入ってないくらい。相手にされてないような。

でも野球はお好きだった?

好きというか、当時の子供は大概やってたんですね。

野球以外のスポーツはやってなかったんですか?

個人競技の方が得意でしたね。かけっこがめちゃくちゃ速かったんですよ。あとは走り高跳びとか。

走り高跳びって、あまりやるシチュエーションがなさそうな(笑)。

小学校の授業であったんですよ。でも当時は安全マットなんかなくて、下は砂だけ。跳んだら跳んだ分だけ下まで落ちて、高く跳べば跳ぶほど、ダメージが大きいんです(笑)。頭から落ちるので口の中に砂が入ります(笑)。

ってことは、はさみ跳びとかじゃなくて、背面跳びですか!

背面まではいきませんけど、思い切りジャンプすると、体がまっすぐじゃなくなるので、ズシャッ!という感じで落ちたりなんかしてましたね。

ハードな競技ですね(笑)。

それで小学校のときに、渋谷区の競技大会に出るくらい個人競技は得意だったんですよ。国立競技場でやるんですよ。

すごいですね! 小学校の区大会が国立競技場だなんて!!

でもそこに行くと、もう小学生とは思えないような、自分の目線からするともう大人じゃないか? というような、筋肉隆々の大人みたいな小学生がいるわけですよ。自分がちっぽけに感じました。圧倒的な物を見せつけられて。やっぱり世の中は広いなあと思いましたね。こんな話をしたのは初めてですよ(笑)。

ありがとうございます! それでは中学生に参ります。何中学校ですか?

原宿中学校です。

これまたインパクトありますね(笑)。

でも本当に小さい、すごく小さい、校庭も猫の額くらいしかないような学校でした。

どの辺にあったんですか?

表参道をはさんでキディランド側に自分の家があったんですけど…

キディランドがすごい(笑)。

反対側の表参道を渡って、同潤会アパートの、そのちょっと行った先にありました。ほとんどの生徒は、松濤中学という、渋谷の繁華街の方に通っていて、ちょっと皆大人になった感じだったんですよ。原宿の猫の額の中学に行くというのは、本当に小学校の延長みたいな。アットホームすぎるような。まだ子供を延長するような印象がありましたね。

中学校のときも野球ですか? それとも高跳びの陸上部ですか?

中学は、運動と文化部と両方一個ずつ取らないといけなかったんです。運動はハンドボールですね。あんまり上手くなかったですけど。

いきなりハンドボールですか! 興味があったんですか?

どうしてやったのかわからないですね(笑)。それなら出来ると思ったんですかね。でもやっぱり個人競技の方が得意で、授業で走り高跳びでは高く飛んでいました。またしてもマットがない砂場に落ちるので、立ち上がると、小さい校庭を取り囲む校舎の窓から生徒たちが拍手してくれびっくりしたのを思い出します。青春ですね。そして口には砂が(笑)。

(笑)。じゃあ、文化部の方は?

確か美術部と気まぐれで写真部に入ったこともあります。皆は立派なカメラを持っているのに、僕はお父さんが貸してくれたカメラでした。父親はすごくカメラが好きで、立派なカメラを持ってるんですけど、僕には絶対に貸してくれません。これならいいって貸してくれたすごく小さなチンケなおもちゃのようなカメラを持って行ったので、すごく恥ずかしくて。恥ずかしい気持ちがいつもありましたね。小学校のときも中学校のときも。

ご自身に対してですか?

そうですね。今思えば勝手にコンプレックスを持っていただけかもしれないんですが。子供のときからこんなに腕の毛が生えてましたから(笑)。これもすごく恥ずかしくて。

とても立派ですよ!

足はツルツルだったのに、腕は最初からふさふさなんですよ。

剃ったりはしなかったんですか?

剃りませんよね(笑)。

私は初めて女の子とプールに行くとき、胸毛と腹毛が恥ずかしかったので剃って行きました。

ああ、確かに剃ればよかったのかなあ? それは思いつかなかったですね(笑)。

ハンドボールは、3年間きっちりやったんですか?

いえいえ。運動はやらなければいけないから選んだまでで。あとは何をやったけかな。学校のこととは別に映画を作りたい、ということに本気になったのが中学校2年生くらいからです。8ミリのカメラを父親が買ったんですね。僕のためではなくて、父親自身のために買ったものなのですが、それを横目に見ながら、「あれで映画をつくりたいなあ」とか、「アニメーション出来ないかなあ?」とか。

カメラを借りて撮り始めたんですか?

はい。あとは父親が商業デザイナーだったので、その影響も受けていて、実際に父親が描いている姿を見た訳ではないんですけど、本当に血ってあるのかも? といった感じで、絵を描くのも大好きでした。絵を描くことと、映画を見ることが主流になったんです。あとは演劇ですね。小学校4年のときに学校演劇をやったんですが、それまで本当に恥ずかしがり屋だったのが、ものすごく開眼したんですね。それで中学校でも演じることには積極的になりました。

それは学芸会みたいなやつですか?

そうですね。

何の役をやられたんですか?

屈折した少年の役です(笑)。主人公がいて、それに対して屈折した良からぬことをする役だったんですけれど、これがとてもうまくいったものですから、自分の映画でも自分の役は結局今も同じなんですよ(笑)。そのときの体験が未だに。

開眼されたといわれましたが、どんな感じだったんでしょう?

稽古をしてるときに空が真っ青に見えました。それまでは恥ずかしがり屋で、ハラハラしてた。とにかくドキドキしてたんですけど、青空が広がったんです。

腕の毛も気にならなくなっちゃうくらいですか?

毛はどうだったか忘れましたけど(笑)。

女子に対しても積極的になったりとかは?

女子に対しての積極性は相変わらずなかったですね(笑)。3年生になるとけっこうモテましたけど、自分の方からは・・・。

(笑)。ではテレビに出ている好きなアイドルとか、女優さんとかはいませんでしたか? 多感な時期ですよね?

高校生のときはいました。

どなたですか?

原田美枝子さんですね。

お綺麗な方ですよね!

『大地の子守歌』という映画の演技がものすご過ぎて。その世界を体現されていたんです。学校の帰り道にある映画館に『大地の子守歌』の写真が貼ってあったんですけど、「それ、終わったらください」って頼んだ覚えがあります。くれませんでしたけど(笑)。

お仕事を始めて、実際に原田美枝子さんとお会いになったりは?

37歳のときに『竹中直人の会』というお芝居で共演させてもらいました。確か兄弟の役だったと思います。嬉しいは嬉しかったんですけど、仕事となると別というか(笑)。そのときはファン意識はなかったですね。非常に緊張して、ただ一生懸命やってました(笑)。でも一回だけ心をファン意識にして、『大地の子守歌』のパンフレットと原作本を持って行き、「サインしてください」と頼みました。

ずっと持っていらしたんですね(笑)。

もちろんです。でも、「これが『大地の子守歌』の頃だったら、どんなになっちゃってたでしょう、私」なんて、口を滑らせたら、「ごめんなさいね、薹が立ってて」といわれました(笑)。「そういう意味じゃないんです!」っていいましたけど(笑)。口は災いの元だなと。ですから、いつも確認してから喋るようにしています。このままいって大丈夫かな? と(笑)。

(笑)。今日はこのままいってください。そして映画ですが、中学校のときはどんなものを撮っていたんですか?

怪獣映画です。円谷一さんの『特撮のタネ本』という本がありまして、それをバイブルに。

それを読めば、特撮映画がつくれたんですか?

はい。わりと素人が撮れるような方法が書いてありました。ボロボロになるまで図書館から借りてですね、それを参考にやろうとしたんですけど、怪獣のぬいぐるみだけは子供が手を出せないような材料だったので、お父さんのパジャマをお母さんからもらい、それに発泡スチロールを付けて怪獣にしようと思って、発泡スチロールをボンドで付けたんですよ。黄色の昔からあるボンドです。でもそうすると、ボンドが固まってカチカチになって、ズボンに貼るとキューっとなって足が入らないんですね(笑)。それで怪獣を諦めてですね、結局やったのは水木しげるさん原作の『原始さん』という、原始人があるとき突然町に現れて、都会を破壊しだすという漫画があったのでこれをやろうと。これだったら裸に布を巻いてればいいわけですよ。ビルだけはつくろうと思って、友達に原始さんをやってもらって。学芸会で開眼していたので、私自身も出演しました。

『原始さん』は公開したんですか?

はい。中学校3年生のときに、〈図書室300人ビッグイベント〉という、イベントをやろうと決めまして。300人というのは、全生徒数です。僕はずっと図書委員だったんですね。本が好きなものですから。それに昔の図書館って木の床でいいんですよ。そんな場所も好きだったので、図書委員長になって、その300人イベントを企画したわけです。でも、ただ8ミリを上映させてくれ、といっても上映させてくれないので、〈学年別!読まれている本ベスト10!!〉とかを模造紙に書いて、図書室らしいイベントにかこつけながら、自分の8ミリ映画を上映しようと作戦を立てたんです。

計画犯ですね(笑)。

更に、自分のお友達に放送委員長になってもらったり、朝の集会の集会委員長も自分の友達になってもらって、周りを固めていったんです。ビッグイベントですからね、盛り上げなくてはなりません。それで集会委員長の友達が全校生徒の前で大事な話をしたあとに、続けてビッグイベントの告知を無許可でやるわけです。すごくギャグを入れ込んで。

どんなギャグですか(笑)?

武田鉄矢のモノマネです。帰りの電信柱の横で練習してました(笑)。「働いて、働いて、働きぬいて」っていうフレーズです。「母に捧げるバラード」ですね。「働いて、働いて、働きぬいて、イベントを準備しました」って。これが大ウケしましてね。ある先生には怒られ、ある先生には褒められみたいな。それでビッグイベントをやったら、まんまとお客さんが300人集りました。

おめでとうございます! 『原始さん』の評価はいかがでしたか?

「これ映画?」っていう人もいれば、結構喜んでくれた人もいました。

ちなみに当時の中学生って、どんな映画を観ていたんでしょう?

みんながどんな映画を観ていたかはわかりませんが、テレビで観た『大脱走』には盛り上がりました。渋谷に洋画の2本立ての見せる映画館があったので、これを観に行くのが楽しみでしたね。

監督はどんな映画をご覧になっていたんですか?

チャップリンの映画とか、『バルジ大作戦』などなど。「男と女」とか「個人教授」とかも見ました。最初は、ワーゲンの車を擬人化したような映画をやっていたので、それを弟と観に行きたいと母親に頼んだんです。「ディズニーならいいわよ」ということで、お金をもらって行ったら、一週間で公開映画は変わるということをわかっていなくて、違う映画…『ソイレント・グリーン』になっていたんですね。電話ボックスから電話して「違う映画になっているんだけど、観てもいい?」って許可をもらって観ました。人間を緑色のチップにしていく話なんです。そこから映画の世界に入りましたね。大事な体験でした。

その頃から大きくなったら映画をつくりたい、お仕事にしたいなというのはあったんですか?

今も思い出せるんですけど、結構今と同じようなモチベーションで映画をつくりたいという気持ちがありました。小学校のときは漫画家になりたかったんですけど、中学校になったら映画をつくりたいと。ただそのとき観た映画で『男と女』を作ったクロード・ルルーシュの映画とかが、大きなハリウッドみたいな規模じゃなくて、個人的な規模で作っているというのを知ったんですね。そういう方法で出来ないかな? という考えは、そのときから持っていた記憶があります。個人の映画会社とか、特撮もあまり人には頼らないで、ミニチュアも自分でつくって壊したりするスタイルですね(笑)。でもまだ漠然としていましたが。