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HISTORY OF DJ : REGGAE ②

良く良く考えてみる。「DJとはなんぞや?」9月に東京で開催されるRed Bull Thre3style World DJ Championships 2015に向けて、DJの歴史を辿るシリーズ。レゲエ編第二回です。

HISTORY OF DJ : REGGAE ①はコチラから

はい!HISTORY OF DJ : レゲエ編第二回です。

シーンを驚愕させたロックステディでしたが、ほぼ二年間でお役目を果たしてサヨウナラ…となりました。しかしそれと入れ替わるように出て来たのが、お待たせ致しましたのレゲエでございます。「レゲエ」という言葉が最初に用いられたのは、1968年に発表されたメイタルズの「ドゥ・ザ・レゲエ」って曲なのですが、スペルも「REGGAY」だし、元々はコーラス・グループなので、これこそがレゲエのスタートというわけでもないようですが、確実に時代の幕は切って落とされたのであります。更に同時期に、リー・ペリー、ベルトーンズ、ラリー・マーシャル、エリック・モンティ・モリスなどが、ロックステディからレゲエへの移行を思わせる楽曲を次々と発表して行きます。

レゲエは、ロックステディ同様に、1拍目にアクセントがなく、3拍目にスネアドラムのリムショットとバスドラムによって強調するワンドロップと呼ばれるゆったりしたリズムを持っているのですが、ベースが担っていたメロディーはオルガンがその役目を果たすようになり、ベースは転調も少なく重低音を強調するリズムの根幹に。そして2拍目、4拍目のオフビートを強調することが多いカッティング・ギターが乗っかってレゲエが完成です。

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そしてレゲエを語る上で欠かせないのが歌詞の存在です。その背景には独立から6年が経とうとしているのに、まったく国家として機能していないジャマイカ社会がありました。不満がたまるジャマイカ市民たち。そこで蔓延してきたのが、アフリカ回帰を理念とするラスタファリ運動です。まず1966年にエチオピアの皇帝ハイレ・セラシエ1世がジャマイカを訪問します。カリブに住む黒人たちにとって、この皇帝及びエチオピアというのは特別な存在。エチオピアニズムという考え方(近代になっても植民地化されなかったエチオピアを黒人の魂の故郷とする)があり、更にこのハイレ・セラシエ1世は、聖書の神Jah(ヤハウェ/ジャー)の化身とされているからです。(バッド・ブレインズが「ジャージャー」言うてるヤツです)

さらに西インド諸島大学で教鞭を取っていたウォルター・ロドニーらによる活動も手伝って、ラスタファリ運動は一気に広がりを見せ、その波の主流はレゲエと融合。黒人としての誇り、意識、そして社会へのメッセージは、レゲエに乗って広がって行きました。ここが「ポップス」な存在だったスカやロックステディと大きく違うところ。(実際ロックステディが短命に終わった理由として、メッセージ性のある歌詞がうまく乗らなかったこともその一つとされているのです。)で、このレゲエの代表格こそがボブ・マーリー。彼のメッセージと音楽は世界へ羽ばたいて行きましたね。更にジミー・クリフの映画『ハーダー・ゼイ・カム』(1971年)もレゲエの国際化に大きく貢献しました。

Bob Marley – I shot the sheriff (Live)

さて、そんな背景がありながら、レゲエのDJシーンはどうなっていたのでしょうか。本格的に地殻変動があったのは、1969年のデビューしたU・ロイの存在からなのですが、それ以前にも前兆はありました。カウント・マチューキという人物をまずはチェックです。彼は50年代にトム・ザ・グレート・セバスチャン、サー・コクソン・ザ・ダウンビートなどのサウンド・システムでMCとして曲を紹介しながらレコードをかけていましたが、アメリカのラジオDJが使うスラングを真似し、これまでに無かったMCスタイルを始めました。これがライムの原型。更に自身でビートやリズムもつぶやき、ヒューマン・ビートボックスも完成させちゃったからスゴイ。これはベップと呼ばれ、当時のお客さんは、そのベップが生のマチューキの声だとは気づかなかったそうです。そんなこんなで、曲にヴォーカルを付けたり、合わせてラップしたりするディージェイ・トースティングのベースがここに誕生。

Count Machuki – Movements

そんなカウント・マチューキに大きく影響されたのがU・ロイ。60年代前半から、ドクター・ディッキーズ・ダイナマイトやサー・ジョージ・ジ・アトミック・サウンドなどのサウンド・システムで活動を開始し、68年には人気のサー・コクソン・ザ・ダウンビートでもプレイ。彼のトースティングはジャイヴトーク(スイング風の身振りを交えた早口のしゃべり)に影響を受けていて、そのパフォーマンスは本当に完璧だったとのこと。ある雨の日に機材が壊れ、音楽が流せなかったときは、自身の声のみでその場を大盛り上がりさせたなんて伝説も残っているほどです。そして69年にキース・ハドソンのプロデュースにより「ダイナミック・ファッション・ウェイ」でデビュー。これは記念すべき世界初のDJ及びディージェイのレコード。また初物がジャマイカから出てしまいました。更にデューク・リードが手掛け、トレジャー・アイルからリリースした「ウェイク・ザ・タウン」が大ヒット。その後もチャート1位を連発します。

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Daddy U Roy – Wake The Town

そして71年には、これまた世界初のDJ及びディージェイによるアルバム『ヴァージョン・ギャロア』をデューク・リード・プロデュースの元、ジャマイカではトレジャー・アイル、そして英国ではデュークがアイランド・レコードと契約し、ジャマイカ・ミュージックを紹介するために立ち上げたトロージャンから発表。その名は世界に轟き、あのホール&オーツもU・ロイをカバー。75年にはヴァージン・レコードからメジャー・デビューも果たしました。

U Roy – Your ace from space : Version Galore

彼が偉大だったのは、これまでは曲に対する補足的なトースティングしかしなかったディージェイの域を越えたこと。そしてその結果、ただのシンガーになるのではなく、独自のリズミカルなライムとジャイヴで、新たなレゲエ・ワールドを生み出したことでしょう。まさしくディージェイ・トースティングが完成したのです。その結果、I・ロイ、ニュー・ロイ、U・ロイ・ジュニア、マッド・ロイ、ユー・ブラック…なんて、ギャグみたいな多くのフォロワーが生まれました。さらに70年代中盤には、ビッグ・ユースやプリンス・ジャズボなど若手も台頭するのですが、U・ロイのその確固たる地位が揺らぐことはなく、現在も生ける伝説として君臨しています。2007年にはジャマイカ政府から名誉勲章もゲット。やっぱ、すげえ人ダナー。

さて、そんなU・ロイですが、彼の才能に目を光らせ、スカウトした人物の一人にとんでもない神様がおりました。そう、ダブの神様…キング・タビーでございます。ドクター・ディッキーズ・ダイナマイトやサー・ジョージ・ジ・アトミック・サウンド、サー・コクソン・ザ・ダウンビートなどのサウンド・システムを経て、彼が落ち着いたのはキング・タビーのホーム・タウン・ハイファイだったのですから…。

まずダブの音楽的特徴についてご説明しましょう。本質的にはベースの音をデカくした音。

  • まずは、目の前にヴォーカルが入った完成品を用意します。(ウマソー!)
  • そこからヴォーカルを抜き取りましょう。
  • 出来上がりのお好みに合わせて、ヴォーカルを切り刻みましょう。
  • ガラスが振動したり、飼っているセキセインコが暴れるくらい、ベースラインを増長させましょう。
  • 先に切って置いたヴォーカルをお好きなところに振りかけます。
  • ベースとドラムを強調させたまま、全体にエコーをまぶしたらジャンク・フードの完成!

※お好みによって、それぞれ具材の調整…足したり引いたり…をすると、更においしくなります。

…こんな感じですね。ちなみに「ダブ」って言葉は、コピーを作るって意味での「ダブル」から来ています。…で、お気づきになりません?これってリミックスの手法なんですね!この世界的発明もジャマイカから。本日二度目の初物なのでございます。そのキング・タビー(本名:オズボーン・ラドック)は、元々電気屋さん。ラジオやテレビなどの組み立て・修理をやっていたので、機械にはとにかく詳しかった。しょっちゅう自身の機材も改造したようです。1964年にサウンド・システム、ホーム・タウン・ハイファイをスタート。ジャマイカ初のエコーやリヴァーヴ付きサウンド・システムを完成させますが、当時はコクソン・ドットとデユーク・リードが天下の時代。キング・タビーのホーム・タウン・ハイファイがそれほど注目を集めることはありませんでした。

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1968年にキング・タビーは、デューク・リードの元で、原盤のカッティング技師として働き始めます。そこで彼はデューク・リードからあるヴァージョンの作業を依頼されるのですが、そこでヴォーカルを絞ったり、エフェクトをかけていくことで、おかしなヴァージョンが出来ることを発見。ハイ、ダブが生まれました。そしてそれをダブ・プレート盤にし、更に専属ディージェイであったU・ロイを起用してサウンド・システムで披露したところ大反響。一気にキング・タビーは時の人となるのです。

U ROY King Tubby’s skank + version

そしてキング・タビーの周りには、様々なプロデューサーからリミックスの依頼が集まります。オーガスタス・パブロ、ウィンストン・ライリー、バニー・リー、そしてリー・ペリー。特にリー・ペリーはダブにゾッコンLOVE。世界初アーティスト名義(ジ・アップセッターズ)のダブ・アルバム「ブラックボード・ジャングル・ダブ」は、マスターピース的作品として現在も輝き続けております。

Blackboard Jungle Dub – The Upsetters Lee”Scratch” Perry

絶好調キング・タビーは自身のスタジオである「キング・タビーズ」の経営もスタート。リー・ペリーやオーガスタス・パブロなどと共に数多くのダブの作品を制作しました。

Augustus Pablo – King Tubby Meets Rockers Uptown

しかし1989年2月6日、何者かによって射殺されます。48歳の短い生涯でした。それでもダブは世界中に広がり、そのとてつもない影響力はご存知の通り。パンクからヒップホップ、ハウス、テクノ…などなど、様々なジャンルにダブのエッセンスは溶け込んでいるのですから。

The Clash ~ One More Time / One More Dub

さて今回はここまで!次回はいよいよレゲエ編最終回。社会変動からジャマイカに現れたラスタファリアンじゃない新しいレゲエのスタイルから現在までの流れをご紹介します。まだまだ終わらないのジャー。