ゲール・ドゥエイニーは1978年に生まれ、1980年代に第二次スーダン内戦で戦った「スーダンのロストボーイズ」として知られる子供の一人だ。彼は読み書きを覚える前に戦闘を覚え、思春期を迎える前にAK-47のマシンガンの部品すべてを覚えてしまった。14歳のときにエチオピアに逃げ切り、最終的にアメリカに渡り、そこでバスケットボールに熱意を抱き始めた。これにより大学の奨学金を獲得するが、ケガによって一年間休学するうち、ゲールはデヴィッド・O ・ラッセル『ハッカビーズ』(I ♥ Huckabees)にたまたま出演することになる。そこで、マーク・ウォルバーグや監督と親しくなり、この映画によりゲールは、モデルとしてのキャリアをスタートした。2011年、ゲールが共同制作し、出演したドキュメンタリー『ゲール:別れ別れ』(Ger: To Be Separate) で、彼は約18年ぶりに帰郷し、 新独立国家南スーダンの選挙に参加し、母親と再会している。ゲールは、ディビジョンIIに所属する大学でバスケットボールの選手になれたことが、どれだけアメリカでの新生活に寄与したか、スーダンから逃亡してハリウッドのマーク・ウォルバーグと共に働くに至るまでの大転換、さらにはファッション業界では過去についてほとんど語らなかった理由、といったことを語ってくれた。
バスケットボールをファッション撮影に持ち込んだことは?(笑い)ファッション業界に入ったばかりの頃は、バスケットボールを持ってキャスティングに出向いていました。みんなは僕のことを、エキゾチックなアフリカ人としか見てくれませんでしたから、僕にバスケットが出来るなんて思ってもみなかったはずです。インディアナ州ではバスケットは宗教です! ファッションウィークに出演するためにミラノに向かっていたあるとき、僕とは二人のモデルとバスケットをする機会がありました。二人の頭を越えて僕がダンクシュートをし始めると、二人は僕が侮れない人間だと悟ったんです。周りのみなさんは、あなたが難民でロストボーイだったことを知っていたんですか。正直な話、同僚たちは僕の過去を知りませんでした。それについては口にしたことがありませんでした。そのことは隠していました。スーダンに住んでいた頃、鏡を見たことはありませんでした。鏡を持っていませんでしたから。見てくれを誉めてもらったこともありません。僕たちの文化に、見た目云々、という習慣がありませんでした。アメリカに来ると、周りが「すごくかっこいいな」と褒めてくれるので、僕はびっくりしたんです。美しさ、についての意味を知る必要がありました。僕にとっては、高校や大学にいる他のあらゆる学生と同じ扱いを受けること重要でした。俳優業やモデルとしても同様でした。実際、僕の出自に関わらず、みんながそうしてくれたのは、とても喜ばしいことでした。でも、気楽ではありませんでした。あるとき、僕のそれまでの人生に話が及ぶと、当然のごとく、「家族はどこにいるんだ」と聞かれました。18年間家族には会っていない、と応えたのですが、そこから過去を語らざるを得なくなりました。今の僕は、大学でバスケットをしていたころとは違う人間です。ファッション業界にいる頃とも違います。だから、2011年に故郷に戻り、僕と家族の違いを目の当たりにしたのが、とても面白かったんです。家族と離れ、長い間、違う経験を積み重ねましたから、ある意味で僕は違っているのです。僕が難民やスーダンのロストボーイとしての生活から逃れることができたのは、教育のおかげです。僕は自分のアイデンティティを探しています。でも向こうに戻ると、今でも僕は同じ人間であり、スーダンの人たちと同じやり方で付き合います。スーダン人たちは、僕が20年も離れていたなんて信じられず、僕は依然として昔のままなんです。あなたの創ったドキュメンタリーである『ゲール:別れ別れ(Ger: To Be Separate)』 について聞かせてください。