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ザイール情勢により致し方なく生まれたW杯屈指の珍プレイ

1974年6月22日、FIFAワールドカップの歴史のなかでも屈指の奇妙な出来事が、西ドイツ・ゲルゼンキルヘンにあるスタジアム「パルクシュタディオン」で起こった。前回優勝のブラジルと、初出場のザイールが対戦したグループBの最終戦での出来事である。

42年前の1974年6月22日、FIFAワールドカップ(以下W杯)第10回大会において、W杯史上屈指の珍事が西ドイツ・ゲルゼンキルヘンのスタジアム「パルクシュタディオン」で起きた。1970年のW杯優勝国ブラジルと、同杯初出場のザイールが対戦したグループBの最終戦での出来事だった。ブラジルの2次リーグ進出はほぼ確定していた。ザイールは、既にスコットランドとユーゴスラビア社会主義連邦共和国に連敗し、1次リーグでの敗退が決定していた。

試合の残りが10分を切ったころ、ブラジルがフリーキックを獲得し、ロベルト・リベリーノ(Roberto Rivelino)とジャイルジーニョ (Jairzinho)がキッカーの位置に立った。どちらが蹴るはずっだったのか今となっては知る由もないが、両選手が助走のために後退し、ひと呼吸おいて踏み出そうとした途端、ザイールのディフェンダー、ムウェプ・イルンガ(Mwepu Ilunga)が壁からいきなり駆け出し、ボールを大きく蹴りだしたのだ。

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この珍事、W杯開催前に放送される〈過去大会ハイライト集〉では、お馴染みシーンになっており、子供番組の元司会者たちが大笑いしながらナレーションをつけている。しかしイルンガのクリアは、BBC解説者のジョン・モットソン(John Motson)がいうところの「無知なアフリカ人による突拍子もない出来事」ではなかった。ブラジルに大敗すれば命が危ない、と怯えるザイール代表の時間稼ぎ戦術だったのだ。

ザイールはW杯に意気揚揚とやってきた。彼らは西ドイツ大会でたったひとつのアフリカ出場枠を賭け、厳しい予選を勝ち上がり、予選最終戦では、前評判の高かったモロッコを3ー0で下し、念願のW杯初出場を決めたのだ。ザイールは、同年のアフリカネーションズ・カップでも優勝しており、評論家のなかには「レパーズ(Leopards)」の躍進を予想する声もあった。

しかし、舞台裏の現実を知っていれば見方は変わっていただろう。旧ベルギー植民地のザイールは、1960年にコンゴ共和国として独立。1965年のクーデター後、モブツ・セセ・セコ(Mobutu Sese Seko)が大統領に就任し、以後30年以上にわたる独裁体制を築き、同国の惨憺たる情勢の原因となった。1971年、国名をザイールに改称。国民は西洋装を禁じられ、ヨーロッパ風姓名から伝統的なアフリカ名への改名も強いられた。そしてモブツ大統領はサッカーにも介入。ベルギーに移住した選手を呼び戻し、彼らの再出国を禁止。国技としてサッカーの発展に大金を投じた。

こうして強力なメンバーが集結した。ザイール史上最高のGK、カザディ・ムワンバ(Kazadi Mwamba)、司令塔のMF、リッキー・マヴバ(Ricky Mavuba)、そしてストライカーのムランバ・ンダイエ(Mulamba Ndaye)。ンダイエは、1974年のアフリカネーションズカップで9ゴールを挙げ、得点王に輝いた。この記録は今も破られていない。

W杯出場はプロジェクトの集大成だった。モブツ大統領は歓喜し、選手たちを自らの豪邸に招いて、王侯貴族のようにもてなした。後に不名誉を浴びるイルンガは当時を振り返り、大統領は選手ひとりひとりに家と緑のフォルクスワーゲンを買い与えた、と当時を振り返る。モブツ大統領は、W杯を観戦しなかったが、彼は西ドイツに大人数のザイール応援団を派遣した。そのなかには、閣僚や軍幹部だけでなく、多数の呪術師もいたそうだ。

モブツ大統領はヒョウの毛皮を好み、縁の太い眼鏡でも知られた.

関係者は試合の動向を心配していたが、選手たちにそんな素振りはなかった。レパーズ初戦の相手はスコットランド。相手のウィリー・オーモンド(Willie Ormond)監督は、「ザイールに勝てなかったら荷物をまとめて国に帰る」と宣言していた。

しかし、ケニー・ダルグリッシュ(Kenny Dalglish)、ビリー・ブレムナー(Billy Bremner)、デニス・ロー(Denis Law)などタレント揃いのスコットランドに対して、ザイールは驚くほど善戦する。2−0で敗れはしたものの、技術的なボールさばきと規律あるディフェンスにより、W杯初出場国として決して恥ずべき試合内容ではなかった。

しかし、残念ながらスコットランド戦がザイールのピークだった。スコットランドと同等の実力と評されたユーゴスラビアとの2戦目を前に、金銭問題が浮上したのだ。試合の給料が支払われず、選手たちは関係者に横取りされたのでは、と疑念を抱き始めていた。

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チームには反乱者も現れた。複数の選手がユーゴスラビア戦の出場を拒否したのだ。ある元選手の話では、主催者はW杯のイメージに傷がつくのを恐れ、チームにひとりあたり3000ドイツマルク(当時約35万円)を支払って出場するよう説得したという。

結局、試合で地に堕ちたのはザイールの名声だった。連日のいざこざに疲れ、モチベーションを失ったレパーズは、ユーゴスラビア相手にW杯史上最低レベルのパフォーマンスを晒した。開始20分で3点を献上し、奇しくもユーゴスラビア出身であるザイールのブラゴイェ・ヴィディニッチ(Blagoje Vidinic)監督は、GKのカザディに代えて身長163cmの控えGK、ディンビ・トゥビランドゥ(Dimbi Tubilandu)を投入した。しかし、それでチームのパフォーマンスが改善されるはずもなく、ザイールは9−0の大敗を喫した。

運命のユーゴスラビア戦、試合前の両キャプテン.

これで雲行きが怪しくなった。国辱を晒した代表チームにモブツ大統領は激怒。大統領護衛官を現地に派遣し、「ブラジルに4点以上取られたら帰国は許さない」とチームを脅迫した。

「だから自分は、ブラジルがフリーキックを蹴る前に大きくクリアしたのだ」とイルンガはいう。もう1点取られたら恐ろしい目に合うと考え、DFの彼は時間稼ぎをしたのだ。彼のような経験豊富な世界レベルの選手がフリーキックのルールを知らなかったとは考えにくい。わざとやったというイルンガの主張は、試合前に舞い込んだモブツの脅迫を踏まえれば、筋が通る。

ブラジルは79分にもゴールを決め、3−0としたが、4点目は入らなかった。そしてザイール代表は帰国を許された。しかし選手達は、国中からつまはじきにされた。

モブツ大統領はすぐにサッカーを見限り、予算を削減。その替わりに国費を投じてモハメド・アリ(Muhammad Ali)とジョージ・フォアマン(George Foreman)のボクシング試合を開催。この試合は、後に〈キンシャサの奇跡* 〉と称されるほどの名勝負となった。以来、ザイールは1度もW杯に出場していない。

1974年の代表チームはすぐに忘れ去られ、多くの選手たちがザイール国民の大勢と同じように貧困に苦しむようになった。1968年、1974年のネーションズカップ優勝経験者であるGKのカザディは1996年、無一文で他界した。マヴバは難民としてフランスで暮らし、1997年に他界。同年、モブツ大統領は、国の経済と社会が大混乱を極めているのを尻目にモロッコへ亡命。元独裁者もその年に他界したが、現在コンゴ民主共和国となった同国に彼がもたらした惨禍は、未だに尾を引いている。

1998年のアフリカネーションズカップの時期には、ンダイエの他界が報じられ、1分間の黙祷が捧げられた。しかし、訃報は虚報だった。1974年W杯の得点王は、祖国での度重なる迫害から逃れ、南アフリカで苦しい日々を送りながらも、しっかり生きていた。その後、ンダイエはコーチの職を得て、現在はケープタウン近郊で暮らしている。

元チームメイトたちの苦難を知れば、現在はタクシー運転手のエコファ・ムブング(Ekofa Mbungu)が、今の生活に満足している、と発言したのにも頷ける。W杯出場から30年以上が過ぎても、彼はモブツ大統領から下賜された〈緑のフォルクスワーゲン〉を運転していた。