スネ蹴りで漢を磨いたイギリス紳士たち

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スネ蹴りで漢を磨いたイギリス紳士たち

試合では、地面に倒され、首を締められ、頭を蹴られる、といったPRIDEのような場面もあったようだ。

1843年5月、イングランド北部の新聞に、マンチェスター近郊でアシュワースとクレッグという男たちの喧嘩についての記事が掲載された。記事によると、かなり激しい喧嘩だったようだ。最終的にアシュワースが勝利したが、2人とも大ケガを負った。この喧嘩が新聞に載ったのは、2人が「しっかりした靴以外は何も身につけておらず、裸だった」からだ。「靴」が喧嘩にニュースとしての価値を与えたのだ。

男たちが集い、向こうずねを木製ソールの靴で蹴り合う。イングランド北部には、そういった荒々しい習慣があった。「クロッグファイト」もしくは「パーリング」は、1700年代のイングランド北部で、労働者階級の文化の一部になっていた。決闘は、違法ゆえに、パブの裏や野原など警察の目が届かない場所で繰り広げられた。習慣は途絶えたかと思いきや、北部の水車、鉱山地帯では20世紀半ばまで続いていた。

スネ蹴りに使った木製ソールの靴、別名「クロッグ」は、産業革命期に炭坑夫や工場労働者のあいだで、安さ、丈夫さ、寒さや湿気に対する強さを理由に人気を博した。労働者たちは、仕事終わりに仲間と踊りに出かけたり、パーリングでスネを蹴り合い、どちらかが降参したり、血を流すまで闘ってウサを晴らしていた。ときには、立って蹴り合い、ときには、ひとつの樽の淵に向かい合って座りながら決闘した。

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photo via wikipedia

さすがはイングランド、スネの蹴り合いという違法で野蛮な行為のなかにも、紳士的なスポーツマンシップが流れていた。違法「スポーツ」であっても、独自のルールがあり、それを破るとペナルティを課された。たとえば、もし相手の股間を蹴ったら、地面に押さえつけられた「蹴り手」の股間を「蹴られ手」が蹴る、という取り決めがあった。

一般的に、パブのオーナーが審判で、子どもたちがお駄賃と引き換えに見張りをする。そこでは通常、賭け金が発生した。ヨークシャーまで武者修行に出向くパーリングのプロもいた。そして、靴以外に何も身につけない、全裸マイナスワンで対戦する男たちもいた。決闘のために磨きあげた、伝家のクロッグだけを履いていたのだ。

グレーター・マンチェスター州ウィガン出身のアーティスト、アンナ・FC・スミスは、クロッグファイトについてのエキシビジョンをギャラリー・オールダムで開催した。『Purring – Sport of the People』では、有名なクロッグファイトの様子をスミスが描いたスケッチ、「五感にうったえかける」仕掛けが施され、失われた伝統を再現させようと趣向が凝らされていた。

「クロッグファイトは、北部労働者階級史の一部です」、スミスは『インデペンデント』紙にそう語った。「プライドと肉体性のぶつかり合いです。男としてのアイデンティティを形成する儀式です。(中略)そこでは名誉が問われたのです。だから彼らは、同じように血が流れるスポーツでも、闘犬などは高潔ではない、と判断し、忌避しました」

その名誉心が、クロッグファイトについて多くを語らない、という精神を育んでしまった。その精神は、クロッグファイト全盛期から連綿と受け継がれ、最後のパーリングから60年経っても墨守されているようだ。スミスは、エキシビジョンのために調査を進めながら、パーリング魂に阻まれているのを実感していた。おそらくパーリングについて知っており、おそらく参加していたであろう北部の老人たちが、なかなか口を開かなかったのだ。

「パーリングの記憶は、高齢者たちの内に固くしまわれています。もし彼らが今、それについて語らなければ、もう手遅れでしょう」

パーリングで負う傷の深刻さを疑う向きもあるだろうが、恐るべき情報もある。試合では、地面に倒され、首を締められ、頭を蹴られる、といったPRIDEのような場面もあったようだ。1843年5月の晩、アシュワースはグレッグを破ったのち、別の試合で対戦相手を死に至らしめている。その結果、突如として彼はオーストラリアへ移住した。移住が彼の意志なのか、犯罪者としてなのかは資料に記載されていない。