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バスケットボールに人生を懸けたジム・ライナム(Jim Lynam)には、映画監督のような鋭い視点が備わっていた。55年前、フィラデルフィアのセントジョーズ大学(Saint. Joseph’s University)2年生だったライナムが経験したシーズンは長編映画のストーリー足り得る、と彼は未だに信じている。今はなき全米大学体育協会(以下NCAA)の敗者復活戦でユタ・レッドスキンズ(Utah Redskins)を相手に、4回のオーバータイムの後、彼が所属していたホークス(Saint Joseph’s Hawks)が127対120で劇的な勝利を収めた試合は、大学バスケットボール史上最有数の名試合であり、敗者復活戦といえども、どんな映画のサブプロットにもなり得る、とライナムは確信している。

「私がその映画を撮るとしたら、トロフィーのアップから始めるだろう」とライナムは語る。「チームの年度末パーティーを開催するか否かについて、コーチ陣は頭を悩ませていた。結局、開催したけれども地味に終わった。私がチームのMVPトロフィーをもらったが、然るべきプレートには別の名前がすでに彫られていたようで、別の小さな長細い急場凌ぎのプレートに私の名前が記載されていた。検査官のクルーゾーが見たら、トロフィーが改造されていたのがわかったはずだ。これを造作した人物は、プレートを作り直さずに、単にジャック・イーガン(Jack Egan)の名前をそこから削り取り、その上からジェームズ・F・ライナムの名前が彫られた細長いプレートを貼り付けた……。私なら、そんな風にストーリーを始めるだろう」

キャプテンを務めたにもかかわらず、オフ・シーズンの宴会を欠席したたせいで、ジャック・イーガンの名前はMPVトロフィーから削り取られてしまった。誰がそう指示したのかは定かでないが、ライナムへの気遣いもあったのだろう。その少し前、イーガンはセントジョーズ大学のベスト・シーズンを終えたばかりだった。しかし、イーガンのチームメイトでフォワードのフランク・マジュースキ(Frank Majewski)、センターのヴィンセント・ケンプトン(Vincent Kempton)は、シーズンで3試合、八百長に加担し、3人で2、750ドルの報酬受取を告白した。イーガンは首謀者ではなかった。おそらく、首謀者はマジュ―スキだっただろう。しかし、八百長のあおりを誰よりも喰らったのはイーガンだった。

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1961年、4年生になったばかりのホークスの仲良し3人組が加担していた全国的規模の大学スポーツ八百長が、セントジョーズとユタが競った敗者復活戦の8日前、聖パトリック・デーに明るみにでた。ニューヨーク行政地区のフランク・ホーガン(Frank Hogan)検事長は、セトン・ホール大学(Seton Hall University)の選手2人が八百長に加担して現金を手にし、他にも複数の大学が巻き込まれていたのを暴露した。この時点で、ホークスの3人が不正に加担したのは明るみに出ていなかった。

30年以上のキャリアで組織犯罪、警察不祥事、クイズ番組の不正、1951年のニューヨーク市立大学シティカレッジで起きたバスケットボール八百長スキャンダルを担当したホーガン検事長は、「ミスター高潔」と渾名されたほどだ。1951年に不正が明らかになるまで、10年ものあいだ、ニューヨークはカレッジ・バスケットボール八百長の震源地であり続けた。しかし、選手数名が収監された1951年のニューヨーク市立大学事件の後もなお、八百長はなくならなかった。実際、セントジョーズを巻き込んだスキャンダルは、1951年の八百長が霞むほどの規模だった。1957〜61年までのあいだに、476名もの選手が43試合で八百長に加担したのだ。

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八百長が発覚するまで、ジャック・ラムジー(Jack Ramsay)監督率いるホークスは好調だった。どの試合よりもホークスらしいプレーができるはずだったのに、そうならなかった象徴的な試合は、1月14日、シンシナティのザビエル大学マスケッティアーズ(Xavier Musketeers)との対戦だ。

87対75で後れをとった後、4年生の控ガード、ポール・ウエストヘッド(Paul Westhead)は、セカンドユニット5名が交代で出場し点差を縮めようとしたのを覚えている。

「私たちは、ラムジー監督が、自らの名を世間に知らしめた作戦『フルコート・ゾーン・プレス(full-court zone press)』で逆転すると、勢いを取り戻すために必死にプレイしました。しかし、先発メンバーが再びコートに戻ると、ミスを連発しました……。みんな、何が何だかわかりませんでした……」

職人的フォワード、マジュースキのスリーポイント成功率がたったの20%という最悪の結果が、マスケッティアーズ戦ではっきりとわかっているコート内での出来事だ。八百長を成功させれば、不実の3人は1,000ドルの報酬を受け取る予定だった。八百長成功の条件は、11点差以上での敗北。セカンドユニットの努力も身を結ばず、75対87、12点差で、ホークスは試合を落とし、3人は報酬を受け取った。

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マスケッティアーズ戦の敗北は、ささいな敗北だった。ホークスは、NCAAの東部トーナメントでは、スウィート・シックスティーンでプリンストン大学(Princeton University)、エリート・エイト(準々決勝)でウェイク・フォレスト(Wake Forest University)を破り、苦もなく15連勝を達成した。ファイナル・フォー(セミファイナル)で、ジェリー・ルーカス(Jerry Lucas)、ジョン・ハブリチェック(John Havlicek)といった有名選手を擁する、ランキング1位のオハイオ州立大学バッキーズ(Ohaio State Buckeyes)に95対69で敗れるまで、ホークスは負け知らずだった。

「これまでの試合のなかでもバッキーズ戦だけは、どれだけディフェンスしても鉄砲水に押し流されるみたいだったのを覚えている」とコムキャスト・スポーツネット・フィラデルフィア(Comcast SportsNet Philadelphia)のニュースキャスターを務める、現在74歳のライナムは回想する。「私たちは得点できなかった。ルーカスが全てのリバウンドやこぼれたボールを奪い、それを喉元に突きつけてくるみたいだった」

ウエストヘッドは、チームがフィラデルフィアからNCAAトーナメントに向かう最中、オハイオほどのスター選手がいなくとも、どことでも互角に戦える気がしていた、と当時を振り返える。

「ファイナル・フォーに向かう飛行機では、選手全員がカウボーイハットを被っていた。カンザス・シティに向かっていたから……。私の記憶をたどると、オハイオ・ステイト・バッキーズ相手にそんなひどい試合をしたわけじゃない。でも、われわれは潰されてしまった。学生チームがあんなに上手だなんて、想像を超えていた。バッキーズはわれわれの能力をはるかに上回っていたから、負けるのも恥ずかしくなかった。しかも、その当時、敗者復活戦は今より注目されていたんだ。オリンピックで銅メダルが獲れるか否か、といった具合にね。だから、われわれは円陣を組んで『さぁ、やってやろうじゃないか』と気合を入れたんだ」