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全米を震撼させた1961年の 大学バスケットボール八百長

1960−61年、名門セント・ジョセフズ・ホークスの3選手が3試合で八百長に加担した。22大学37選手が逮捕され、米大学スポーツ界を震撼させた、稀代の大規模八百長はいかにして成立し、不正に加担した選手たちの人生をどう変えてしまったのだろう。

バスケットボールに人生を懸けたジム・ライナム(Jim Lynam)には、映画監督のような鋭い視点が備わっていた。55年前、フィラデルフィアのセントジョーズ大学(Saint. Joseph’s University)2年生だったライナムが経験したシーズンは長編映画のストーリー足り得る、と彼は未だに信じている。今はなき全米大学体育協会(以下NCAA)の敗者復活戦でユタ・レッドスキンズ(Utah Redskins)を相手に、4回のオーバータイムの後、彼が所属していたホークス(Saint Joseph’s Hawks)が127対120で劇的な勝利を収めた試合は、大学バスケットボール史上最有数の名試合であり、敗者復活戦といえども、どんな映画のサブプロットにもなり得る、とライナムは確信している。

「私がその映画を撮るとしたら、トロフィーのアップから始めるだろう」とライナムは語る。「チームの年度末パーティーを開催するか否かについて、コーチ陣は頭を悩ませていた。結局、開催したけれども地味に終わった。私がチームのMVPトロフィーをもらったが、然るべきプレートには別の名前がすでに彫られていたようで、別の小さな長細い急場凌ぎのプレートに私の名前が記載されていた。検査官のクルーゾーが見たら、トロフィーが改造されていたのがわかったはずだ。これを造作した人物は、プレートを作り直さずに、単にジャック・イーガン(Jack Egan)の名前をそこから削り取り、その上からジェームズ・F・ライナムの名前が彫られた細長いプレートを貼り付けた……。私なら、そんな風にストーリーを始めるだろう」

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キャプテンを務めたにもかかわらず、オフ・シーズンの宴会を欠席したたせいで、ジャック・イーガンの名前はMPVトロフィーから削り取られてしまった。誰がそう指示したのかは定かでないが、ライナムへの気遣いもあったのだろう。その少し前、イーガンはセントジョーズ大学のベスト・シーズンを終えたばかりだった。しかし、イーガンのチームメイトでフォワードのフランク・マジュースキ(Frank Majewski)、センターのヴィンセント・ケンプトン(Vincent Kempton)は、シーズンで3試合、八百長に加担し、3人で2、750ドルの報酬受取を告白した。イーガンは首謀者ではなかった。おそらく、首謀者はマジュ―スキだっただろう。しかし、八百長のあおりを誰よりも喰らったのはイーガンだった。

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1961年、4年生になったばかりのホークスの仲良し3人組が加担していた全国的規模の大学スポーツ八百長が、セントジョーズとユタが競った敗者復活戦の8日前、聖パトリック・デーに明るみにでた。ニューヨーク行政地区のフランク・ホーガン(Frank Hogan)検事長は、セトン・ホール大学(Seton Hall University)の選手2人が八百長に加担して現金を手にし、他にも複数の大学が巻き込まれていたのを暴露した。この時点で、ホークスの3人が不正に加担したのは明るみに出ていなかった。

30年以上のキャリアで組織犯罪、警察不祥事、クイズ番組の不正、1951年のニューヨーク市立大学シティカレッジで起きたバスケットボール八百長スキャンダルを担当したホーガン検事長は、「ミスター高潔」と渾名されたほどだ。1951年に不正が明らかになるまで、10年ものあいだ、ニューヨークはカレッジ・バスケットボール八百長の震源地であり続けた。しかし、選手数名が収監された1951年のニューヨーク市立大学事件の後もなお、八百長はなくならなかった。実際、セントジョーズを巻き込んだスキャンダルは、1951年の八百長が霞むほどの規模だった。1957〜61年までのあいだに、476名もの選手が43試合で八百長に加担したのだ。

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八百長が発覚するまで、ジャック・ラムジー(Jack Ramsay)監督率いるホークスは好調だった。どの試合よりもホークスらしいプレーができるはずだったのに、そうならなかった象徴的な試合は、1月14日、シンシナティのザビエル大学マスケッティアーズ(Xavier Musketeers)との対戦だ。

87対75で後れをとった後、4年生の控ガード、ポール・ウエストヘッド(Paul Westhead)は、セカンドユニット5名が交代で出場し点差を縮めようとしたのを覚えている。

「私たちは、ラムジー監督が、自らの名を世間に知らしめた作戦『フルコート・ゾーン・プレス(full-court zone press)』で逆転すると、勢いを取り戻すために必死にプレイしました。しかし、先発メンバーが再びコートに戻ると、ミスを連発しました……。みんな、何が何だかわかりませんでした……」

職人的フォワード、マジュースキのスリーポイント成功率がたったの20%という最悪の結果が、マスケッティアーズ戦ではっきりとわかっているコート内での出来事だ。八百長を成功させれば、不実の3人は1,000ドルの報酬を受け取る予定だった。八百長成功の条件は、11点差以上での敗北。セカンドユニットの努力も身を結ばず、75対87、12点差で、ホークスは試合を落とし、3人は報酬を受け取った。

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マスケッティアーズ戦の敗北は、ささいな敗北だった。ホークスは、NCAAの東部トーナメントでは、スウィート・シックスティーンでプリンストン大学(Princeton University)、エリート・エイト(準々決勝)でウェイク・フォレスト(Wake Forest University)を破り、苦もなく15連勝を達成した。ファイナル・フォー(セミファイナル)で、ジェリー・ルーカス(Jerry Lucas)、ジョン・ハブリチェック(John Havlicek)といった有名選手を擁する、ランキング1位のオハイオ州立大学バッキーズ(Ohaio State Buckeyes)に95対69で敗れるまで、ホークスは負け知らずだった。

「これまでの試合のなかでもバッキーズ戦だけは、どれだけディフェンスしても鉄砲水に押し流されるみたいだったのを覚えている」とコムキャスト・スポーツネット・フィラデルフィア(Comcast SportsNet Philadelphia)のニュースキャスターを務める、現在74歳のライナムは回想する。「私たちは得点できなかった。ルーカスが全てのリバウンドやこぼれたボールを奪い、それを喉元に突きつけてくるみたいだった」

ウエストヘッドは、チームがフィラデルフィアからNCAAトーナメントに向かう最中、オハイオほどのスター選手がいなくとも、どことでも互角に戦える気がしていた、と当時を振り返える。

「ファイナル・フォーに向かう飛行機では、選手全員がカウボーイハットを被っていた。カンザス・シティに向かっていたから……。私の記憶をたどると、オハイオ・ステイト・バッキーズ相手にそんなひどい試合をしたわけじゃない。でも、われわれは潰されてしまった。学生チームがあんなに上手だなんて、想像を超えていた。バッキーズはわれわれの能力をはるかに上回っていたから、負けるのも恥ずかしくなかった。しかも、その当時、敗者復活戦は今より注目されていたんだ。オリンピックで銅メダルが獲れるか否か、といった具合にね。だから、われわれは円陣を組んで『さぁ、やってやろうじゃないか』と気合を入れたんだ」

3月25日の試合はとても素晴らしかった。世間が知らない最高の敗者復活戦は、後半開始直後は上へ下へ、後ろに前に、とスリリングな展開で、ホークスがユタ・レッドスキンズ(Utah Redskins、1972年にユーツになるまでの名称)相手に12ポイントの差をつけていたが、それも長くは続かなかった。

NCAA史上4番目の記録、1試合平均38.8得点を誇る206cmのセンター、ビリー・「ザ・ヒル」・マッギル(Billy “The Hill” McGill)が得点を重ねると、ホークスは逆点された。マッギルは34得点、14リバウンドを獲得。彼のチームメイト、ジム・リードは28得点、11リバウンドを獲得した。

「ビリーはブロックできないジャンプフックが得意だっだ、それに対して、われわれはインサイドを支配していた」と77歳のリードは回想した。「こっちにはジャック・イーガンがいたから、ひき離されはしなかった。スリーポイント・ラインが引かれる前だったけれど、ジャックはNBA規定のスリーポイント・ラインより数歩下がった場所からシュートを決め続けたんだ。ヤツのシュートは別次元だった」

セントジョーズのMVPになるはずだったイーガンは敗者復活戦で、17フィールドゴール、8フリースローで42得点を獲得した。加えて16ものリバウンドを獲得した。最後のオーバータイムまで、セントジョーズには、イーガンのシュートが必要だった。

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最初のオーバータイムは素晴らしいスタートだった、とライナムは笑いながら教えてくれたが、その晩は笑えなかったそうだ。試合開始のジャンプボール直後、ホークスのガード、ビリー・ホイ(Billy Hoy)はボールを奪い、ゴールから15フィート離れたところで止まると、シュートを放った。

「それがオウン・ゴールだったんだ! 大混乱を招き、審判員は何が起きたか把握しようとしていた。自分が何をしたか、ホイが気付いていたか否かはわからないが、私はベンチで激怒していた。ラムジー監督は、大丈夫だ、と私を落ち着かせようとしたが、私は叫んだ。『ありえない、とんでもない!ホイは相手チームに得点をやったんだ!』」

ホークスはオウン・ゴールで97点の同点に追いつかれたが、2回目のオーバータイムでは、イーガンによる終了間際フリースロー2本も含め、101得点を記録した。

3度目のオーバータイムでフリースローが決定的な役割を果たした。交代選手不足のため、シーズン前の新人戦で手首骨折からの復帰したばかりのウエストヘッドは、コートに入り重要な役割を果たした。

「何人かはファウルで退場になっていたから、交代選手が足りなかったんだ。私は、ジャンプシュートを上手に決められる選手じゃなかったから、頭を低くしてレーンに突っ込んだら、思い切り跳ね飛ばされた。床に座る私にラムジー監督は、気分はどうだ、と尋ねてきたので、足首が痛い、と訴えたが、プレーを続行できるか否かは訊かれなかった。監督は、怪我による交代を告げ、ハリー・ブース(Harry Booth)にフリースローを任せた。私のフリースロー成功率が50パーセントだとわかっていたんだよ。監督はどんなときでも賢かった。コートの外に運ばれ、別のシューター交代させられた。そうやって私はチームに貢献したんだ」

終盤になると、ユタ・レッドスキンズは大いに踏ん張った。ホークスを勝利に導くはずのシュートをブロックし、112点で同点をキープした。4回目のオーバータイムは、イーガンのシュート1本とフリースロー2本でスタートした。そこからはライナムが引き継ぎ、その夜の試合で獲得した31得点のうち7得点をここで決め、ホークスの底力を見せつけた。

「負けたのは残念だが、マッギルがファウルで退場になり、ベストプレーヤーがいない状態で戦うのは大変だった」とリード。「でも、全力でプレーできた楽しい試合だったよ。大学最後の試合だったし、一晩中でもプレーしていたかった」

長引く試合に辟易していたのは、シンシナティとの決勝戦を控えていた全国チャンピオン、オハイオ・ステイト・バッキーズだ。カンザス・シティのロッカールームは窮屈で暑く、あまりの狭さからセントジョーズは試合会場に向かう前にホテルで着替えを済ませていたほどだった。いつまで経っても始まらない決勝戦に向けてゴール下に立っているバッキーズの選手たちの気持が緩んできているのに、ライナムは気付いていた。リードは後で彼らからさんざん文句を付けられたそうだ。

「カレッジ・オールスター・ゲームでブラブラしてたら、4回もウォームアップして1時間も座っていたから士気も失せた、とバッキーズの選手は漏らしてたよ」

バッキーズは、27対0とシンシナティ・ベアキャッツ(Cincinnati Bearcats)に引き離されたが、ボビー・ナイト(Bobby Knight)のレイアップにより、なんとかオーバータイムに持ち込んだが、70対65で敗れた。

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オハイオに与えた影響は、ホークス対レッドスキンズ戦の様々な遺産の小さなひとつに過ぎない。ユタ大学初の黒人選手であったマッギルは、1962年、NBAのシカゴ・ゼファーズからドラフト1位で指名された。3 シーズン後にはリーグを退き、2シーズンをABAでプレーしたが、得意のジャンプ・フックでNCAAを震撼させた10年後には、ホームレスとしてバス停やコインランドリーで雨露を凌ぐようになった。

少なくとも「ザ・ヒル」、マッギルはNBAの大舞台でプレーしたが、ジャック・イーガンは二度とプレーしなかった。

歴史に残る敗者復活戦の2日後、ジム・ライナムは寮の自室で眠っていた。当時の寮は学校がキャンパスのすぐそばに購入した個人邸宅だった。ライナムの部屋のすぐ外にある個室には公衆電話が備え付けられていた。

ライナムは、「最初の数回は無視した。でも電話が鳴り止まなかったので、起き上がって受話器をとった」そうだ。「その年はプレーしていなかった高校時代から仲の良いチームメイトが、『アイツらに何が起こったか聞いたか?』と感情を抑えられずにわめき叫んでいた。完全に目が覚めて意識がハッキリすると、アイツらが交通事故に遭ったんじゃないか、と頭に思い浮かんだ」

「あいつら」とは、イーガン、ケンプトン、マジュースキだが、確かにクラッシュして火あぶりにされていたが、交通事故ではなかった。彼らは、ザビエル大学との試合を含む3試合で故意に得点を抑え、その対価を受け取っていたのだ。

22校の37選手が逮捕された、ニューヨーク・シティからノースカロライナ州まで広がる全国的な賭博に、ケンプトンとイーガンを誘い入れたキャンパスでの中心人物はマジュースキだ。罠にかかったホークスの選手たちとともに騒ぎに巻き込まれたのは、後に殿堂入りを果たす伝説のストリートボーラー、アイオワ大学のコニー・ホーキンズ(Connie Hawkins)だった。容疑者のひとりがコニーに言及した、というだけの理由で彼は責められた。実際に彼が八百長に加担した証拠はなかったが、囁かれる噂のせいで7年プロ入りが遅れた。

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八百長のフィクサーは、コロンビア大学の元オール・アメリカン選抜選手、ジャック・モリナス(Jack Molinas)だった。彼はフォートウェイン・ピストンズ(Fort Waye Pistons、現デトロイト・ピストンズ)入団後、32試合に出場しただけで、大学在学中のバスケ賭博関与を理由にNBAから永久追放処分を受けた。ジェノベーゼ・ファミリーのカポ・ヴィンセント・「ザ・チン」・ヒガンテ(Capo Vincent “The Chin” Gigante)、ジョー・ペシが映画『カジノ』(Casino, 1995)で演じた実在のマフィアなど、大物ギャングと懇意だったモリナスは、八百長の中心人物として暗躍していたのだ。しかし、彼はストリート・レベルの汚れた仕事に手は染めていなかった。そういった仕事はモリナスの幼馴染、アーロン・ワグマン(Aaron Wagman)など、下っ端ギャンブラーの役割だった。ワグマンは3月17日に逮捕され、数日後、38件の汚職と共謀罪で起訴された。

ワグマンは、もともとはハスラーで、ヤンキー・スタジアムでピーナッツの売り子をしていた。フロリダ大学のフルバック、ジョン・マクベス買収を試みた罪で拘留されたが、2万ドルで保釈中であった。おそらく、事件の首謀者ではなかったであろうワグマンは、保釈後も八百長工作を続けたので、捜査官はワグマンを追って州から州へと移動した。これが後に、大勢の大学生がフランク・ホーガン検事の取調を受ける羽目になった理由だ。

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「地方検事のオフィスが春休みのフォート・ローダーデール(学生に人気のバケーションスポット)のようだった、とその光景を直接目にした知人が教えてくれた」とライナムはいう。

ホーガン検事は、「賭博の輪」を片っ端から潰そうと手薬煉を引いていた。そのために、モリナスを取り調べる必要があった。ワグマンと取引し、モリナスにとって不利な証言をさせるように仕向けた。結果、モリナスは10~15年の懲役を下された。5年間、彼は主にアッティカ刑務所で服役し、2003年のESPNの記事によると、映画『ロンゲスト・ヤード』(The Longest Yard, 1974)でバート・レイノルズ演ずるポール・クルーのモデルになったそうだ。出所後はロサンゼルスに移住し、毛皮輸入業とポルノ業界に携わり、『Lord Farthingay’s Holiday』のような汚らしい作品をプロデュースした。最終的に、モリナスはハリウッドヒルズにあった自宅の庭でマフィアに後頭部を撃たれ、この世を去った。

ホーガン検事の2年に及ぶ捜査は、イーガン、ケンプトン、マジュースキなどからの事情聴取がなければ実を結ばなかっただろう。

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1961年5月8日発行のスポーツ誌『スポーツ・イラストレイテッド』の暴露記事「Portrait of a Fixer(フィクサーの素顔)」で記者レイ・ケイヴ(Ray Cave)は、対ユタ・レッドスキンズ戦終盤、シュートをミスしたフランク・マジュースキの打ちひしがれていた様子を描写している。ホークスは試合に勝ち、当時4年生でフォワードだった彼は、ダブル・ダブルまで決めてチームに貢献したのに、「まるで彼は、ホークスに借りがあり、最後の試合でそれを返そうとしていたかのようだった」そうだ。

ユタ戦勝利を祝うシュミット・ビールの酔いからまだ覚める前に、八百長のニュースが飛び込んできた。マジュースキはトーナメントでプレーしながらも、捜査の手が迫っているのを察知しており、もうダメだ、とわかっていたようだ。

生徒数1,450人の小さなカトリック・スクールにとって、このスキャンダルは致命的だったが、バスケットボール・ファンにとっては、低俗なドタバタ喜劇でしかなかった。ペンシルバニア州モントゴメリー郡で発行される『タイムズ・ヘラルド』のコラムニスト、トム・リー(Tom Lees)は、1961年1月4日、悪名高きホークス対セトン・ホール戦を目にした不幸な観客のひとりである。彼は未だに、55年前の不快な光景を覚えている。

「私が観戦したなかでも、最悪のカレッジ・バスケットボール・ゲームでした。お粗末なパス、トラヴェリング、ダブルドリブル、試合を間延びさせたりなどなど、冗談みたいでした。セトン・ホールのアート・ヒックス(Art Hicks)とセス・ガンサー(Seth Gunther)もその試合で八百長に加担していたのが判明し、ああそうだったのか、と納得しました。2チームのプレーヤー5名がわざとミスをしていたんですから、ひどい試合にもなります。そんなの当たり前でしょう」

得点差10点以内での勝利が八百長成立の条件だったセトン・ホール戦を、72対71でホークスが辛勝を装った後、不正に手を染めたホークスの3人は、1000ドルを手にした。どう配分されたかは定かでないが、報酬はマジュースキが受け取った。3人のなかでもケンプトンだけは、計画に乗り気でなかったし、少なくとも加担する必然性はなかった。1990年、ケンプトンはフィラデルフィア・デイリーニュースに、こう打ち明けた。「それはまじり気のない、文字通りのわがまま、強欲、未熟だ。好きなように罵ってくれ」

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他の2人は、ケンプトン以上の苦境を体験をした。マジュースキはワグマンにとっていいカモだったようだ。マジュースキはジャージー・シティの労働階級の出身で、父親は印刷業に従事していた。マジュースキが大学2年のとき、父親は他界した。母親は大学4年のときに心臓発作で倒れた。マジュースキは、早く仕事に就きたかったので、精神的にはバスケットに専念できてるような状態ではなかった、と記者ケイブに吐露した。

ジャック・イーガンは、ゲームを愛する途方もないボール・プレイヤーだった。イーガンの将来はとてつもなく明るいはずだった。1961年3月27日、ホークスがユタ・レッドスキンズを破った2日後、イーガンは、フィラデルフィア・ウォリアーズ(Philadelphia Warriors)に第3ラウンドで指名された。翌春には、ビル・ラッセルのセルティックスと対決するために、東部カンファレンスのファイナル出場を目指してウィルト・チェンバレン(Wilt Chamberlain)とともにプレイする予定だった。

現在、NBA選手の報酬は桁外れに大きいが、額こそ違えど、物価の違いなどを考慮すれば、その価値は今も昔も変わらない。ホークス、76ersのライナム元コーチは「アマチュアプレーヤ−は、いつの時代もプロになりたくて仕方がないものだ」と言明する。「私は、ジャック・イーガンの素晴らしいバスケットボール人生を確信していた。それなのに、ヤツは全て捨ててしまったんだ」

とはいえ、このスキャンダルで、ラムジー監督ほどの痛手は誰も負っていない。当初は3選手とも疑惑を否定していたが、時間稼ぎは彼らを信じたい気持すら通り過ぎてしまった。数年後、何年たっても口を開かなかったラムジー監督に、3選手があの手この手で過剰な謝罪をしている。しかしジャック・マッキニーの著書『セントジョーズ・ハードウッドの物語』でラムジー監督は、スター選手たちの転落について、自らに多大な責任がある、としてこう吐露している。「振り返ると私は、彼らを十分に気にかけてやっていなかった。ジャック・イーガンがああなったのは私のせいだ」

バーテンダーとして週40ドル稼いでいたイーガンに、その仕事を辞めるよう強いたのを、ラムジー監督は晩年に至っても後悔していた。イーガンがバーテンダーを選んだのは、約束されていた大学の仕事に就けなかったからだ。彼は、どんちゃん騒ぎの軍資金を必要としていたわけではない。彼には子供二人と妊娠中の妻がいた。彼が妻の妊娠を知ったのは、仕事を逃して無一文の時期だった。シーズンが始まると、妻は流産してしまった。

ラムジー監督は、もしバスケットを辞めたら奨学金を失う、と自らがイーガンに伝えたせいで、彼はしぶしぶマジュースキに協力した、と信じているものの、ビッグ・ファイブ、ミドル・アトランティック・カンファレンスでの試合を除いて、八百長は決まっており、イーガンは、不正の報酬を受け取ったのを認めている。しかし、彼のシュートには誰もケチをつけていない。1961年1月21日のゲティスバーグ(Gettysburg Bullets)戦では、未だに破られない47得点を記録している。そして、その後、もちろんあのユタ戦……。

「初めてこの話を聞いたとき、試合が八百長だったとは、と悩んだよ。でも、イーガンがあれで俺たちを巻き込んでいたのだとしたら、ものすごく八百長が下手だったのかも知れない。じゃなきゃ60点は決めてたはずだ」とリードは振り返る。

3人の4年生は退学したが、数年後、復学を許され学位を取得した。マッキニーによると、イーガン、ケンプトン、マジュースキは、それぞれビジネスで成功しているそうだ。

賄賂をもらわなかったチームメイトにとって、1960-61年のシリーズと127対120の勝利という頂点は重要だ。法的にホークスはリーグから除名されてもおかしくなかった。もしそうなっていたとしても、チームがNCAAトーナメント勝者としての最高得点記録を保持する事実に変わりはない。ホークスの記録は1990年、ポール・ウエストヘッドのロヨラ・メリーマウント・チームが149対115でミシガンに勝利するまで破られなかった。4回のオーバータイムで雌雄を決したゲームなどない。彼は今でも覚えている。

「私はバスケットボールに年月を費やしてきた。だからといって、思い出を大事に抱えているタイプではない」とライナムは語る。「唯一、飾ってあるのは、急場しのぎのトロフィーだ」