All Photos:Hit the Road

最初の爆発で50人以上が死亡し、その後、10日間続いた火事の影響で35万人の住民が避難を余儀なくされた。100万人の〈リクビダートル〉と呼ばれる事故処理作業員たちが、被害を最小限に食い止めるべく尽力した。その結果、約半数の作業員が死亡し、生存者も寿命を縮めた。

1986年4月、チェルノブイリ原子力発電所事故が発生した直後、同地域での生活は4万年後まで不可能だろう、と噂された。しかし、避難勧告を聞き入れず、現在も事故現場近くで暮らす住民がいる。〈同地域に留まる〉のは自らの死刑執行令状に署名するのも同然なのに…

署名したのは、地域住民だけではなかった。

〈Hit the Road〉は、パリに暮らす4人の若いフリーランナーたちが結成したパルクール集団だ。2014年夏、彼らは、原子力発電所の文字どおりの〈中心〉に向かう旅に出た。「自然が市街地を侵食するさまを確かめたかったんだ。本や写真でしか知らなかったから」。グループのメンバー、クレメント・デュメー(Clément Dumais)は、パリのパブで話してくれた。

デュメーは、フリーランニング集団〈Hit the Road〉をニコ・マシュー(Nico Mathieux)、そしてポール・RBD(Paul RBD)と共に2012年に結成。2年後に、もうひとりのフリーランナーであるレオ・アーバン(Leo Urban)がチームに参加した。グループを結成すると、最初の目標もすぐに決まった。まず、エッフェル塔を制覇した。

事故後, 最初に避難勧告が発せられたプリピャチの公共プール.

「チェルノブイリにいけて、本当によかった」とレオ。「どうなってるのか全く想像できなかったし、見たところで言葉にできない」。ゴーストタウンに車で向かう前に、Hit the Roadはウクライナのキエフを訪ね、現地でパルクール、フリーランを実践する〈トレーサー〉たちに会った。

キエフ滞在中、彼らは放置された地下壕を探索した。「そこで僕たちはスーツとマスクを見つけた。それを立入禁止区域を持ち込んだんだ」とニコはいう。彼はマスクをひとつ見せてくれた。まるでハリウッド映画の小道具みたいだった。「全部、冷戦期につくられたんだ。核攻撃に備えていたんだろうね。箱にしまってあったのを見つけたんだ。新品同様だった」

彼らはキエフで、都市探索に通じた人物と合流した。その人物は、GPSを利用して3〜4回ほどチェルノブイリを探索した経験があるそうだ。「彼は、ルートも警察のチェックポイントも知っていた。なにより、どうやって警察を避ければいいかわかっていた」とポールは説明する。原子力発電所の周囲には、軍のチェックポイントがあって、立入禁止区域への侵入を厳重に警戒している。法を犯せば、裁判なしに収監される可能性もある。

「僕たちは、キエフを出て、最初のチェックポイントから12マイル離れたところに車で移動した。それから網のフェンスの穴を潜り抜けて歩き始めた」とレオ。初日の夜は、12時間も歩いて移動した。

放射線被曝の原因となるであろう、すでに老朽化した昔の石棺を封鎖するための作業が発電所では進められており、軍による厳重な警備はもちろん、民間人の立入も禁じられている。

「パトロールをかわすには、放射線濃度のとても高いエリアを通らなければならなかった。もちろん、不安だったよ」とクレメントは認める。「レオは手を切ってしまった。そしてガイガーカウンターで放射線を測ってみたら、ものすごく高い数値だった」。彼らが触れた植物のなかには、安全基準の14倍もの放射線を発するものもあった。

この場所は〈死のゾーン〉として知られている.人っ子ひとりおらず,自然が支配している.

国際放射線防護委員会(ICRP)が提唱する年線量限度は、1ミリシーベルト。短い時間だったとはいえ、彼らは、森のなかで、最大5.20ミリシーベルトの放射線を浴びた。寝るさいも、線量限度を越えない場所を選んだが、それでも十分に注意しなければならなかった。「自分たちが目にした数値にとても驚いた。家へ帰りたくなったよ」とレオは振り返る。

チェルノブイリから3マイル離れたプリピャチは、事故発生から36時間後に避難が始まり、現在はゴーストタウンだ。プリピャチ入りするために、彼らは川を越え、森を越え、さらに線路を辿らなければならなかった。「たくさん歩いたからものすごく疲れて、パルクールはほとんどできなかった。主に町とその周辺を探検した」とニコは自分のトレーナーを眺めた。「あのとき着ていたんだ。パルクールにはいいけど、歩くのには向いてない。たくさん歩くとなれば尚更ね」

グループのメンバーたちは,わずか4日間で放射線に汚染された地域内を100マイル近く歩いた.

「僕たちは放射線に晒され、それでも歩き続けなければならなかったのが、本当につらかった」とレオ。他のメンバーもうなずいた。パルクールは彼らの人生だ。精神と肉体の限界を超えた戒律なのだ。地球上のどこよりも、放射線で汚染された場所を彼らが選んだのも、戒律に従った結果だ。

パリからチェルノブイリへの旅は、21世紀から1980年代ソヴィエト連邦へのタイムトラベルでもある。そこには、何もかもが手つかずのまま残されている。二度と戻らないであろう家族たちが同地を後にした当時のまま、すべてが残されている。共産党のシンボルがあちこちに見える。

プリピャチのいたるところに草木が生い茂っている.

「リクビダートルたちが作業したあとは、もうチェルノブイリでの作業はないんだろう、とタカを括っていた。でも、ウクライナ人による研究や安全対策がなければ、放射線はきっと、もっと遠くまで飛び散っただろうね」とポール。

「大昔の話のようだけど、たった30年前なんだ」とクレメントは去り際に呟いた。