さすがに長嶋の引退は覚えていないが、王選手の756号は鮮明に覚えている。それまでのホームラン世界記録は、メジャーリーガー、ハンク・アーロン(Henry Aaron)の755本。1977年8月31日に王がこの記録に追いついてから、日本中のチビッコたちは、「あと1本! あと1本!」とずっとテレビにかじりついていた。そして遂に9月3日、ヤクルトスワローズ戦の第2打席で、王は世界新記録を達成するのだが、その日のテレビ野球中継は午後7時30分スタートであったため、午後7時10分にかっ飛ばした記録的ホームランを生で観られず、ブーたれたのを強く覚えている。日テレのクセに。まぁ、直前にやっていた『そっくりショー』も楽しんでいたのだが…

当時の巨人はチビッコたちにとって完璧だった。長嶋監督、王を筆頭に、のちのオリックス監督土井正三、現横浜DeNAベイスターズGM高田繁、〈銀座の盗塁王〉柴田勲、汗っかきだから〈カッパ〉こと新浦壽人、首をひょっこりするから〈カメ〉こと河埜和正、毒蝮三太夫に似てるから〈マムシ〉こと柳田真宏、そしてイケメン小林繁、お尻プリっ淡口憲治、まだ嫌われていなかった堀内恒夫、更にまだ嫌われていなかった張本勲ら、スター選手が勢ぞろい。優勝するのは当たり前、視聴率も20%も当たり前、日本代表チームもほぼ巨人の選手だけで賄えるのではないかと勘違いするくらい、プロ野球界は巨人を中心に回っていた。町内チームのチビッコたちは、王選手の背番号〈1〉をゲットするために、日々1本足で素振りをしていたものだ。(私はカメの29にしか届かなかったが…)

さて、そんなスーパースター集団である巨人を嫌いになったのはいつからだろうか。清原・桑田問題、野球賭博問題、度重なる大金補強、ガルベスの悪行、東日本大震災時の滝鼻オーナー発言、ナベツネなどなど、残念ながら理由はいくつでも見つかる。しかし、あんなに憧れていた巨人軍を「おかしいなぁ」と子供ながらに感じたのは、やはり江川問題〈空白の1日事件〉からだった。王選手が756号をぶっ放した2ヶ月半後のドラフト会議から、物語は始まった。

§

王貞治がホームラン世界記録を達成し、日本一こそ阪急ブレーブス(現・オリックス・バファローズ)に譲ったが、見事2年連続リーグ優勝を果たした巨人は、やはり1977年のプロ野球シーズンにおける主役であった。そして同年11月22日のドラフト会議でも、再び巨人は脚光を浴び、この年を締めくくる予定だった。江川卓投手(法政大)の指名。本人も巨人入りを強く希望しており、他球団なら入団拒否、との噂もあった。

このドラフトでは、巨人と相思相愛関係だった江川を指名する球団は、ほぼ皆無だ、と伝えられていた。この年のドラフトは、予備抽選で選択指名順を決定する方式を採用しており、予備抽選の結果は…

1. クラウンライターライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)

2. 読売ジャイアンツ〈巨人〉

3. 阪急ブレーブス

4. 阪神タイガース

5. 大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)

6. ヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)

7. 日本ハムファイターズ(現・北海道日本ハムファイターズ)

8. 広島東洋カープ

9. 近鉄バファローズ(オリックス・バファローズによる吸収合併により、2004年に球団消滅。同年、新球団として東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生)

10. 南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)

11. ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)

12. 中日ドラゴンズ

…であったため、クラウンがトップで希望選手を指名する権利を得た。福岡を本拠地としていたクラウンは、地元出身の門田富昭(西南学院大)を指名するとの情報があったため、選択指名順2番目の巨人による江川の指名、そして入団が確実かと予想された。しかし、大方の予想に反し、ここでクラウンが江川を強行指名してしまう。当時のクラウンは、前身チームである常勝軍団・西鉄ライオンズの面影は遠に消え去り、弱小チームとしてプロ野球界のお荷物扱いだった。更に、多大な借金を抱えた赤字球団であったため、集客増及び〈勝てるチーム〉づくりの即戦力として、江川を指名し、1発逆転を狙ったのだ。しかし、やはり江川は入団を拒否。「九州は遠い」。それが理由だった。のちに江川は、巨人がダメでも、在京セ・リーグのヤクルト、もしくは大洋だったら入団していたと語っている。付き合っていた彼女(現在の正子夫人)と離れたくなかった。遠距離恋愛はしたくなかったという。

江川にフられたクラウンは、結局、その後も赤字解消できず、1978年に球団を西武グループの国土計画株式会社に売却する。もし、このとき江川がクラウンに入団していたら、埼玉西武ライオンズは誕生せず、南海時代の大阪から福岡に本拠地を移したダイエー/ソフトバンクも存在していなかったかもしれない。

§

江川は、作新学院高校3年時の1973年にも阪急ブレーブスからドラフト1位指名されている。大学進学を希望していたため、ここでもプロ入りを拒否したが、彼は当時の野球界においてまさしく〈怪物〉だった。完封勝ちは当たり前、ノーヒットノーランも連発、とんでもない奪三振率で、相手チームはまず「バットに当てること」から始めなくてはならなかった。

江川卓:甲子園通算成績
6試合4勝2敗 投球回数59回1/3 奪三振92(1試合平均15.3) 自責点3 防御率0.46

甲子園通算80奪三振以上の投手の中での奪三振率14.0は、現在も大記録としてトップに君臨している。ちなみに、その他有名選手の奪三振率は以下の通りである。

2位 板東英二(徳島商:現タレント)12.1(投球回数62回・83奪三振)

6位 田中将大(駒大苫小牧:現ニューヨークヤンキース)10.1(投球回数91回1/3・102奪三振)

9位 ダルビッシュ有(東北:現テキサスレンジャーズ)は8.5(投球回数92回・87奪三振)

そんな江川の勇姿を観ようと日本中がテレビに釘付けになり、夏の甲子園では、関西電力が大手企業にエスカレーターと冷房のストップを要請する事態に追い込まれた。更に第一志望であった慶応義塾大学法学部政治学科への受験に失敗すると、その不合格を伝えるニュース速報がテレビで流れるほど、日本全体が〈江川現象〉に一喜一憂していたのだ。その後、法政大学法学部第二部法律学科に進学(のちに一部へ転籍)した江川は、大学野球でもその力を存分に発揮した。六大学通算47勝、奪三振数443は歴代2位。堂々たる数字を残し、1977年のドラフトを迎えたのだ。

〈彼女と離れたくなかった〉江川は、まさか東京からいちばん遠い場所にある九州の球団に指名されるとは考えてもみなかった。クラウン入団を拒否したまではいいが、その後はなにも決めていなかった。そこで、江川家は家族会議をひらき、以下の3案をひねり出した。

・社会人野球チームへの入団
・ハワイ大学(UH)への留学
・南カリフォルニア大学(USC)への留学

「一刻も早くプロ野球選手になる」を最優先した結果、まずA案が消えた。当時、社会人野球に進んだ選手は、最低2年間そのチームに在籍しなければならない、という規則に縛られた。要するに、2年間はドラフト候補にもなれないのである。2年も待てない、そう判断した江川とその家族は、翌1978年のドラフト選出を目指すために、海外留学の道を選ぶ。しかしB案のハワイ大学は、語学留学でも入学試験があったため却下。結果、南カリフォルニア大学に人脈を持つ関係者からの推薦もあり、江川の進路はC案に決定した。ただ留学といっても名ばかりで、学生という身分ではなく、南カリフォルニア大学野球部の練習生として海を渡った。肩書きは作新学院職員。江川は通常のゲームには出場できず、もっぱらバッティング投手や、アラスカのサマーリーグに参加しながら、次のドラフトに備えていた。

§

その頃、日本でも球界再編が始まっていた。主役は、「江川にフラれた」クラウンライターライオンズ。まったく赤字を解消できなかった球団は、国土計画株式会社への売却及び、埼玉県所沢市への移転を1978年10月12日に発表。西武ライオンズが誕生した。そして、ここでも大きなポイントは江川だった。国土計画の堤義明社長(当時)は、「クラウンを買収すれば、江川の交渉権も付いてくる。10億円出しても元は取れる」と発言。クラウンは「フられた」とはいえ、江川独占入団交渉権を1978年11月20日まで保有しており、西武はそれを引き継いだのである。また、本拠地を福岡から埼玉に移したのも、江川の拒否理由を排除するため、と噂された。そして堤社長は、即座に宮内巌球団社長をカリフォルニアに送り込み、江川との再交渉を敢行。しかし江川はそれに応えず、結局、交渉は終焉を迎えたのだが、西武の迅速な動きに触発され、危機感に苛まれる球団があった。我らが巨人軍である。

1978年、巨人は2位でシーズンを終えた。さらに王、張本は38歳、高田、堀内、柴田といったスター選手も30代になり、レギュラー選手の平均年齢は三十路を越えていた。常に勝たなくてはならない巨人は、選手の育成にも着手しなくてはならない時期を迎えていたのだ。しかし、クジ運ですべてが決まるドラフトでは、希望通りに若手選手を揃えられない。ドラフト制度以前は自由に選手と交渉し、豊富な資金力で有望な若手を獲得していた巨人は、常にドラフト反対の姿勢を打ち出しており、ことあるごとに「ドラフトは人権侵害で、職業選択の自由に反するのではないか」とアピールしていた。実際、巨人の親会社である読売新聞を中心にその議論は活発になり、国会でも議題にのぼるほどだった。前年、ドラフトでの江川獲得に失敗した巨人の苛立ちは頂点に達していたのだ。更に、新球団、西武ライオンズによる素早い江川へのアプローチにより、その危機感はますます募っていった。〈新しい世代による常勝球団〉を目指す巨人にとって、江川は不可欠だったのだ。

実は、西武ライオンズが誕生する直前にも、巨人は不可解な行動を取っている。クラウン売却発表の前日、1978年10月11日、中村長芳クラウン・オーナー、金子鋭コミッショナー、鈴木龍二セ・リーグ会長、工藤信一良パ・リーグ会長、そしてなぜかここに巨人の正力亨オーナーも同席し、江川の交渉権についての会合が催されていた。ここでセ・リーグ会長の鈴木は、こう述べたという。「江川のような大物選手の入団を球団売買の道具にすべきではない」。巨人贔屓の鈴木は、クラウンが江川の交渉権を放棄しない場合、球団譲渡と本拠地移転は認めないと発言。これに対し、中村オーナーも〈口約束〉だが了承したそうだ。(のちに中村は「そんな約束をした覚えはない」と発言)。この席に呼ばれず、事情をまったく知らなかった堤義明は、翌日の買収及び新球団発表会見で、報道陣から〈口約束〉の噂を知らされて憤慨。更に他パ・リーグ球団も、この裏工作に反発し、「新球団である西武は、江川の交渉権を引き継げる」と認め、セ・リーグに対しても同調を求めた。結局、世間の批判的な声も高まり、鈴木セ・リーグ会長、そして背後に立つ巨人の目論見は崩れ去ったのだが、いかに巨人が江川獲得を望んでいたか、それがよくわかる出来事であった。

江川本人の西武入団拒否によって、まずはひと安心の巨人だったが、次のヤマであるドラフトで成功しなければ、江川は獲得できない。そこで巨人は、日本中を驚愕させる作戦をとる。それは、他球団の説得でもなく、クジ引でのインチキでもなく、野球協約の盲点を突いた超奇策を弄したのだ。

§

江川は留学先のロサンゼルスにいた。11月22日に開催されるドラフト会議の模様を、現地から見守る予定だった。実際、リトル・トーキョーにある日本食レストラン〈ほり川〉を、記者会見のために予約していたほどだ。しかし、父親、江川二美夫から緊急事態を告げる国際電話が入る。

「すぐ日本に帰って来い。巨人に入れるかもしれない」

「詳細は帰国してから」。それ以上の説明を受けずに、江川はドラフトの前々日である11月20日の夕方に成田空港に到着。ロサンゼルスでの記者会見がキャンセルされたので、たくさんの報道陣が成田に集まっていた。江川を迎えた車は、東京・南青山に向かう。そこは江川の後見人であり、作新学院理事長、そして衆議院議員であり、自由民主党副総裁の船田中の自宅だった。一方、同日に江川との交渉権を失う西武は、江川が成田に着いた頃、正式に獲得断念を表明していた。

江川は船田に挨拶したあと、船田の秘書、蓮見進の自宅に移動する。そこには父、二美夫の姿もあった。江川はそこに、当時は恋人、後の正子夫人も招いている。状況を把握していない江川にとっては、〈エルメス〉のハンドバッグをお土産に用意するほど、久々に再会する彼女が大切だったのかもしれない。著書『たかが江川されど江川』ではこう語っている。

「あれこれアメリカでの体験談などをしゃべりつづけて、気づいたときには時計の針はもう12時近くを指していた。『明日になるまで起きていようよ』などと何も知らぬ僕は正子とのんきに言葉を交わしながら、運命の日である21日を迎えたのである。(中略)正子がいなくなって急に時差ボケで眠くなった僕は、『話は明日する。7時半に起こすから寝なさい』と親父に言われて、蓮見さんのお宅に用意されたふとんに入った。あれ、そういえばあの話、巨人に入れるウンヌンは…と思う間もなく眠りに落ちていった」

江川がいびきをかいている頃、すでに事態は動き始めていた。1978年11月21日火曜日〈空白の1日〉スタート。

午前0時 西武ライオンズ、江川との交渉権を喪失。
午前0時40分頃 ホテル・ニューオータニで、長谷川実雄巨人球団代表、蓮実秘書、山本栄則巨人軍顧問弁護士が会談。約4時間をかけて、〈江川巨人入団の流れ〉を最終確認する。

午前7時30分 江川卓起床

ここでやっと江川は、二美夫から詳細を聞かされた。野球協約の盲点を突けば、巨人に入団できる、という話だった。この案は、蓮実秘書を中心に考えられたとされている。船田と蓮実は、江川が大学生の頃から、プロ野球入団について都度相談を受けていた。そして、二美夫は、以下4条の協約について、江川に説明を始めた。

【野球協約・第133条】(新人選手の選択)球団は、日本の中学・高校・大学に在学し、未だいずれの球団とも選手契約を締結したことのない選手と、選手契約を締結するためには、選択会議で同選手に対する選手契約の交渉権を取得しなければならない。(後略)

【野球協約・第138条】(交渉権の喪失と再選択)球団が選択した選手と翌年の選択会議開催日の前々日までに、選手契約を締結し支配下選手の公示をすることが出来なかった場合、球団はその交渉権を喪失するとともに、以後の選択会議で再びその選手を選択することは出来ない。(後略)

【野球協約・第141条】(契約可能選手)球団は選択会議終了後、いずれの球団にも選択されなかった新人選手と自由に選手契約を締結することが出来る。(後略)

このうち【第133条】は、翌日のドラフト会議日である11月22日に一部改正されることが決まっていた。「球団は日本の中学・高校・大学に『在学』し…」のあとに「または在学した経験をもち」という内容が追加されるのだ。当時の江川は、〈在学生〉ではなかったため、この改正が成される前に、物事を進めなくてはならなかった。更に他協約も江川にあてはめると、

【第138条】→ドラフト会議『前々日』の11月20日をもって、西武ライオンズによる江川の交渉権は切れている。

【第141条】→ドラフト会議『前日』である11月21日の江川は、『いずれの球団にも選択されなかった新人選手』である。

よって11月21日は、まさしく〈空白の1日〉だった。この日の江川は、「野球協約上、いずれにも該当しない選手」であるため、どの球団ともドラフト外として自由に契約できる野球選手だったのだ。前夜には彼女とイチャイチャしていた江川も、この話を聞いたときは「背スジがゾッとした」と語っている。

「不安があった。この〈空白の1日〉を活用した前例がまったくなかったことだ。野球協約を何度も何度も、その場で読み返した。なるほど納得はできる。間違いなく〈空白の1日〉は存在する。でも……。僕の心は揺れた。もともと、次のドラフトに賭けようと覚悟は決めていたのだし、前代未聞の抜け穴を通り抜けたりせずに、明日まで待った方がいいのではないか……。すると、もうひとりの僕が囁きかけてきた。法律的には問題ないんだ、お前はアメリカで、法的合理主義の精神で人々が自分の権利を通す姿を目のあたりにして来たはずじゃないか、今日なら正々堂々、巨人と契約できる、夢が叶うんだ……。そしてまた、今日しかないのだ、明日では遅すぎる……。(中略)親父に『本当に問題ないんだね?』と訊ねても、『大丈夫だ』と確信に満ちた言葉が返ってくる。僕にとって親父は、まだまだ絶対的な存在ではあったし、その場の雰囲気も僕の感じた限り、なにかいけないことをしているというムードではなかったことが、次第に不安を消していった」(『たかが江川されど江川』より)

おそらく、二美夫、船田、蓮見、そして巨人関係者も、それほど「いけないことをしている」という実感はなかったのかもしれない。野球協約は犯していない。問題は何もない。〈空白の1日〉は存在するのだから。彼らはそう考えていたに違いない。そこに当時の巨人至上主義から生まれた傲慢さがうかがえる。そして不安が消え去った江川は、憧れの巨人への入団を決意する。すでに喜びの方が勝っていた。

「小さいころからの夢が叶ったという実感が湧いてきた。晴れて巨人のユニフォームを着られるのだ。後楽園のマウンドに立てるのだ。僕は舞い上がった」(『たかが江川されど江川』より)

後半へ続く