2016年、バーチャル・リアリティ(VR)は大きく進歩した。宇宙でドッグファイトを繰り広げる『EVE: Valkyrie』、爆弾を処理する『Keep Talking and Nobody Explodes』、外科医となって大手術が体験できる『Surgeon Simulator』など、ここ数年で、ようやくテクノロジーが想像力に追いついたのだ。しかし、90年代前半のVRの大げさなプロモーションが失敗に終わったのを思い出す人もいるかもしれない。「最新の〈変革技術〉が世界を変える」などと持て囃されたが、機能に見合わない法外な価格や、使いづらさも相まって、大半の人は見向きもしなかった。

90年代初頭には、メディアとしても、構想としても失敗したようにみえたVRだったが、臨床医療の分野では、新たな治療法として注目されていた。「技術としては充分でしたが、コスト的に製造や改変が難しく、100人もの熱心な臨床医が20年にわたり試行錯誤した結果、徐々に技術改良されました」。南カリフォルニア大学クリエイティブ・テクノロジー研究所(the University of California’s Institute for Creative Technologies、ICT)で医療VRの責任者を務める、心理学者のアルバート〈スキップ〉リゾはこのように説明した。

リゾは治療、社会復帰、回復力の臨床評価を通じて、VRシステムを設計、開発、評価している。専門は軍人の心的外傷後ストレス障害(post-traumatic stress disorder:PTSD)だが、他にも、ICTの研究員とともに、自閉症患者の社会技能訓練、注意欠陥障害をもつ子供たちの認識力検査、脳卒中、外傷性脳損傷、脊髄損傷による後遺症のリハビリテーションなどに取り組んでいる。

研究を通じて、ビデオゲーム風のシナリオを利用すれば患者が治療に集中できる、とリゾは気づいた。「1980〜90年代に脳損傷患者を担当しましたが、反復訓練や脳のトレーニングに専念してもらうのは大変でした」とリゾ。「でも、『シムシティ (SimCity)』のように、楽しめると同時に、実行機能、マルチタスク、記憶力、注意力が必要なゲームを使うと、10分も集中できなかった患者が認識力検査に真剣に取り組むようになりました。PTSDもゲームを使って治療します。その場合はVRが最適です」

VRは、外傷だけでなく、PTSDを始めとするメンタルヘルス治療にも役立っているようだ。リゾの研究は、不安障害の治療法である〈疑似体験療法〉と関係している。従来の疑似体験療法は、患者の想像力に頼っており、PTSDの場合は、患者に、トラウマ体験が現在進行中であるかのように語らせるのが、その手法だ。患者にとってはつらい治療だが、セラピストの指示のもと、安全な環境で、恐怖を避けるのではなく克服させるのが目的であった。

アルバート〈スキップ〉リゾ

「PTSDや、恐怖症のような不安障害の主な症状に、トラウマに関する出来事の回避があります」とリゾは説明する。「恐怖や不安の原因を避ければ、一時的に安心できるので、避け続けます。患者の脳はトラウマを過去の出来事として捉えられません。今は安全な環境にいるのに、トラウマに結びつく事象に傷つけられることはない、という現在の状況を理解できないのです」

疑似体験療法は精密科学ではないため、定量的な関係性を実証できていない。同時にすべての患者が回想を得意としているわけでもない。一方、VRを使えば、患者は徐々にトラウマの原因に慣れていくので、感情的な記憶に向き合い、乗り越えられる。戦争をテーマとしたゲーム、例えば『コールオブデューティ (Call of Duty)』や『バトルフィールド (Battlefield)』などは、ユーザーの復讐心をあおる恐れもある。しかし、リゾの治療法では、患者の体験を模したシナリオを使い、彼らのペースで不安と向き合わせるのが目的だ。

サムスンのGear VR など、手頃なVRヘッドセットの登場によって、メンタルヘルス治療の領域は広がり、より多くの患者が治療を受けられるようになるかもしれない。2016年初め、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン (University College London)とカタルーニャ高等研究所 (the Catalan Institution for Research and Advanced Studies)は、VRのセラピーを通じて、うつ病患者が〈セルフ・コンパッション〉によって症状を軽減できる可能性がある、と発表した。予備研究 では、23歳から61歳までの15名が、週1度、8分間のセッションを3回受けた。

対象者はVRのヘッドセットを装着し、等身大のアバターの視点から、前に座っている子供を慰めるよう指示される。そのあと、患者は子供のアバターの視点に入れ替わり、大人のアバターから、自分がかけた言葉の録音を聞かされる。このセッションを1ヶ月続けた結果、9人のうつ症状が軽くなり、他の4人は「うつの重症度が大幅に下がった」という。実生活で以前ほど自己批判をしなくなったという患者もいた。

しかし、この研究は、実験群と対照群を用いた対照研究ではないのに留意しなくてはならない。さらに、15人では充分なサンプルとはいえないものの、自己批判をする傾向が強いうつ病患者を、より多く調査すれば、さらなる成果が得られるだろう。

「今では、スマートフォン対応のVR機器から、数万ドル(数百万円)のOculusやVIVE などの、10年前より遥かに高品質なヘッドセットまで、様々な機器があります」とリゾ。「私たちは、20年にわたってVRを研究してきました。ヘッドセットを患者に手渡し、手元のノートパソコンやiPadなどとワイヤレスで接続するだけで、データを記録しながらセッションを進められます。臨床医であれば利用すべきです」

2014年、カナダ政府は、リゾが開発した『Bravemind』の最新版を1万7000ドル(約190万円)で購入した。これは、2004年発売の『Full Spectrum Warrior』をもとにした、PTSD治療プログラム用のトータル・コンバージョン 。振動を伝える機器と、ディーゼル燃料、ゴミ、火薬の匂いを放つ装置も付属している。「複数の感覚を刺激されると、ユーザーはゲームの世界に引き込まれます」とリゾ。「振動を伝える仕掛けは、実はとても安価な機械で出来ています。50ドル(約5700円)のサブウーファーを4台使い、全ての音を小さなアンプから流すんです」

『Bravemind』

メンタルヘルス治療を受ける患者の症状は様々だが、リゾによれば、原則として患者に助言せずに患者の悩みや不安を聞き出す〈支持的なカウンセリング〉だけでは、何の効果もないそうだ。「『過去は気に病まないで放っておきなさい。未来を考えましょう』などと励ますカウンセリングだけでは、はっきりいって何の意味もありません。セラピストは患者を不安にさせたくないので、それを認めようとはしません。もちろん、患者に不快な思いをさせたがるセラピストなどいません。でも、トラウマを克服するには、安全な場所で、根本にある恐怖や不安を呼び起こすしか方法はない、という研究結果もあります。ハードな問題にはハードな治療が必要なのです」

リゾの見解が全ての症例に当てはまるわけではない。しかし、VRは、ビデオゲームの単なる付属品でないのは確かだ。VR技術が応用されている、うつ、不安神経症、恐怖症、PTSDの治療 法は、ほんの数例にすぎない。性能が進歩し、価格が下がれば、過去20年よりさらに多くの患者の助けになるだろう。