写真の虚構性、〈お笑い〉には不可欠な揶揄など、エンターテインメント性に富んだTAKAMURADAISUKEの作品。ここでは『OCCULT』をテーマにした新たな作品について、より深く聞く。終わることのない散歩の果てに出会った、世にも奇妙な現象や物体を切り取った写真は、みるものをどう感化するのか。何が真実で正しいのか。そんな疑問さえ、笑いに変えてしまう、TAKAMURADAISUKEのユニークな写真表現の〈隠された〉謎に迫る。

『OCCULT』より Trooper’s End,2017

前回のインタビューで、写真をみる立場によって違う写真になる、それが今回の作品『OCCULT』のテーマに通ずるものがある、とおしゃってましたが、具体的には、どういう意味ですか?

オカルトをテーマに撮り始めて、3年弱になりますが、最初は、いかにもオカルティックなものも制作していました。ダイバーの女の子を包帯でグルグル巻きにして、フィリピンの海中で幽体離脱をしてもらうとか、スプーン曲げしたスプーンの写真とか、直球のオカルト写真をセットアップで撮っていました。そして、それと同時に、スナップ撮影もしていました。当初の予定では、セットアップのものとスナップ的な手法を混ぜるつもりでした。

街でスナップ的に撮るときは、フィルターをかまして撮影してるんですか?

ハーフ版のカメラを途中から導入しました。このカメラの個体差かもしれませんが、画が滲んでいるように見えます。

『OCCULT』より The Nightingale,2015

上の赤い森の写真は、ライトを足してるんですか?

これは、カリフォルニアに住んでいる友人が、山の中で毎年パーティーをしていて、そのときの照明が写り込んでいます。

今回展示した作品で、完全にセットアップした写真はあるんですか?

この撮影のためにメキシコシティにいったのですが、通称〈泥棒市〉という、かつては盗品が集まっていたというマーケットがあり、そこで古い写真を大量に買ってきました。それから選んだ写真を複写してパープルに着色した作品は、セットアップしたものになります。

完全にセットアップした作品だけで構成できるのに、被写体を探しに外へいく理由を教えてください。

街にでて、1日中歩き回り、シャッターを切ることから何らかの充足感を得られているからだと思います。このシリーズはカメラとフィルムがあれば撮影できるので、車もなくていいですし、要するに散歩ですよね(笑)。リュックにカメラとフィルムを入れておけば、1日中散歩ができる(笑)。

なるほど(笑)。ただ、前回聞いた自己表現を写真でしたくない、という動機もあるのではないですか? セットアップすると、自分の頭の中で物事を考えて写真を撮ろうとするじゃないですか。そうすると写真が、直接的な自己表現になってしまう、という理由もあるんじゃないですか?

はい、自分で全てを管理できるものには興味はありません。

世の中にあるものとか、起こっている物事に委ねているほうが、TAKAMURAさんの写真のコンセプトと連動してきますよね。

自分とは関係ない物事が目の前で起こっていたり、ラブホテルの風景写真のように、その場所に行ったら、〈既にそこにある〉というのが好きですね。

また、今回の作品は、世間の想像するオカルトとは異なるイメージが表現されてますよね? もともと、一般的なオカルトが好きで、このプロジェクトを始めたのですよね?

前回の冒頭でも話したように、子供の頃観ていたUFO特番では「宇宙人の存在が1997年にアメリカ合衆国大統領から発表されます」といった告知がありました。本当に宇宙人が現れたら、世の中全部、全ての常識がひっくり返されますよね。地球に来ている事実からすると、宇宙人の方が有利であることは間違いない。そういうのを幼な心に想像すると、怖さと同時に、そのような光景をみてみたいという感情が湧いてきました。

みたことがないものをみたい。今の世界がころっと変わってしまうのを楽しみにしてるんですね。

そもそも宇宙的なスパンで考えると、文明社会というのは、一瞬の出来事です。宇宙の誕生は138億年前、地球の誕生は47億年前、チンパンジーとヒトが別れたのが500万年前、ヒトが農耕と定住を始めたのが1万年から1万5千年前といわれています。そして、現在、われわれが使っているような言語が発達し始めたのは3千年前くらいからだという説があります。
そう考えると、文明社会というものは本当に、一瞬のことなのだけれど、われわれは、文明の過程で得られた常識ばかりを信じて生きている。それって、よくよく考えたら、全てが滑稽で笑えますよね。少なくともヒトになってから500万年という蓄積があるのに。そういうところに興味を持って始めたのですが、オカルトを掘り下げていくうちに変化がうまれました。

方向転換するキッカケがあったんですか?

はい。今回展覧会をやらせてもらったGALLERY X BY PARCO(ギャラリーX バイ パルコ)の小林大介さんに最初にコンセプトを話したときに、ぼくは〈残像〉という言葉を使って自分にとってのオカルトを伝えていました。すると小林さんは、今ぼくが使っている〈残像〉という言葉は、写真がブレている残像のことをいっているのか? ブレていない時も、その〈残像〉が存在しているのか? と聞いてきました。僕が、ここでいっている〈残像〉とは、ブレているか否かの問題ではないということは自分のなかではっきりしていました。なので、それを明確に伝えるための言葉が必要になり、オカルトについてもっと掘り下げることになりました。小林さんには、今回、写真を極限まで言語化することの重要性を教わりました。

他にも書籍など資料を読んで探っていくのですね?

オカルト(occult)という言葉の語源はラテン語で〈隠されたもの〉という意味の言葉なのですが、作家の森達也さんの著書『職業欄はエスパー』によると、超能力のような現象を実証しようと大学の研究所で実験をすると、途端にうまくいかなくなったりするらしいんです。そうすると「ほら、やっぱり嘘ではないか」ということになる。オカルト現象というものは、そのように公の場に晒されそうになると隠れてしまう、みえなくなってしまう傾向があるというんです。現象が隠れるって面白いですよね。
その後、僕は〈残像〉という言葉を掘り下げるのですが、〈残像〉とは脳或いは網膜に残る感覚興奮なので、人間はそれを実際にみていると勘違いをします。これが一般的に使われている〈残像〉という現象です。
では写真におけるフィジカルな〈残像〉とは何かというと、先ほどの話ではないですが、シャッタースピードの長さに起因する像のブレなわけです。ただ、僕はブレた写真でもって、〈残像〉を表現したいわけではない。僕が考える写真における〈残像〉とは、感情の襞に触れるような、或いは感情を何らかのフックで引っ掛けるような何かです。しかし、〈残像〉という言葉では誤読を招く可能性があるので、僕は今回の『OCCULT』を制作している間に便宜上、その何かを〈写真的超現実 〉と呼び変えることにしました。そのような〈写真的超現実〉を含んだ写真をつくりたいと考え、セットアップとは異なる方法で表現したくなったんです。

TAKAMURAさんが、今回の作品で提示したオカルトとは、〈オカルト(隠れたもの)〉=〈残像が残っている〉=〈記憶にあるように感じる〉を写真で呼び起こすって論理展開ってことですよね?

例えば、1番上の車の写真について話してみると、路上にいい感じの古い車があって、陽の光を浴びていて、フラッシュを使って撮っているから、ホイールもボディも光っています。それが事実として認知できますが、僕はそれ以上の何かを感じてしまいます。何かざわめきや、ポジティブな不安といった不思議な感情が芽生えてきます。そして、これは僕だけに発生する感覚ではないようです。同じように感じる人もいれば、全然違うように感じる人もいますが、ひとつの写真が人間に何かを想起させる。これってすごく不思議なことだと思います。

車の写真から感じる不安だったり、様々な感情が、実はみる人に潜在的に記憶として残っているから、呼び起こされるってことですね。

そうですね。この説明が非常に難しいのですが、例えば、『ノルウェーの森』とか『世界の中心で愛を叫ぶ』など、すごく流行した小説がありますよね。僕は両方とも読んでいませんが、読んでいなくても、読んだ人の感じたものとかが、そこら中に蔓延しているはずだ、とある時から考えるようになりました。だから読まなくても、その感覚が伝わってくる気がするんですよね。僕は、それを〈NEO集合的無意識〉と呼んでいます。写真を通して共通して感じる何かに繋がるかもしれません。

なるほど。

あと興味があったのは、時間です。子供の頃から時間って、みえないし不思議です。時間は今、4次元目として考えられていたり、映画監督のクリストファー・ノーランが『インターステラー』という映画で、4次元を映像で表現しています。その流れで時間について調べていったら、時間は過去から未来に流れているのではなく、過去も現在も未来も同時に存在するという〈ブロック宇宙論〉っていう理論に出会いました。この考え方が、僕には何故かしっくりきました。
例えば、アスリートのインタビューとかで「かつて頑張っていた、幼い自分に教えてあげたいです」とか当たり前のように答えているのを聞いたことがあるでしょう。過去の自分に向けて伝えることはできないし、普通に考えたらおかしな話ですが、過去の自分に伝えたいという気持ち、それ自体は妙に合点がいきます。不思議ですよね。
あとは、ありとあらゆる事象は、みんなの中に既に記憶されていると考える〈アカシック・レコード〉という世界記憶の概念なるものもあります。嘘か本当かわからないことも含めて、そもそも僕にとっては、嘘か本当かは興味の外ですが、そういう情報を自分の写真制作に組み込んだときに、これらの考え方が実にフィットしました。「この写真いいよね」とただの車の写真を見せてるだけなのに、違う感情が呼び起こされるのが面白い。

思考遊びというか、かなり抽象的な概念で、こんがらがりますね(笑)。

この話、少し複雑かもしれません(笑)。もうひとつ、自分の写真制作と関係ある事柄を話すと、寺山修司が自身のエッセイで作家のル・クレジオとの関係について綴っているものがあるのですが、その締めくくりで、彼らの頭上に突如「平凡なセカンド・フライ」が飛んでくるくだりがあります。彼らは野球をしていたわけではないのに、突如ボールが飛んでくるのです。しかも、その飛んでくるボールは「平凡なセカンド・フライ」と命名されています。そして寺山修司は確かな手ごたえとともに「ナイス・キャッチ!」します。僕はこの文章を19歳くらいの時に読みましたが、こんなに面白い世界があるのか、と心底うれしくなりました。〈虚構で遊ぶ〉ということは、こんなにも豊かなんだ、と感心しました。

街を歩いていて、頭の中で、いきなり野球を始めても良いってことですよね。そういう虚構を思い描いて遊んだりするエンターテイメント性が、今回TAKAMURAさんが表現する『OCCULT』で描かれているんですね。

そうありたいと思っています。

なるほど。ここまで、オカルトをテーマにした作品について聞いてきましたが、TAKAMURAさんは、世界をオカルトという視点で、どうにかして捉えたいのでしょうか。ある種、TAKAMURAさんが反応する面白い事柄を写真で撮っているんですよね。それは、TAKAMURAさんの世の中の切り取りかた、つまりは、TAKAMURAさんのなかに隠れている物事の自己表現ともいえるのではないでしょうか。TAKAMURAさんは、人間と宇宙とか、人間がつくりだした社会みたいなものを、自分のなかに隠れている物事で切り取っている。それは、ある意味、TAKAMURAさん的な自己表現なんでは。

そこが写真の面白いところで「自己表現はしていません」と断言しておきながら、自己表現から完全に逃げ切ることはできません。自分が追いかけているはずだったのに、次の瞬間には追いかけられているのです。そして、そこには写真を撮る写真機とシャッターを押す自分がいます。それは50/50の関係ではなく、写真機の方が優位にある、と僕は考えます。
自分で写真機を乗りこなしているような顔をしているけど、そうではないのです。そもそも撮ったことを憶えていない写真もあるので(笑)。それを自分の写真だと人にみせる厚かましさ、いい加減さ、それも含めて写真は本当に面白いのです。

『OCCULT』より The Lost World,2017

『OCCULT』より Invisible Man,2017

『OCCULT』より The Man in Me,2017

『OCCULT』より Put Me Down,2017

『OCCULT』より The Door of Perception,2015

『OCCULT』より The Man Who Wasn’t There,2017

『OCCULT』より Time and Space,2016

『OCCULT』より Chupacabra,2016

『OCCULT』より Tubular Bells,2016

『OCCULT』より Dark Magus,2015

『OCCULT』より The Stranger,2017

『OCCULT』より Untitled Ⅱ,2018

『OCCULT』より Black Hole,2016

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