写真には、そのありのままを記録し、真実として残す記録媒体としての役割がある。卒業写真や遺影など個人の存在を表すポートレイトもそのひとつであるが、同時に戦争や事件事故をおさめた報道写真も写真の真実性があってこそ成立する例として挙げられる。
Photos by Rui Mizuki

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若き写真家が見る歪んだ世界 vol.2 水木塁

写真には、そのありのままを記録し、真実として残す記録媒体としての役割がある。卒業写真や遺影など個人の存在を表すポートレイトもそのひとつであるが、同時に戦争や事件事故をおさめた報道写真も写真の真実性があってこそ成立する例として挙げられる。

写真には、そのありのままを記録し、真実として残す記録媒体としての役割がある。卒業写真や遺影など個人の存在を表すポートレイトもそのひとつであるが、同時に戦争や事件事故をおさめた報道写真も写真の真実性があってこそ成立する例として挙げられる。

しかし、フィルムからデジタルへとカメラが進化を遂げたことに伴ない、合成などの技術がパソコンを通じて巧みに操作できるようになったことで、その真実性への絶対的価値が薄れつつある。そんな中、写真に対する真実性とはむしろ真逆の発想で、現代の社会にメッセージを発信するというジャーナリズム性の強い作品が、同時に生み出されるから面白い。
今回紹介する作品の手法は、口で説明すると、とてもややこしく複雑怪奇であるが、単純にいうと2つの写真を重ね合わせた作品。一見、デジタル合成したかに見えるが、まぎれもないストレートフォトグラフィーである。なおかつ社会に対する確かな視点とシニカルなメッセージが強く感じられる。
連載企画「若き写真家が見る歪んだ世界」、第2回目は、そんな新たな表現を模索する水木塁を紹介したい。

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この作品のコンセプトを教えてください。

抑圧されたサブカルチャーの現状を表現したいと思い、この「Flight in the cage」を作りました。手順としては、まず僕が住んでる京都の動物園に行き、檻の中の鳥を撮影します。それを京都唯一の公営のスケートパークである火打形公園スケートパークのボールにプロジェクターで投影し、再度写真撮影し完成します。僕自身、はじめてこのスケートパークに行ったときに感じた感覚をダイレクトに表現したものです。

このスケートパークに行ったときに、なにか抑圧されているものを感じたということですね。

はい。僕はスケートボードのカルチャーのなかでも、いわゆる街中で滑るストリートスタイルに魅了されて育ちました。最近、火打形公園スケートパークの近くに引っ越したということもあり、ふと立ち寄ったのですが、そのとき滑っているスケーターがすごく見世物的な感じに見えたんです。このスケートパークは、比較的大きい公園内にあって、隣には子供が遊ぶような遊具があるので、パーク全体がフェンスで覆われ、どこか小ぢんまりして見えます。そのような環境でスケートしていることが動物園の鳥を連想させたんです。スケーターは本当はもっと飛んで行きたいし、街のディテールを自由に使うものだという認識が僕にはあったので、すごく抑圧されてスケートをしているように見えたんでしょうね。

なるほど。

あと、僕はDJもするのですが、京都は風営法のためクラブの営業は深夜1時までなんです。そういう風潮もあって、不自由さを実感していたことと重なり、イメージを関連づけていったんだと思います。

確かにコンセプトも分かるし、写真もカッコイイのですが、ちょっとパッと見では、どのような写真か、なかなか理解しづらいですよね。

そうですね、まず画面自体が、今までの僕の作品の中でも特に分かりづらい構造をしていると思います(笑)。プールには水色のグラフィティーが描かれてはいますが、ボールの部分が基本コンクリート、つまりグレーなので、白黒写真を投影している動物園の写真と一緒くたに見えますよね。ただ、じっくり見ないと良く分からないということは、この作品の場合重要です。何についての作品か、別の写真や作品タイトルから少し時間をかけて観者に見てもらいたいです。そこで起こるギャップも含め、メッセージがゆっくり浸透することが理想的だと思うんです。プロジェクターで投影していない普通の写真、火打形公園スケートパークで撮ったスケーターの写真をミックスしたのも同じ理由です。また、全国の動物園とスケートパークを巡りこのシリーズを撮り溜めていくことも面白いかもしれません。

では、今後も檻の中に閉じ込められたスケーターというイメージを通して、サブカルチャーの抑圧を表現していきたいということですね。社会に対して大分反発していて不良的なアプローチなんですね。

不良的なアプローチ(笑)、そうなんですかね。ただ自分が住んでいる世界、つまり価値観、思考、趣味を分かち合えるコミュニティー内で通じる視覚言語を使って現代の社会を理解することがリアルに感じます。たとえば、ポストコロニアルの理論をサブカルチャーを通して表現するような。

いきなり難しくなりましたね(笑)。

僕が興味のあるポストコロニアルの理論は、国籍とか宗教という括りではなく、趣味趣向を通して先行するものを読み替えていく人々の共同体の在り方です。スケートと環境の関係では「シマ化」というやつです。僕のような立場でなくとも、ポストコロニアルについて理論立てて美術作品に転回している人も多いんです。

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ストリートで不良なアティテュードをテーマとしていますが、なんかすごくインテリですね。

ストリートのカルチャーも大好きなのですが、同じように美術史も好きなんです。満期修了退学ではありますが、一応大学で博士課程まで進学したので。もちろん興味があることしか勉強しないですが、基本勉強は遊びと同じように毎日するものだと思っています。そのような学問としての美術への興味から、現在は大学ではデザインと美術の非常勤講師の仕事をしています。

えっ、どんなスーツを着て教えているんですか。今日はシュプリームのビーニー被って、短パン、スニーカーって感じですよね。

いえいえ、スーツは着てないです。いつもこんなラフな感じで講師してます。おかげで良く学生にも間違えられます(笑)。教えている内容も、例えば、Photoshopをアートに応用するときの実技科目を担当しているので、座学系の授業と違い、格好は全然ラフでokなんです。

なるほど。では、写真を仕事とする商業写真は撮らないのですか?例えば雑誌の仕事とか。

お話を頂けたらやりたいのですが、ただそっちの分野は全然詳しくなくて。おそらく広告の写真や、雑誌の写真にあまり惹かれたことがないからかもしれません。例えば、ファッション誌だったら僕の場合その目的が、洋服を買うことなので、写真の善し悪しよりも、まずその洋服に目がいきます。確かにi-Dとかでウォルフガング・ティルマンスが撮っているファッション写真には先とは別のレベルで惹かれますが。今まで日本のファッション誌で良いなって思った写真に出会ったことがなかったからかもしれませんね。そういうこともあり、写真を仕事にするという発想には至らなかったんです。

それならば、好きな美術を教えている方が良いと考えたのですね?

そうですね。ただ、美術もすごく好きなんですが、僕の表現としての目標は、いわゆる大文字で現れる「芸術」という枠に縛られないものを目指しています。その方法としてサブカルチャーからのアプローチがあっても良いのではないか?ってことです。

なるほど。だからこそ、スケートボードを題材にしたり、サブカルチャーを取り巻く環境をテーマにしているんですね。

はい。フツーのアーティストにはなりたくないっていうか。ただ美術が好きな分、まだまだそこに囚われていて。いつかそこから抜け出したいなと思っています。

水木塁
1983年生まれ。京都府出身。近年の主な展覧会にPARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭 特別連携プログラム「still moving」(2015)、NIPPON NOW Junge japanische Kunst und das Rheinland(2014)などがある。

http://www.mizukirui.net