若き写真家が見る歪んだ世界、第11回目は鳶の職に従事しながら、日々の生活の中から見出すことができる普遍性を追い求める写真家、鈴木育郎の作品とインタビューを紹介します。
Photos by Ikuro Suzuki

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若き写真家が見る歪んだ世界 vol.11 鈴木育郎

若き写真家が見る歪んだ世界、第11回目は鳶の職に従事しながら、日々の生活の中から見出すことができる普遍性を追い求める写真家、鈴木育郎の作品とインタビューを紹介します。

世界的なサッカー選手がなぜ毎回ゴールを決めれるのか、技術的なことはもちろん、それだけでは説明することができない何かを感じてしまう。誰もが記憶しているだろう印象的なゴールを奪った、元日本代表フォワード選手と飲む機会があったのだが、彼が語っていたのは、日々の行いすべてがゴールを獲れるか否かに大きく左右すると言っていたことが印象的な言葉として思い起こされる。技術はもちろん、チームメイトとのコミュニケーション、自分自身の人間性が最も問われるという。その理由は、仲間から自分にいかに良いタイミングで数多くのパスを引き出すことのできるエゴや自負の強さとともに人としての信頼性、そして、ボールがこぼれてくるその場所に、1万回ダメでも、当たり前のように、その場所に行き続ける根気と忍耐などなど、数を上げれば数え切れないほど、点を獲る方法論には未知なことが多いのだそう。確かにそんな秘密が分かっていれば、そのサッカー選手も当たり前のように得点を量産し続けられるだろう。だからこそ、正直言うとすべてがまだまだ足りなすぎる、すべてにおいて努力が必要、そういった言葉が最後には出てくるのだろう。
若き写真家が見る歪んだ世界、第11回目は鳶の職に従事しながら、日々の生活の中から見出すことができる普遍性を追い求める写真家、鈴木育郎の作品とインタビューを紹介します。

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まず、写真を始めたきっかけを教えてください。

高校を卒業してから洋服のデザインをしたり、絵を描いたり、バンドをやったり、いろいろとやってきた中で、それらを通して最終的には写真に行き着いた感じです。

何か表現することに飢えていたというか、模索していくことで最終的に写真に辿り着くということですね。では表現ということに最初に取り組み始めたところから教えてください。

そうですね。もとを辿ると高校のときに当時大阪で展開していたサタン・アルバイトってブランドを好きになったことがきっかけで。それこそバイトばっかしていて稼いだ金も全部サタン・アルバイトを買うためにつぎ込んでました。のちに、そのブランドがピート・ファウラーってアーティストがデザイナーをやっていたこともあり、絵の世界に興味を持ったり、それこそスケートボードからライズ・フロム・ザ・デッドとかS.O.BとかOUTOとかのハードコアやヒップホップで言えば韻踏合組合とか、いわゆる関西のストリートシーンがすべて絡んでるってことも知るようになって音楽だったりにも興味を持つようになりました。

では、高校卒業してからアパレルの道に進むのですか?

最初にサタン・アルバイトを扱う地元の浜松の店に入ったんです。ただそこのショップはBボーイでもサイズが4Lみたいなサイズの服をバンバン仕入れる店で。日本人でそんなのいくらなんでも誰が着るのっていうか、アメリカでもデカすぎるだろうってくらいのオーバーサイズ。そもそも仕入れるのが専務なんですけど、60歳くらいで、服に一切興味がない人が仕入れてるから、当然、売れ残っちゃう。しかもレザーのアウターだったりして金額も高いし。売れ残って店頭にずっとあるから徐々に日焼けしたり、汚れたりして売れなくなって。結果朝礼とかで怒られて、先輩にもいじめられて、その店は3か月で辞めたんです。結構ファッションの世界に夢見てたんですけどね。

では違う道を模索するんですね。

洋服屋で働きながら、同時に音楽も始めたんです。それで2つのバンドを組んだんですけど、どっちもコピバンだったからすぐに嫌になって辞めて。それで、俺がボーカルやって楽曲も作ろうって新しいバンドをやるんです。アナルレイプってバンド。アナル、アナル、アナル、アナルって、ずっと言ってたんですけど(笑)。自分なりにヒップホップとかファンクとかハードコアとか混ぜて。この頃から、どこかポップでありたいっていうのがあったので、当時周りの人たちが好きだったのがレッチリだったりしたから、なんとなくそういう音楽性のバンドになっていって。今でも写真をやっていてそうですが、どこかで一般の人も立ち止まるようなキャッチーな表現、つまり伝わらないと意味がないと思ってるので、どこか歩み寄ったというと変ですけど、そんな表現を目指してます。

それを音楽の道で本格的に志すのですか。

ただバンドをやりながら自分のバンドのTシャツを作るために絵を描いていたり、それを売ったり展示する活動もしていたんです。そんな風に過ごしていたときに、荒木経惟さんの写真に出会います。写真集『荒木経惟写真全集3陽子』を観て、俺もこういうのが撮りたいって思って。しかも何にもわかってないからすごく簡単そうに見えるじゃないですか?コンパクトカメラみたいのでただパシャって撮ってるだけじゃんって。それで天才って言われるなんて俺でもできるって思ったんですよね。そしたら全然撮れなくて。すんげえ難しんだなってところから、音楽もやっていたんですが、どちらかというと写真にハマっていった感じです。それが21歳くらいのときです。

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では写真を始めた頃は、どのようなコンセプト、被写体を撮影していたのですか?

地元の上手いと思う店とか、雰囲気のある店とか、知り合いのバンドのライブとか、街でドライブしてて見つけたお気に入りの場所とか、そこで夕日や、街並みとかを撮ったりしてました。ポートレートは友だちとか、飯屋の人が多かったですね。そのときは、別に頼まれるわけでもなく、お金をもらえるわけでもなく、ただ撮ってそれをプリントして渡してってやってました。コンセプトとか特に考えてなくて、ただやみくもに撮影していた感じです。撮った写真をプリントして撮らせてくれた人に渡して喜んでる姿を見るのが好きでしたね。

生活はどうしていたんですか?

このときに最初に鳶の仕事をすることになります。鳶の仕事を選んだのも、写真をやっていく中で融通が利いたんですよね。明日休みたいって言ったら休めたし、しかも1日1万4千円とかもらえたんです。それで仕事が終わってすぐに写真を撮りに行くみたいな生活をしてました。

そんな活動をしていく中で転機となったことはあるんですか?

ひとつは22歳くらいのときに、はじめて写真集を自費出版で作ったんです。自分が書いた詩とか絵とかも混ぜながらデザインも自分でやって。

これまでファッションだったり音楽だったり、美術だったりをやってきたすべてが初めてひとつの形になったってことですね。

そうですね。もうひとつが24歳のときに鬼海弘雄さんの『ペルソナ』って写真集があるんですけど、それを見てすげえカッコイイなって思って。その表紙が裸にコートだけを羽織って、目には拡大鏡みたいな眼鏡をかけた爺さんが写っていて、キャプションには舞踏家って書いてあるんです。この人なんかすげえカッコイイなって思って、俺のmixiのトップ画にしたんです。そしたらある日誰かが足跡踏んできたから踏み返したら、『ペルソナ』の表紙と同じ画像の人だって思って、びっくりしてすぐに連絡とって。

それが吉本大輔さんだったんですね。

吉本さんは当時向ヶ丘遊園で練習してたんで、浜松から川崎までことあるごとに通って撮影してたんです。もちろん舞踏の公演とかも撮りに行ったりして。そしたらある日10月にポーランドで公演があるから、それを撮影しに来ないかって誘ってくれて。日本だと舞踏ってあまり受け入れられてないですけど、ヨーロッパだとオペラ座が超満員になって最後にはすごいスタンディングオベーションになるくらい全く扱いが違くて。だから、国際交流基金で金も出てて、その枠が一人余ってるから、お前来るかって誘われて撮影しに行けたんです。お前の写真には一切期待してないけど、お前のためになるからって言われて。

この出会いが大きかったんですね。

今振り返って見ると大きかったですね。そのあとポーランドから帰ってきて空港に着いたときに、なんとなくですが、このまま東京にいたいなって思って。それでお母さんが練馬に住んでたんで電話して、そのまま練馬に住むことにして。ただ、うちのお母さんうつ病で、俺が小学校4年生のときに男作って出て行っちゃって、出て行った先が東京だったんですが、その男とも離婚してて。そのとき中学生の腹違いの弟がいて。そこに転がり込んで歌舞伎町の居酒屋と原宿のカフェで朝8時から深夜24時までバイトして働きながら、東京の気になる人に話しかけて写真撮ってって浜松でやっていたことを基盤にしながら活動してました。このままこんな生活を漠然としていくのかなって思ってたんですけど、3.11の地震が起こって。そのときに歌舞伎町の居酒屋でも、やっぱり一瞬だけですけど、お客さんが全く来なかったんです。それでシフトが入ってるのにガラ空きだったから、店長が今週1日だけでいい、みたいな感じになって家にいる時間が増えたんです。1Kの部屋に川の字で3人で寝るような暮らしだったから、弟が反抗期だったし、いづらいなって。しかも仕事もないから金もないし写真も撮れないなって思って。本当に嫌だったし、すげえ迷ったけどしょうがないから、鳶の会社に電話して、そしたら社長が軽いノリで、じゃあ、お前明日から来るかってなって。

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ここで、再び鳶の仕事をすることになるんですね。

東京にいたいけど、鳶だけは辛いし絶対にやりたくないなって思ってて、それならお母さんの家に転がり込む方がましだと思ったくらいなので。それで中野の3DKに5人くらい住んでいるマンションに移って。ヤンキーとかヤクザとかから流れてきた人たちといっしょに住むようになるんですけど、そしたら仕事終わって帰るとみんな飲んでるわけですよ、風呂とか入る前に。お前ビール買ってこいとか言われてビールを買って帰ると1本飲めよって。そっから2、3時間、ただただ愚痴が始まるわけです。仕事終わって愚痴聞かされて、さらにヘトヘトになっちゃう。それが嫌でとりあえずビールを買ってきて、シャワー浴びたらさっと出かけて写真を撮りに行くって生活をしてたんです。

では鳶の方々の写真を撮るようになるのはいつなんですか?

鳶のなかでもいくつか職場を渡り歩いて、あるとき夜勤の鳶の現場に行くことになって、日勤と夜勤の連続が辛くて、どうしようもなくて、その夜勤の鳶の親方に写真を撮ってもいいか思い切って聞いてみたんです。それまではどこの現場でも撮らせてもらえなかったんですけど、その現場ではじめて撮ってもいいって言われて。同時に、このままの生活じゃいかんって思いもあったから、2冊目の写真集を作り始めたんです。鳶の現場でもいろいろなところに行くし、とにかく東京中をうろうろして、人のポートレートとか撮ったりして。

自費出版の写真集を作るにも相当な予算がかかると思いますが、それはどうやって捻出していたんですか?

住むとことか、そん時に付き合ってた彼女の家に転がり込んだりしながら、いろいろ助けてもらいながら、なんとか貯めていった感じです。それで、月1冊とか2冊のペースでだいたい3部くらいづつ作って、自分がいいなって思ってる店に一冊ずつ置いてもらいました。そこに来るマニアの人とか写真関係の人とか出るたびにそれを見てくれて、買ってくれるんですよね。最初は写真集の値段も5千円とかでしたけど、最近では3万円くらいで売ってたんです。そうこうして、今までで全部で80冊くらい自費で作りました。その中の鳶の人たちを撮ったものを集めた一冊を写真新世紀に送ったんです。そしたらグランプリが獲れて。

写真を仕事にしてそれで写真集のお金を捻出しようとは思わなかったのですか?

下手なんですよ。そういうの。写真に対しては商売っ気ないんです。物々交換でいいよってなっちゃう。飯おごってもらったり、それでいいかなって。あとは毎日仕事で写真撮ったり、それで忙しくなっちゃって、風景見て感動しなくなったり、疲れ果てて、うなだれてたら意味がないと思ったんです。だけど写真で飯を食っていくには、それくらいやっていかなきゃ食っていけないと思うんです。写真を仕事にして1年経って月のギャラが50万円になりましたとか。ただ俺の場合はそんなことやってる場合じゃないんです。それよりいろいろもっと見たいし、それに作品作りでいっぱいいっぱいというか。もちろん認められたいっていうのはありましたけど、食いたいとかよりも、写真展をでかいところでタダでやりたいとか、写真集を出したいとか、そういうことばっか求めてましたね。

なぜ頑なに作品作りに集中できたのですか。

周りにいる人たちのおかげですね。俺がカッコイイって思う人たちって、たとえお金を持っていてもそんなに贅沢もしてないし、そういう人たちが可愛がってくれて、金をボーンってくれて写真集作っていいよって言ってくれるわけでもないんですよ。そういうことをしない姿勢があるわけです。あとはやっぱり、金持ってるからってカッコイイのかっていうとそうでもないし、本当にカッコイイ人って貧乏でもカッコイイでしょ。だからお金じゃないんですよ。お金を稼ぐために犠牲することがすげえいっぱいあると思うから、まして今の世の中で、本物っていうのが何か分からなくなっていて、自分で探さなきゃいけない中で、金儲けに走ってたら探せないですよ。地位とかもそうだと思います。

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では写真新世紀でグランプリを獲ったこともあまり価値がないことだと。

自分がやろうとしていることで動きやすくなるってことがあるので、その部分においては大事ですよね。どっかで金払って展示するより、でかいところでタダで展示できたりとか。なにせ貧乏ですからね。そういうのはいいと思うんですけど。

また、膨大な数の写真集をリリースし続けるのは何か理由があるのですか?

自分の撮ってきたものを、どんどん消化して行って、前に進みたいって思ってるんです。そのために作ってる。だから大げさに言えば、売るためのものでもないっていうか。今の自分を整理するために、ただ精進するために作ってるわけです。自分の抱えているものを解決して行って。

鈴木さんにとって成長するってことは、具体的にどのようなことですか。

何が本物かわからなくなっている世界で、直感を磨いていくってことですかね。直感を磨いていくと発言とか行動が変わっていく。それには外に出て感じる力が大事だと思っていて、いろんな価値観を知って、それを自分で体感するってことです。例えば飯とか風景とか、人生で感動する場面なんていっぱいあるわけですよ。それぞれ着眼点はあると思うけど、どうせ、みんな歩いてる時間とかあるわけじゃないですか。それをボーっとしてるのと、夕日が綺麗だなって感じるのとは全然違うと思うし、感じられる感性が必要だと思うんです。早く家着かないかなって考えて歩いているより、今そこで起こっていることに対してすげぇなって感動してっていうのがないと面白くないと思うんです。そういう気持ちを持ってる人と持ってない人とでは写真が違ってくるし、生活も違ってくると思うんですよね。世の中で会うべき人とか、見るべきものに会ったときってやっぱ嬉しいじゃないですか。でも自分から出会いに行かなければ出会うことはないから。それを仕事が終わって家に帰って、携帯見てたり、自分の仲良い友達とか彼女とかしか付き合わなかったら、面白くないじゃないですか。俺はもっといろんなものを見たいんです。それで自分が成長していくっていうのがわかるから、今までそうやってやってきたから。

具体的に鈴木さんの写真を見ていると女の子は可愛いし、飯は美味そうだし、日々の生活の楽しさが伝わってきます。

もっと言うと、ライティングだったり、どうしてこの飯が良いのかとか、働いている人とか、店の雰囲気が良いとか、そういう条件がいろいろあって、その店が好きで、ようやく、その店の写真を撮ろうと思うわけじゃないですか。そこまで思える感性を磨かないと撮れないんですよね。テイスト・オブ・ドラゴンって名付けているこの上の雲の作品も、昔の人は絶対に雲を見て龍を描いたんだと思うんです。実在しないから実際に見たことがある人はいないわけだし、でも、なぜか龍ってものが生まれているわけで、その実態が僕はあるとき雲を見てこれだって思ったんです。そういうのも感じる力だと思うんです。可愛い女の子がいたら、声をかけなければその子の良い顔は撮れないわけですから、アクションは大事ですけど、でもやっぱ、その子を、すげぇ良いなって、モデルじゃなくてもこの子、俺としてはすげえフォトジェニックで撮りたいって思う、その情熱が大事だと思ってて、それが相手に伝わって、モデル並みに見える写真が撮れるわけなんですよ。夕日の写真も、今すごく綺麗で、女の人も2人いて最高だなって、そういう空間を見る力がないと、いろんな要素があるんですけど、構図だったり、光の感じとか全部磨いて。ただ、それを意識できたところで、すぐにバーンと写真が変わるわけじゃないんですよ。そういうことを常に毎日考えて生活することによって、どんどん変わっていくんです。だから俺も写真を始めて9年とか10年とかになるんですけど、それくらいかかるんですよ。近道がないんです。

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鈴木さんが荒木さんの写真を見て写真を始めてから、まだまだ成長し続けていきたいってことですね。

そうですね。俺が荒木さんの写真を観たとき感じたことと同じで、俺の写真を観た人もこんなんでいいのって思うと思うんですよ。飯の写真をただ撮ればいいんでしょって。それでちょっと友達のポートレート撮って、そんなんでいいんだって。誰でもできるじゃんって思ってくれればそれでいんですよ。そうやって思わせてくれる写真こそが、普遍的な写真だと思うんです。だからそれを求めてるし、普遍的じゃなきゃ意味がないとも思ってるし。

ドキュメンタリーだと人の生き死にや、SEXなどを題材にした人の極限を描いているような作品も多いですが、鈴木さんはあくまで普通にくらしている中にある何か普遍的なものを伝えたいと考えているのですね。

そうですね。俺は被写体も自分自身も何か特別なことをしなくてもいいと思ってます。アクションすることは大事だと思いますが、日々に感動している訳だから、それを見つけられれば、シャッターを押せばいいと。だから突拍子もないこと、例えばドラッグをやってる人のドキュメンタリーとかじゃなくて、もっとシンプルなところにいってるんだと思うんですよね。もちろんハメ撮りとかヌードとかやったこともあるんですけど、それよりも、単純にその子のことが好きだったり、それを絶対に忘れたくなくて、それを抱えたまま生きてるっていう写真にしたいんです。別にヌードを撮ってるからってその子に踏み込んでるわけじゃないし、人間の顔こそが、その関係性を表現するには一番現れると思っているんで。

なるほど。では、鈴木さんの写真の中で、特に印象的な鳶の方々の写真について教えてください。先ほど10代の頃は鳶の仕事が嫌で嫌でという話でしたが、今鳶の仕事をしてるときの心境はいかがですか?

今は楽しくやってますね。写真と一緒で意識が変わってきたんですよね。元々人が好きなんで、いろんな人がいるんですけど、みんな好きだし、この人はどういう人なんだろうとか、そういう感じで接すると、邪険に扱われることもなくなってきたし、最近はみんなが俺が本を出すってことを認知してきたから、いきなり撮ってくれみたいに言われるみたいな。この前紹介されたでかい現場もみんなで集合写真を撮ってくれって職長にいきなり言われたり。そうやって鳶をやっているときも、写真のことばっか考えてるから、鳶としては、はっきり言って俺はクソみたいな鳶ですけど、それなりに日々ちょっとづつ仕事は覚えてて、無事にこなしてるつもりです。だからやりがいがあるし、写真があるからって鳶はもうやんなくていいやってわけじゃないんです。そういう風に鳶やって、自分が不安定な中で世の中を見て何が大事なのか、どういう人がいるかとか、こんな面白いことがあるんだってことを感じて写真撮っていけてるんだと思います。

鳶をすることが不安定とはどういうことですか?

不安定というか、矛盾してることは自分で自覚していて。今の時代の本物は何かとか、良い光はとか、直感とかを大事にしてるくせに、一方で生活では鳶で高いコンクリを積み上げて埃撒き散らしてっていう、ひっかかりがある。食い物だって有機野菜の方が良いに決まってるし、それだけしかなくていいと思ってるけど、一方で世の中の利益主義のために毒をばらまいてる。自分もその一員なんですが、写真では本物を求めたりしてるところに矛盾というか葛藤があります。

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そんなものも含めて、ここで紹介している写真集『解業』にはすべて詰め込んだということですね?

はい。今はとにかく写真を毎日撮りたいです。プリントするために焼きで暗室に籠って作品を作り込むより、そんな時間があるなら今は撮影していたいって思うんです。プリントの時間さえも最小限にして今をどうするか、今へこだわりたいって思います。お金の余裕もなくていいし、実際に今も家もなくて居候してますけど、それでも毎日楽しいじゃんって思うから。そうやってドンドン撮って、ドンドン形にしてっていうのを行けるところまで行きたいって今は思ってます。

鈴木育郎

1985年静岡県生まれ。自費出版による写真集を約80冊ほどリリースするなか、2013年キャノン「写真新世紀」でグランプリを受賞。2015年10月より赤々舎より、月に1冊ずつ1年間写真集をリリースし続けるという「月刊 鈴木育郎」プロジェクトが進行中第一弾『解業』の詳細はコチラまで。また、2015年12月11日(金)には代官山蔦屋にて写真新世紀のトークイベントに出演が決定。