テトリスを創った男が語るソ連時代の開発秘話から現在まで

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テトリスを創った男が語るソ連時代の開発秘話から現在まで

テトリスを開発した男、アレクセイ・パジトノフに取材を敢行。ソ連時代の制作秘話、ヒットの裏側にあった権利闘争、そして世界で最も売れたゲーム開発者の生活とは?

「噴射!噴射!早く!」

ヒゲを生やしてジーンズのジャケットを着ているこの男、テトリスを開発したアレクセイ・パジトノフだ。共通の知人宅でランチを食べ、一緒にゲームで遊んだ後、彼の住むワシントンの郊外にあるベルビューから僕の自宅まで送ってもらった。あまりのスピードに身体が浮いたのを今でもよく覚えている。

ランチ中にパジトノフは、第二次世界大戦でソ連がナチスにどう立ち向かったかという話を聞かせてくれた。それから、パジトノフが好きだというロード・ランナーというクラシックゲーム愛について。さらに冷戦期に制作していた人工知能、ヨッシーのクッキーというゲーム、テトリス以外に開発しようとしていたゲームについて語ってくれた。

インターネットでアレクセイ・パジトノフと検索すれば、インタビューや記事がたくさん出てくることだろう。ただ、どの文章も、世界で最も売れたゲーム、テトリスについてしか触れていない。実際パジトノフに会ってみると、それ以外のことを聞いてみたくなった。

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まず、彼の運転はとにかく荒い。これは昨日今日の出来事ではないらしい。トーザイゲームスの代表を務めるシェイラ・ボウテンは、1990年頃ブレットプルーフ・ソフトウェアに入社した当時からの付き合いで、パジトノフのことを色々暴露してくれた。

「みんな狂ったような運転だった」。ボウテンは、モスクワで経験した、「バジトノフのソ連製フィアット紛い」での手に汗握るドライブを思い出してくれた。「アレクセイも例外じゃない。彼も気狂いみたいだったから、怖くなってお願いしたの。『気を付けて、わたし、ロシアで死にたくない』ってね」

「シェイラ!」。アレクセイは笑っていたそうだ。「死んだ方がマシだよ。ロシアの病院に入院したくないだろ」

当時のロシア人は西欧人に対してかなり冷酷だった。ペテルブルグに向かうためモスクワ駅に着いたボウテンと同僚のスコット・ツムラは、周囲を市民に取り囲まれ、荷物を取り上げられそうになったそうだ。

「本当にカオスだった。アメリカ人の荷物の中には、ロシア人が欲しいものがつまってる、と信じてたみたい。アレクセイは、私たちが乗車するまで道をあけるために、人々を押しのけてくれたわ」

モスクワの国立科学協会で働いていたパジトノフは、7時30分から8時の間に起床し、毎日深夜まで働いていたという。朝食にはソーセージと卵とカッテージチーズを食べ、10時に出社するまでに、掃除などの雑用をこなさなければならなかった。4~5人が働けるほどのオフィスに15人の研究者が詰め込まれ、かなり窮屈だったらしい。パジトノフは笑いながら、当時を振り返った。「余裕は全くなかったよ。僕の机を3~4人で使ってたんだけど、机が空かないから夜遅くまで残るしかなくて」

当時は、あらゆる研究は軍事利用を前提とされていたため、協会の研究者が自ら研究の可能性を想像することは出来なかった。しかし、当時の成果の中からは、いくつも「偉業」が生まれた。例えば、現在Siriに用いられている音声認識装置のプロトタイプ。これは、大きな重力がかかるジェット機で手を使わなくとも飛行機に指示を出せるよう開発された技術だった。

一方で、悲しい結末を生んだ研究もある。同様の機械をKGBが盗聴用に用いたのだ。国家反逆的なワードや国家批判的な単語を探知した瞬間に作動する録音装置の開発に応用された。パジトノフの同僚は「もちろん、望んでいたわけじゃない」と強調した。

そんな環境の中で、彼は人工知能は自動音声認識装置の開発に勤しんだ。

現在のパジトノフは政治に対して無関心だ。当時のロシアでは、ましてや国立科学協会で働いているからには、愛国的でなければならないという強制的な状態に違和感を抱くようになったのだという。

ボウテンは、一度、パジトノフと共に、棺に入ったウラジミール・レーニンの遺体を見にクレムリンを訪れたそうだ。「アレクセイはレーニンの横を過ぎるとき、かなり辛そうだった」

何十年か前まで、ロシアの子供たちは修学旅行でレーニンのお墓参りをし、「崇高な遺体」を抱くことを義務づけられていたらしい。パジトノフはボウテンにこう告げた。「僕はその日はいつも風邪を引いていたんだ」

「もちろん、彼がそのことをオープンに話すことはなかった。当時の状況でそんなことしたら、どうなるかわからないでしょ。でもとりあえず、一緒に行ってみることにしたの」

様々な技術を開発していったパジトノフは、自分専用のコンピューターがあった。だからこそ、誰の視線も感じずに、人工知能や自動音声認識ソフトのテストとして、ビデオゲームを創れたのだ。初期に創ったビデオゲームには、後に「マイクロソフト・エンターテイメントパック:パズルコレクション」として発売されたものもある。もちろん発売時には、ソ連でつくられている、とは知られていなかった。後のテトリス誕生には、パジトノフの地道な努力があったのだ。

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1984年、国立科学協会からテトリスが発売された。発売前より学者やコンピューター・ギークたちのあいだでは、フロッピーディスクのコピーが出回っていた。タイルを積み上げていくこのゲームが多くの知識人たちを魅了していたのだ。プラトンのイデア論を想い起こさせるような、シンプルなデザインがこのゲームの魅力だった。

1988年、ラスベガスで開かれたコンシューマー・エレクトロニクス・ショーでブレットプルーフ・ソフトウェアの創始者ヘンク・ロジャースに見いだされ、翌年アメリカで発売開始。世界を席巻するゲームとなった。推計7000万枚のソフト売り上げ、1億回のダウンロードを記録している。

ソ連は、ゲーム開発のための環境を提供したのは自分たちだ、とテトリスに関するあらゆる権利とすべての利益を、自らのものと主張した。既にパジトノフは開発者として有名となっていたが、結局、一介の労働者として、ブレットプルーフ社に合流する。パジトノフは、家族ととも、1990年にワシントンのベルビューに移住した。

それと同じ頃、モスクワでパジトノフと共にソフトウェア開発のスタートアップ企業、アニマテックを立ち上げたウラジミール・ポコヒルコもアメリカへの移住を決意。彼の名前がテトリスのクレジットに載らないこともあるが、商業的展開の成功は、ポコヒルコによるところが大きい。1990年にシカゴで合流した2人は、ボウテンが手掛けた展示会でテトリスを発表。会場でアレクセイとウラジミールは楽しそうに踊っていたという。

パジトノフが西側の暮らしに慣れるまでかなり時間がかかったようだ。ボウテンが始めてスーパーマーケットに連れて行くと、「何個まで買っていいんだ?」と戸惑っていたらしい。ボウテンの助けを借りつつ、パジトノフは歯医者の予約を取り、駐車料金を支払い、早口で話すビジネスマンたちとも話せるようになった。

ある日突然、FBIがオフィスにいたパジトノフのもとを訪れ、KGBとの関係を問い糺した。ソ連の極秘計画を聞き出そうと、パジトノフの妻をも調査しようとした。しかしFBIは、パズルゲームのことばかり考えている幸せそうな技術者から聞き出せる情報などない、と悟ったのか、その後は顔を見せなかった。

ボウテンによれば、彼はいつだって「その瞬間に生きている」。世界中の人を魅了しただけのことはある。彼はいつだって楽しそうだ。

ソ連が崩壊した1996年、複雑な法手続きを経てテトリスの権利を手にしたパジトノフは、マイクロソフト社のX-boxのプロトタイプ制作に取り組んでいた。ソ連時代と同じように、9時から10時の間に出社し午後1時半まで働いた後、ランチを取り、22時から23時まで働いていたという。12~14時間も働くなんてアメリカでは考えられない。

「働くのに慣れちゃったんだね。働いている間はずっとこのルーティンだったよ。これが僕のライフスタイルなんだ」「疲れるときもあったけど、そういう時は少しだけゲームをやるんだ。それで気付いた。仕事はさっさと終わらせるべきだ」

パジトノフは、アイデアマンとしてプロジェクトの責任者を務めており、もうコードを書く必要はなかった。しかしX-boxの開発に邁進するマイクロソフトには疑いを抱いていた。「僕はパズルゲームが好きだったから、不運だったのかもね。X-boxはパズルゲーム向きじゃない。そもそもシューティングゲームは嫌いなんだ。もっと静かなゲームを創りたかった…マイクロソフトは、ゲームの本質を掴んでない。専門家も足りないし、最適な人材も揃ってなかった。僕は会社で疎外感を感じていたよ。(X-boxを開発していた)最初の数年間は特に最悪だった。せっかくいい企画もあったのに、彼らはそれを全部打ち切ったんだ。僕の気持ちは粉々だったよ…彼らのプロジェクトに僕は必要とされてなかった。僕のプロジェクトに参加して欲しいメンバーもいなかったけどね」

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パソコン向けのパズルゲームが続々開発される中、マイクロソフトは戦争ゲームの開発に勤しみ、X-box史上最も成功したゲームソフトHaloが2001年に発売された。ようやくゲーム事業が軌道に乗った頃だった。パジトノフはある決断をする。「マイクロソフトの株とテトリスの著作権料で、もう働く必要がなくなったんだ。マイクロソフトはどうでもよくなった」

彼はすぐに会社を辞めた。しかし2005年、マイクロソフトはX-box360用のパズルゲーム開発のため、パジトノフを呼び戻した。社員としてではなく、委託を受けるていで仕事を引き受けた。

「Hexicは結構面白かった。でもマイクロソフトは短期的な利益を得るためだけに、このプロジェクトを遂行しようとしていた。もっとよく考えれば、寿命を延ばすのだって簡単なのに。僕も僕の同僚も協力的だったけど、それじゃみんなの努力が水の泡だよ」

その裏で、彼の旧友ウラジミール・ポコヒルコに悲劇が訪れていた。1998年、日刊紙サンフランシスコ・コンソールが報じたところによれば、ポコヒルコは寝ている妻をハンマーで殴り、包丁で何度も刺したという。同時に息子も殺害し、最後には自らの首を斬って命を絶った。彼が何故事件を起こしたのか、真相は闇のままだ。

いま彼は、穏やかな日常を過ごしている。朝起きたら腕立て伏せと腹筋をして、コーンフレークを一皿食べる。毎日やってるゲームをした後は、Skypeでビジネス関係の人間や友人と会話をしてメールをチェック。それからファンタジーやノンフィクションの本を読んだり、テレビを見たり。一日の大半はゲームをして過ごしているという。現在進めているプロジェクトは特にない。「頭の片隅にいくつかアイデアはあるけどね」

デザインをするときはパソコンを使わない。ノートと鉛筆があればいい。「夕方になると、テニスをしに出かけるよ。お酒を飲みに行くこともある。家でゆっくりテレビを見たり、本を読んだり、それが僕の日常。エキサイティングなことなんて何もない」