史上初の女性ハイジャッカーのはなし

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史上初の女性ハイジャッカーのはなし

ハリドが〈テロリスト〉なのか〈自由の戦士〉なのか、という議論は、相対的にならざるを得ないが、彼女の、パレスチナへの確固たる献身と情熱に、議論の余地はない。「私はイスラム教の家庭に生まれました」と彼女。「とはいえ、狂信的な信者ではありません。私が狂信的になるのは、パレスチナとパレスチナの人々に対してです」

1969年8月29日、25歳のレイラ・ハリド(Leila Khaled)は、トランス・ワールド航空840便のコックピットに乗りこみ、パレスチナ解放人民戦線(Poplar Front for the Liberation of Palestine, 以下PFLP)のメンバーとして飛行機をジャックした。その後、彼女は、〈アイコン〉、〈テロリスト〉として名を馳せる。

パレスチナのハイファに生まれたひとりの女の子が4歳の誕生日を迎えた1948年4月9日、ユダヤ民族軍事機構(Irgun、イルグン)、イスラエル解放戦士団(Lehi、レヒ)、2つのシオニズム系軍事組織により、100~250人のパレスチナ住民が虐殺された。デイル・ヤシーン(Deir Yassin)事件として知られている。この虐殺により、女の子の家族は、祖国で8人の子どもを安全に育てるのは不可能、と判断し亡命を決意し、事件の数日後、その女の子〈レイラ・ハリド〉は難民になった。そして、21年後、彼女は世界で初めての女性ハイジャッカーとなる。

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デイル・ヤシーン事件は、パレスチナとイスラエルの紛争史上、初の大規模パレスチナ人虐殺だ。しかし、それは悲劇の序章に過ぎなかった。1948年、その事件を切掛に、パレスチナ人の脱出が始まり、1カ月後にイスラエルが誕生した。同国の建国は、アラビア語で〈災厄〉を意味する〈ナクバ(Nakba)〉として知られている。ハリドの両親は、子どもたちが安全で正常な環境で暮らせるよう、亡命を望んだ。歴史が証明するとおり、故郷に残るより亡命するほうが安全だ。とはいえ、難民としての暮らしに、苦労や危険が伴わないわけではない。ハリド家はパレスチナを後にして、ベイルート南郊外のダヒヤ地区にある、1948年以来、数千人のパレスチナ難民が暮らすキャンプに向かった。サブラ、シャティーラの大規模難民キャンプと同じく、ダヒヤの治安も不安定で、頻繁に襲撃が発生した。イスラエル軍と、ファランヘのような、レバノンのキリスト教右派民兵による襲撃だ。その地域は貧しいエリアで、住民の大半が難民、もしくは、下層階級のレバノン人だった。4歳のハリドは、そこで新たな生活を始めることになった。

2016年6月、72歳のレイラ・ハリドにSkypeでインタビューする機会を得た。彼女は現在、ヨルダンに住んでいる。彼女は、自宅のリビングに座り、細いフレームのメガネをかけ、白い刺繍で伝統的デザインがあしらわれた鮮やかなピンク色のシャツを着ている。中東精神の象徴である黒と白の模様が入ったスカーフ〈クーフィーヤ(keffiyeh)〉を纏い、AK-47を構える、軍服に身を包んだ若きハリドの有名な写真とは正反対の出で立ちだ。彼女は、訓練で初めて使った手榴弾のピンでつくった指輪をはめている。

ハリドは、先行きの不確かな祖国と家族のなかで暮らした自らの幼少期を「惨めだった」と簡潔に表現する。最初に家族がパレスチナを離れたとき、彼女の父親はパレスチナのために闘うべく、故郷に残ったそうだ。彼が家族に合流したのは、家族が祖国を離れた半年後だった。成長してからは、いつも両親にこんな質問を「どうして私たちはこんな生活をしているの?」「いつ家に帰るの?」

今のパレスチナを知る向きにとっては、「いつ帰れるのか」という質問は世間知らずのようでもあるが、当時の状況は少し違った。1948年12月、国連決議194が採択され、「故郷に帰還し、隣人とともに平和に暮らしたい、という難民の願いは、早急に叶えられるべきである」と宣言された。しかし、イスラエルは、宣言に応じず、ハリドや他の難民の子どもたちは大人になるまで「いつ帰れるの」という質問を繰り返すことになる。

多くの難民、特にダヒヤ地区の難民と同じように、ハリド家も貧困に直面した。ハリドは当時を振り返った。「新品の鉛筆1本を握ったことはありません。いつも半分の長さの鉛筆でした。母が1本の鉛筆を切り、子どもたちみんなが使えるようにしました」。それでも、レバノン在住の親戚がいたハリド家の状況は、他の難民たちよりも恵まれていた。親戚が、レイラと家族に住居と食料を提供してくれたのだ。とはいえ、他の難民たちと同じく、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の支援を受けていた。

ハリド曰く、1950年代後半の地域の雰囲気は「国民精神の高揚」に呼応していた。彼女も、地元で頻繁に催されるデモに参加した。パレスチナ人の苦境について、世間に認知させるのがデモの目的だった。それこそ、彼女が、能動的パレスチナ人レジスタンスになるキッカケだったのだ。彼女の年上の兄弟姉妹は、パレスチナ解放を目標の1つに掲げたアラブ民族主義運動(Arab Nationalist Movement)に参加していた。10代前半の彼女は、ANMに参加し闘うのを許されなかったが、兵站任務に従事した。16歳になると、彼女は正式メンバーとして認められた。

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1967年、23歳の彼女は、母の反対にもかかわらずパレスチナ解放人民戦線(PFLP)に加わる。サラ・アーヴィング(Sarah Irving)の著書『Leila Khaled: Icon of Palestinian Liberation』によると、ハリドの母は彼女に「戦うのは兄弟に任せなさい」とアドバイスしたそうだ。しかし、レイラ・ハリドは運動の外にいるのを良しとしなかった。「武装して運動に参加する、それこそ私の夢でした」

PFLPは米国、EUからはテロリスト組織とみなされている。組織の政治的傾向については、非宗教的でマルクス・レーニン主義である、と説明される。ハリドによると、PFLP発足、男女問わずレジスタンス活動への積極的参加が求められていた。1969年のハイジャック作戦参加の指令は、彼女にとって、PLFPが男女共同参画を掲げていることの証であった。

1969年8月29日、ハリドは、PFLPのメンバー、サリーム・イサウィ(Salim Issawi)とともにローマ発テルアビブ行のトランス・ワールド航空840便をハイジャックした。ハリドは機内に手榴弾と銃を持込んだ。飛行機が高度が雲を越えるとすぐに2人は武器を取り出しコックピットに向かった。同便の副操縦士、ハリー・オークリー(Harry Oakley)によると、「パレスチナ国民運動がお前たちの飛行機を乗っ取った」と告げたそうだ。パレスチナ上空を通過したのち、2人は、シリアのダマスカスへ向かうよう支持した。「人生最良の瞬間でした」とハリド。「パレスチナの上空に達し、私の町、ハイファを眺めた瞬間です。もちろん〈ハイジャック〉ではありません」

若い女性の人生が終わる、そうでなくとも完全に変わってしまうような任務を遂行するときであっても、ハリドには不安はなかった。「むしろ逆です」と彼女。「自分の祖国のために何かができる、それが悦びだったんです」。ハイジャックの目的を尋ねると、ハリドは率直に応えてくれた。「パレスチナ人とは誰なのか、という疑問を全世界に突きつけるためです。1948年以来、私たちは人道的支援を必要とする難民として扱われ、帰還する権利も認められませんでした。また、世界各地で囚われた同胞を解放するのも目的でした」

着陸すると、ハリドとイサウィは、ボーイング707から脱出し、そしてイサウィは空になった機体の先端部分を爆破した。「誰にも危害を加えてはならない、と指示されていました」とハリド。「乗客を傷つけてはならない、操縦士や乗務員には礼節をもって接し、彼らを怯えさせてはいけない、と命じられていました」。もちろんハリドは、彼女の行動が、無実の乗客たちを、当然怖がらせてしまた、と自覚している。ただ、彼女にとって、乗客たちの一時的な怯えは、パレスチナ人の受苦を世界に知らせるための小さな代償に過ぎなかった。

2009年のレイラ・ハリド. Photo via Wikimedia Commons

アメリカ同時多発テロ以降の世界では想像しにくいが、1969年当時、ハイジャックは新しい戦術であり、現在のように、死刑判決が下されるような行為ではなかった。トランス・ワールド航空840便の乗客を映した記録映像には、彼らの比較的落ち着いた姿が収められている。ハリドとイサウィに理解を示す乗客さえいた。着陸後の乗客のインタビュー映像のなかで、ひとりの男性が、「アラブ人女性や子どもを死に追いやった責任を負うべき、イスラエルの暗殺者が飛行機に乗っていたんだ。2人の目的は、暗殺者をアラブの友好国に連行し、公正な裁判にかけることだった」と予想していた。この男性が「暗殺者」と呼ぶのは、イツハク・ラビン(Yitzhak Rabin)だ。当時、彼は駐アメリカ・イスラエル大使であり、840便搭乗を予定していた。しかし直前にスケジュールは変更され、搭乗がキャンセルされていたのだ。このように理解を示す乗客もいたが、乗客の大勢は怒り、震えていた。

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6週間にわたる、断続的なハンガー・ストライキと尋問を終え、ハリドとイサウィは解放された。2人の拘束中にシリアがイスラエルと交渉した結果、イスラエルの刑務所に収監されていたパレスチナ人たちが解放された。それにより、ハリドに熱狂的な注目が集まった。彼女は、大勢のパレスチナ人のヒーローになり、パレスチナの現状を世界に知らしめた。それは、ハリドが任務の成功を実感するのに充分な結果だ。

しかし、2人に賛同しない人々もいた。そのなかには、パレスチナ人もいる。当時ハリドがそれを認識していたか否かは定かでないが、ハイジャックから数年すると、パレスチナのレジスタンス活動が「テロリズム」と結びついてしまった。パレスチナ・レジスタンスの国際社会でのイメージを、彼女の任務が決定付けた、と大勢が否定的に捉えた。パレスチナ人は支援が必要な難民ではなく、同情不要のテロリストとみなされてしまった。2006年、パレスチナ系スウェーデン人の映画監督リナ・マクブル(Lina Makboul)のドキュメンタリー映画『Leila Khalad: Hijacker』が完成した。この作品のラストで、監督はハリドに尋ねている。「あなたの行動が、パレスチナ人の悪印象を形成してしまう、と考えなかったんですか?」

そこでインタビューは終わる。「彼女の答えをカットしたのは」、監督によると、「実際そんなこと、大した問題じゃないのを見せたかったんです。彼女は実行したんですから」

しかし、私は、彼女から、カットされた答えを教えてもらった。「監督には、とはいえパレスチナの苦境を軽んじてはいない、と答えました」

ハリドは彼女が達成した任務を誇りに思っていた。1年後、彼女は再びハイジャックした。しかし、それは別の結果をもたらした。

1度目のハイジャックのあと、すぐにハリドは、パレスチナの抵抗勢力のアイコンとなった。彼女の有名な写真でデザインされたポスターが印刷され、ヨルダン川西岸地区、ガザの難民キャンプ、離散先の各地に貼り出された。彼女は有名人になったが、厄介な問題が2つ発生した。

まず、彼女は、私的な名声など欲していなかった。実際、彼女は状況に困惑していた。「『鏡の前に何時間座ってるの?』なんて質問をされたりもした」とハリドはいう。しかも、「あたかもまっとうな問いのように」。彼女はよく、回答を拒否したそうだ。「事件の動機についてなら、悦んで答えました」と彼女。「問題の根本は、なぜ争いが起きるのか、誰が誰を抑圧しているのか。メディアを通じて、世に問いたかったのはそれなんです。彼氏がいるかなんてどうでもよかった。そんな質問、何の意味もありません」

世間に面が割れ、PFLPメンバーとしての活動が困難になってしまったのが、2つ目の問題だ。1970年、彼女は、新たなハイジャック任務が与えられていたが、すっかり有名人になったせいで、以前のように旅客機に搭乗できなくなってしまったのだ。しかし、パレスチナ問題に取り組む姿勢は急進的だった。1回目と2回目のハイジャックのあいだに、ハリドはレバノンで計6回の整形手術を受けた。

1970年9月6日、ハリドは、PFLP参加を志願したニカラグア系アメリカ人男性、パトリック・アルゲジョ(Patrick Argüello)とともに、アムステルダムからニューヨークに向かう旅客機ハイジャックを試みた。しかし、初回とは勝手が違った。コックピットに乱入し、機体を爆発させる、と脅迫している最中に、手榴弾2個と銃1丁を携行していたハリドはが警備員と乗客の体当たりで宙に浮いた。アルゲジョは彼女を守るべく、発砲した。しかし、彼自身も撃たれ、致命傷を負った。また、ハリドへのアタックと同時に、エル・アル航空219便の操縦士が機転を利かせ、機体の急降下させていたので、彼女はバランスを失い、武器を持っていたにもかかわらず隙ができてしまった。

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2人の行動は、PFLP旅客機同時ハイジャック作戦のいっ環だった。(ドーソン基地とは、ヨルダンにある廃墟となった滑走路で、ハリドとアルゲロは飛行機をその場所に着陸させることになっていた) ハリドは男たちに倒され、肋骨を折られた。アルゲジョは死亡した。飛行機はロンドンに緊急着陸した。ハリドの自伝『My People Shall Live』に彼女は記した。「私が殺されるべきだった。私の闘いであり、彼は応援にきただけだった」

病院に搬送されたあと、ハリドはイギリス当局に身柄を拘束され、取り調べを受けた。その間、PFLPはハイジャックした他の旅客機の乗客をドーソン基地で人質にとり、乗客たちのそれぞれの出身国と交渉を進めようと画策していた。数日後、人質の大半はヨルダンの首都アンマンで解放されたが、PFLPはそのうち40人をイスラエル軍の隊員で「戦争捕虜」だとして解放しなかった。9月30日にはイギリス当局はPFLPの交渉条件の一部としてハリドを解放した。また、ヨーロッパの刑務所からは複数のパレスチナ囚人が釈放された。

ハリドは解放後、自らの安全に常に気を配りながらも、ベイルートに戻り活動を再開した。1970年11月、解放から2ヶ月も経たないうちに、彼女は結婚した。相手は、彼女に銃器の取り扱いを教えた、PFLPの軍事司令官だ。彼は、祖国イラクで、共産党に参加した咎により、10年のあいだ収監されたた経験もあった。しかし、幸せなはずの結婚生活も長く続かなかった。ヨルダン国内の緊張が高まるとともに、ハリドの夫は、仲間と闘わなければ、とプレッシャーを感じたために、夫婦関係は崩壊し始めた。夫同様、ハリドがイスラエルの脅威を無視できなくなり、身を隠すことを決めると、結婚生活の破綻は明らかだった。ふたりは離婚を決意した。

1973年、ハリドはベイルート、シャティーラ難民キャンプへの移住を決めた。(シャティーラは、約700〜3500人の死者を数えた「サブラ・シャティーラ事件」と呼ばれる1982年の大量虐殺の現場として知られている。死者数にこれほどの幅があるのは、犠牲者が共同墓地に葬られたうえに、レバノン政府が調査を実施しなかったからだ)。彼女は、自らに集まる世界中の関心に嫌気がさし、隠遁を望んだのだ。「四六時中注目されているのに耐えられなかった」と彼女。「だからサブラ・シャティーラ難民キャンプに移住しました。市井で暮らし、働くためです」

リナ・マクブル監督のドキュメンタリーのなかで、ハリドは、監督とシャティーラを訪れるのだが、ヒーロのように歓迎されていた。彼女が仲間をたずねてキャンプ内を歩くと、「あなたの隣を歩くことをずっと夢見ていました」と彼女に声をかける男性がいた。彼女を指差し、「レイラ・ハリドって知ってる? テロリストだよ!」とふざける住人もいた。

40年以上も前に起きたハイジャックの実行犯として、ハリドは有名だが、事件以来レジスタンス活動からは完全に遠ざかっている。事件後、彼女はパレスチナ女性労働組合(General Union of Palestinian Women)、パレスチナ民族評議会(Palestinian National Council)のメンバーとして活動を続けていた。〈脅迫〉はもはや生活の一部であり、時折、襲撃を受けもした。1975年のクリスマス、ハリドが自宅に戻ると、彼女の姉妹のひとりと、その婚約者が銃撃され、死亡していた。本当に狙われていたのはハリドだった。

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1978年、ハリドはレバノンを離れ、ソ連で歴史を学び始め、そこで2番目の夫と出会う。医学生であり、PFLPのメンバーでもあったフェイエズ・ヒラル(Fayez Hilal)だ。彼女が歴史の勉強を始めて2年後、組織から召集がかかった。彼女はレバノンに戻り、パレスチナ解放機構(PLO)のオフィスで働くことになる。1980年代、ハリドとヒラルは、バダールとバシャールという子宝に恵まれた。

女性レジスタンスとして活動するのは決して簡単ではない。母親であれば、なおさらだ。彼女は、パレスチナ女性を代表することを期待されていた。「私は、誰にも見向きもされない、女性たちの声にならなければなりませんでした」と彼女は話す。ただ、闘いの犠牲になったのは、性別に関わらず、全てのパレスチナ人だ、という意見を彼女は曲げない。「不公平を実感し、誰が抑圧者なのか意識する。男性であろうと女性であろうと、人間として振舞わなければなりません」「男性は命懸けで闘った。女性も命を懸けた。性別に関わらず、みんな投獄されました」

現在、ハリドは、イスラエルの占領に対抗するパレスチナ人レジスタンスだけでなく、パレスチナ女性運動のアイコンにもなっている。「革命は、パレスチナ女性のイメージも変えました」と彼女。「女性も、男性と変わらず革命に参加しています。革命に必要とあらばなんでもします」

宗教について質問するとハリドは、自分の敵はユダヤ教ではない、と断言した。2度目のハイジャック後、ロンドンの病院に搬送された際、担当警察官が、主治医はユダヤ人だ、と教えてくれたのだが、彼女は特に気にしなかった。「私の敵はシオニストであり、ユダヤ人ではありません」。のちにそのようにサラ・アーヴィングに話した。「その警官は、両者の違いがわからないようでした。説明するのに本当に骨が折れました」

現在の有名なテロリスト組織と違い、ハリドが所属したPFLPは、宗教とは一線を引いている。ハリドへのインタビューは、7月のラマダン中だったが、彼女自身はそこまで信心深くない、と教えてくれた。「イスラム教、キリスト教、ユダヤ教、何教徒であろうと、それは個人的な問題です」。イスラムの教えを実践しているかを訊ねると、こんな答えが返ってきた。「私が実践するのは、人間性に備わった価値観です。その価値観はイスラム教でも言及されています。『正直であれ、貧者を救え』」

ハリドは〈アラブ=マルクス主義ハイジャック犯〉とも、〈自由の戦士〉とも呼ばれ、テロリストからもヒーロー視されている。彼女に、テロリズムの定義を訊くと、「占領」と言明した。クーフィーヤで大雑把に頭部を覆った若い女性よりも、Skypeの画面に映るレイラ・ハリドは、多くを経験したが、基本的には変わっていない。ハリドが〈テロリスト〉なのか〈自由の戦士〉なのか、という議論は、相対的にならざるを得ないが、彼女の、パレスチナへの確固たる献身と情熱に、議論の余地はない。「私はイスラム教の家庭に生まれました」と彼女。「とはいえ、狂信的な信者ではありません。私が狂信的になるのは、パレスチナとパレスチナの人々に対してです」