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30年間、殺人現場を歩き続けた男 酔いどれ事件記者、小林俊之の真情告白

「事件を起こす奴はだいたい飲んべえだから、写真を捜すにはスナックのママを口説くのが一番なので。飲み屋に行けば誰かしら関係者がいるんです」

小林俊之さん(62歳)は、事件一筋30余年のベテラン記者だ。写真週刊誌全盛期のフライデーでの活躍で知られている。小林さんは事件記者の仕事を「酒でも飲まなきゃやってられない」と言うが、ただの酒飲みにも見える。そんな疑念を抱きつつインタビューした。果たして、殺人事件という究極の修羅場を取材し続けた男の、心の深部まで近づくことができたかどうか……。

小林さんは経歴が少し変わっていますね。まえがきによると、酒を飲んでいて知り合った記者に誘われたのがこの道に入るきっかけだとか。

結婚して西武線沿線に住むようになって、駅前のスナックで雇われマスターをやっていました。店にはヤクザも来るんだけど、俺はまだ若かったからバカにされてさ、神経がまいっちゃった。それで水商売をやめて堅気になろうと、町場の印刷所に入りました。仕事が終わると毎晩飲みに行って、モツ焼屋で週刊女性自身の記者の松崎博和さんと知り合ったんです。田中角栄を陰で支え“越山会の女王”と呼ばれた佐藤昭の取材の他、たくさんスクープを出した人です。すぐに意気投合して、銀座のクラブにも連れていってくれました。俺はまだ24歳だったから、記者って凄いなと舞い上がっちゃいましたよ。ある日、「記者にならないか」と言われましたが、俺はそのときフリーランスでやっていく勇気がなかった。結局、松崎さんを頼ったのはその5年後なんです。俺が3人の子持ちになっているのに驚いてましたが、「しゃあねーな。俺の下でデータマン* やってたことにしておけ」と言って、ある編集プロダクションを紹介してくれました。そこで1年半ぐらい週刊大衆の仕事をしたんです。

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経験者として入れるようにしてくれたんですね。試験はありましたか?

「作文ぐらい書けないと記者にはなれんぞ。なんでもいいから書け」と言われて書きました。覚えてないけど、お題はあったかな。

話は前後しますが、ご出身は北海道ですよね。

稚内の南の天塩郡、酪農家が多いところです。本当に僻地でさ、俺がいた町は人口が3500人ぐらい。中学生のころは上級生とばかり遊んでました。そいつら家は金持ちなんだけど頭が良くないから旭川の私立高校に進学して、ワルさを覚えて地元に帰ってくる。そんな悪い先輩たちに教えられて、タバコもシンナーも中学からやっていました。

シンナーは気持ちいいもんですか?

気持ちいいというか、丸一日記憶が飛んだこともあります。実の父親は公務員で俺が3歳のときに亡くなったんですが、おふくろは若かったので血のつながっていない親戚の年下の男と再婚しました。子供の俺たちが3人きょうだいだったから、育てるためにまわりがくっつけたんでしょう。新しい父親は大工だったから家にシンナーはごろごろしてました。金物屋にもあったし、いまと違って簡単に手に入ったんです。ちょうどシンナーで死ぬ子供が出始めたころで、社会問題なっていました。地元にもボンドでおかしくなった先輩がいて、小さな学校だから大変でした。それでシンナーはやめていたんだけど、高3のときに久々に同級生と吸いました。そしたら女の子にチクられちゃった。一緒にやってた仲間はみんな運動部で、野球部のキャプテンもいたから、バレると大会に出られなくなる。俺は美術部だったからひとりでやったことにしたんです。校長は退学させたがったけど教頭以下みんなが味方してくれて無期停学になりました。

減刑されてよかったですね。

無期停学だったけど毎日午前中は学校で作文を書かされました。

また作文ですね。文章で伝えるコツは作文で摑んだとか?

それを言うなら作文より日記です。中学生のときから62歳のいままで日記をつけてます。不良少年だったけど、タバコやシンナーを吸って見つかっては反省して、「なんて俺は弱い人間なんだ」とか日記に書いていました。キリスト教の懺悔のようなものです。今回の本は日記がないと書けませんでした。読めば、いつどこに取材に行き、何があったか全部わかりますから。

週刊大衆の「男と女の死角」* のデータマンをされていたときのことをお聞きします。作家たちの厳しい要求に鍛えられたと書かれていますが、具体的にはどんな要求でしたか?

例えば、富山で起こった事件のデータ原稿を渡したときに、「小林君、富山駅を出て振り向いたら立山連峰見えた?」と聞かれたことがあって、これが作家の眼かと感心しました。人物の風貌や格好はもちろん、景色に至るまで作家さんがイメージできるディテールを求められるんです。容疑者の家がボロかったとしたら、「トタン屋根は錆びてた?」と聞かれる。作家さんに言われたことは、その後の記者人生の肥やしになりました。この本でも宅間守のオヤジの格好を書いているでしょ。週刊大衆のころからの癖なんです。

〈半袖の白シャツに明るいブルーのジャンパー、薄い生地のナイロンのジャージ姿は、この前と同じだった〉となっています。では、附属池田小事件* からお聞きします。小林さんはフライデーの記者として犯人の宅間守の父親を兵庫県伊丹市の実家に訪ねます。〈宅間守を知るためには、この父親と語りたいと思った〉と書かれていますが、どうしてそう思いましたか?

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加害者側の取材対象は宅間のオヤジしかいなかったんです。オヤジがマスコミの前に出た理由は、自分の妹を取材攻勢から守りたかったから。どこの取材班もオヤジの妹さんが近くに住んでいることを知っていました。いまは犯罪になるけど、当時は他人の戸籍謄本を簡単に取れたんです。妹さんはたまったもんじゃない。それでオヤジはマスコミに、「取材は全部受けるから、妹のところには行くな」と言ったんですよ。はじめ俺は被害者担当で、葬儀をまわって被害者の写真を捜していました。担当が変わって宅間の実家に行ったのは事件発生の4日後です。最初にオヤジを見たときは下着姿でわーわー言ってるから、大丈夫かな? と思いました。他の取材班が帰りはじめたとき、「お父さん、ちょっと話聞きたいから今晩行っていい?」と聞いたんです。「何時でもかめへんで」と言うから、19時すぎに行きました。奥さんは老人ホームに入っていて、オヤジは一人暮らしでした。その日は事件のことは一切話しません。オヤジは社会党の支持者で労働組合員だったことや、同じ鹿児島県出身だから好きなのか、明治時代の海軍大将の東郷平八郎のことなんかをべらべら喋っていました。「わしの頭はコミュニストだが心は右翼だ」なんて言ってましたよ。俺の実の父親が海軍の少年飛行兵だったことを言ったら、オヤジは戦争の話が好きだから乗ってきたんです。これはイケると思っていたら案の定、「明日来る?」と帰り際に聞いてきた。次の日は夜の12時に行って朝6時までいましたが、初めて事件の話を聞きました。そうやって取材を繰り返すうちにオヤジの家で一緒に酒を飲むようになって……。

最初から飲んだわけじゃないんですか?

飲んだのは数日たってから。あのころオヤジは憔悴しきってげっそりしていました。あとから聞いたけど、1カ月で10キロ近く痩せたそうです。お茶しか飲んでなかったから。「しんどい」と呻いているので、「オヤジ、ちょっと待ってくれ。30過ぎた男が事件起こして、親がそこまでやる必要あんのかよ」と言ったんです。オヤジは「そうか」とだけ答えました。それで朝方に飲みはじめたんだけど気がついたらべろべろになっちゃった。朝、集まった取材陣の前でオヤジが「フライデーの記者と飲んじゃったよぉ」と言うからヤベェなぁと思ったけど、言ってしまったものはしょうがない。肚を括りました。すぐに文藝春秋社が難癖をつけてきました。「フライデーの記者が、こういう事件を起こした犯人の父親とビールを飲んで、いかがなものですか?」と。

そりゃそうなりますよ。

事件直後のフライデーは守が買ったデリヘル嬢の独占インタビューを載せました。その女からタレコミがあって、大阪の記者が取材した記事です。オヤジは「さすがフライデー」と嬉しがってました。その後、横顔ならいいと言うので撮影して、オヤジの顔写真が初めて雑誌に載ったんです。フライデーに負け続けの前提があったから、文春はじめ他社は面白くなかったんでしょう。

バッシングに対するフライデー編集部内の反応はどうでしたか?

「ふざけんな、バカ」「悔しかったらやってみろ」ってなもんです。

事件から十数年経過しましたが、この本を書くことを宅間の父親に知らせましたか?

事前に電話で説明したら、オヤジは「書くのかぁ」と悲しそうな声で言いました。オヤジは前から「俺が死んでから書けよ」と言っていました。だから、オヤジが書くなと言ったことは書いていません。オヤジの奥さんはもう亡くなりましたが、裁判でも彼女の証言は一切とれていないんです。書けないぐらい酷い話があります。それはオヤジが亡くなっても書けないでしょう。

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本庄保険金殺人事件の八木茂容疑者が選んだ記者ランキング第2位は小林俊之記者 Photo by 結束武郎

本庄保険金殺人事件* の章を読むと、八木茂容疑者と小林さんの距離がとても近く感じます。八木は自分の店に連日報道陣を集め、有料記者会見を開きました。そして好感度記者ランキングを発表し、小林さんは2位に指名されています。そのときのことを〈恋する乙女でもあるまいし、わたしはちょっと動揺、そんな己に呆れてしまった〉と書かれていますが、動揺した理由は?

1位だと思っていたのに2位だったからです。自分が恥ずかしくなりました。八木さんは「本当はナンバーワンなんだけどさ、いろいろあって。小林さん悪いね」と言っていましたが。

しかし、八木がこれまで取材者を遠ざけていた本命の愛人の家に「泊まっていきなよ」と誘ったとき、小林さんは理由をつけて断っています。

「そうか、帰るのか」と呟いた八木さんが本当に寂しそうで、びっくりしました。当時は八木さんを犯人だと思って取材しているわけだから、泊まりに行くと取り込まれるんじゃないかという恐怖があったんです。

有料記者会見中の八木茂(右)。共犯の武まゆみ(左)とカレン(仮名・中)の姿も Photo by 結束武郎

そして2000年に八木ファミリーは逮捕。2001年に八木の愛人で共犯とみられていた武まゆみ、加藤京子(仮名)、フィリピン人のカレン(仮名)にそれぞれ無期懲役、懲役12年、懲役15年の判決が出ます。翌2002年には八木茂に死刑判決。そして同年、小林さんは武まゆみの手記『完全自白 愛の地獄』* の出版に関わっています。その理由は?

武まゆみが書きたいと言ったからです。面会で聞いたときは無理だと思いました。単行本にするには300枚(400字詰原稿用紙換算)以上必要でしょ。そう言ったら、まゆみは自ら独居房に移って書きあげました。講談社の出版部に原稿を渡したら一発で出すことになって、俺は事件のあらましを書かされました。フライデーの取材をしながらホテルで書いて、本当に大変でしたよ。

八木には不利な内容です。

八木さんは怒っていました。

八木にとっては裏切り行為ともとれる出版ですが葛藤はありましたか?

なかったですね。あのとき八木さんと会っていたらいろんなこと考えて、別の展開があったかもしれないけど、接見禁止で会えなかったから。ただね、これまで本を書いたことのない武まゆみが、嘘やでっちあげで1冊書けますか? 偽りのストーリーは、よっぽど才能ないと書けないでしょう。まゆみは素直に書いたんだろうなと思います。

2004年5月、小林さんは東京拘置所に八木の初面会に行き、その後、面会と文通を繰り返し取材を続けます。武まゆみの本の一件があったものの、小林さんと八木のあいだの不思議な親しみが文章から伝わってきます。

八木さんが面会室でヨガをやるんですよ。看守はうんざりして、俺に早く帰ってくれという顔をしていました。ところが再審請求が受理されて、殺されたAさんの臓器の再鑑定が決まった(2013年12月)じゃないですか。看守たちもヤバいと思ったんでしょう。あからさまに態度が変わりました。どうこう言っても結局は奴ら公務員なんです。看守たちも“八木さん”と“さん”づけで呼ぶようになりました。その後、再審が却下(2015年7月)されましたが、面会に行くと八木さんは「サービス頼むぞ」と看守に言って、面会時間を30分に延長させていました。未決囚は通常15分なのに。凄い人だなと思いましたよ。

“さん”づけといえば、八木茂を本文で“八木さん”と記されていて、はじめ読んだときは一瞬ですが違和感がありました。

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「親愛を込めて八木茂氏の呼称を“八木さん”とします」とか、文章で断っておけばよかったと、あとから反省しているんです。

このままでよかったと思いますよ。

トリカブトのことを自白し、犯行のすべてを記した本を出した武まゆみですら、拘置所から送ってくる手紙に“八木さん”と書いています。いまでもそうです。人懐っこいし、なんともいえない魅力があるんですよ、八木茂という人には。

“さん”づけ以外でも、小林さんは〈胸にこみ上げるものがあった〉、〈今でも忘れられない〉、〈胸が詰まった〉、〈何だか嬉しくなってしまった〉と、文章で八木への感情移入を隠していません。

そうか、書いているほうはそこまで考えてないんですよ。

この本のなかの八木茂の存在はとても大きいですね。

八木さんの再審が棄却され、50歳になったカレンが満期で出所して日本を去っていくというタイミングがよかった。ひとつのケジメというか、これだったら書けるなと思いました。正直なところ八木さんに関しては、シロかクロか半々だと思っています。

50%ですか。冤罪の可能性を高く見積もっていることが意外です。

武まゆみの自供が八木冤罪説のネックになっています。カレンは出所してからフィリピンに帰るまで1カ月ぐらい入管にいたので、何度か面会に行きました。そのときカレンは自らの供述を覆している。「何もやってない。本当のことを言いたかったけれど、検事が怖くて言えなかったの」と。俺とまゆみはいまでも文通していて、カレンが否定したことを手紙に書きましたが、まゆみはそのことについて一切触れないんです。昔のまゆみだったら、「しょせんフィリピーナだから」とか書いてよこすはず。そこがどうしても気にかかるんです。

本庄保険金殺人事件だけで1冊書こうと思いませんでしたか?

いや、八木さんは再審請求しているから、それに影響することは極力書きたくなかったんです。審理をしなおして決着がついて、武まゆみが出所したら、八木さん冤罪説を書こうかな。まゆみはもうすぐ出そうなんですよ。彼女は模範囚で、全国の女囚の作文コンテストで第2席を獲りました。高卒の資格を取るために猛勉強していましたが、もう取れたんじゃないかな。いまは点字を夢中になって勉強しています。物凄く頭のいい女性です。

この本には取材中に小林さんが感じた、極限状況のなかの緩んだムードのようなものが書き込まれていて、事件のリアリティを増している気がします。例えば、宮崎勤の東京・埼玉連続幼女殺害事件* 。カーラジオの臨時ニュースで事件を知った小林さんが五日市警察署に急行したときの状況はこう記されています。〈署員全員がテレビを見つめていた。名刺を出すと「うちの署は関係ないので何もわからない」、そして「家はあそこだよ」と秋川の対岸を指した〉。

管轄が違うとそんな感じです。本を書くことになったとき、あの場面はまず入れようと思いました。堅苦しいノンフィクションにはしたくなかったので。

本全体を通して、小林さんがお酒を飲んでいる場面も多いですね。酔っ払っての失態も隠していない。堅苦しさゼロのノンフィクションです。

週刊誌記者はアホなことばかりやってることがわかったでしょ。ほぼ酔っ払って取材してました。というのも、事件を起こす奴はだいたい飲んべえだから、写真を捜すにはスナックのママを口説くのが一番なので。飲み屋に行けば誰かしら関係者がいるんです。人口6千人から1万人程度の街だと、事件現場の近所の酒場に行けば、事情を知っている人間と必ず会えます。大都市は無理だけど。

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情報を持っているスナックを選ぶコツは?

店名を見ればだいたいわかります。ネーミングでママのセンスがみえる。くだらない名前あるじゃないですか。“再会”とかさ。そんな店に行ってもろくな奴いません。俺も雇われマスターやってたから店の外観を見れば客筋はわかります。ここだと思ったら、毎日通って大金を使うんです。当時、経費は使い放題でしたから、ボトルを入れて一晩中飲んで、常連客にも飲ませる。そういう店を何軒か見つけるんです。毎日酒浸りのボロボロで、泥酔して駅のホームで立ちションしてトラ箱* に入れられたこともありますよ。

熊谷男女4人拉致殺傷事件* に関与した少女Aの初公判の場面はこう書かれています。〈背中に大きな犬の刺繍がされている、ガルフィーの黒のトレーナーを着たAは、聞き取れないほど小さな声で人定質問に答えた。逮捕当時金髪だった頭はすその部分をだけを残し、ほとんど黒髪に変わっていた。緊張しているのか、両指でせわしなくパンツを上下させていた〉。法廷内でのAの佇まいが伝わる描写ですが、小林さん、ガルフィーの服なんてご存知なんですね。

犬でしょ。教えてもらいました。あれを法廷に毎回着てくるから大顰蹙だった。Aのお母さんは、「顰蹙買うのわかってて着てるからしょうがないんです」と言ってました。逮捕後にAが書いた母親宛の手紙を読んだけど、しっかりした文章を書く子です。もう出所しています。

この事件では監禁から生還したふたりの女性が法廷で、犯人の尾形英紀を「死刑にしてほしい」と断言しています。そこを読んだときに、被害者の心の傷の深さを想うと同時に、憎悪の強さにぞっとしました。尾形の他、この本に出ている殺人犯では、宮崎勤と宅間守、小林薫の死刑が執行されています。小林さんは日本の死刑制度についてどうお考えですか?

基本的には死刑廃止論者です。冤罪が起こったら取り返しがつかないから。それに逮捕後2冊の本* を出した宮崎勤のような、語る言葉をもっている人間をスパンと殺してしまうのは、法的に正しかったとしても、腑に落ちないんです。人を殺した人間の言葉は貴重な資料じゃないですか。あとは心情的なことなんですが、自分の子供を殺されたとして、その殺した奴が死刑になったからといって、それで納得できるのかなと思ってしまう。

私も死刑は廃止したほうがいいと思いますが、子供ができてからは、子供が殺されたら、殺した奴を殺すのはしかたないと思うようになりました。

自分が殺すんだったらいいと思うでしょ? 俺も子供ができたとき、そう思いましたよ。人の命を奪うってことのさ、凄まじさというのかな……いつも考えていますよ。でも難しいよな。死刑に関しては結論が出ませんね。

帝銀事件* の平沢貞通は1947年に逮捕、1955年に死刑が確定後、37年もの長きにわたり刑が執行されないまま、1987年に八王子医療刑務所で亡くなりました(享年95)。この事件、小林さんはどのぐらいの確率で冤罪だと思っていますか?

平沢さんは100%冤罪だと思っています。

100%冤罪の立場の小林さんにとっては敵だといえる、平沢を逮捕した居木井為五郎元刑事に取材されています。「逮捕した手錠を持っているそうですが」と事実をいきなり突きつける場面は刑事顔負けですね。

居木井さん、びっくりしてました。手錠を持ち出したことを知っている人はあまりいなかったんです。だってかっぱらいでしょう。手錠はいまでもピッカピカで、元刑事の執念を感じました。居木井さんは面白い人でね、俺、聞いたんです。「居木井さん、易者さん頼んで捜査したって噂を聞きましたよ」と。そしたら「バカヤロー!」と怒鳴られました。でも、そういう話はよく聞きますよ。政治家だって本当に判断に困ったときは易者に頼むんです。エラソーにしていてもしょせん人間なんですよ。帝銀事件に関しては、平沢さんが亡くなる前に周辺取材もして記事を書いたけどフライデーではボツになりました。

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獄死後、アパートに還った平沢貞通の遺体と小林俊之記者

小林さんがフライデーの記者になったのは85年でしたね?

そう、御巣鷹山(日本航空123便墜落事故)の年です。フライデーに入った途端、記者の名刺出しただけでキャーキャー言われて、まるで芸能人みたいに扱ってくれるから驚きました。どんな田舎に行ってもフライデーというだけで喜んで取材協力してくれたんですよ。ところが翌年12月のビートたけし事件以降は一転して取材がやりにくくなりました。みんなたけしの味方。それが庶民感覚だから仕方ないとは思いますけど、世間は身勝手すぎると思いましたよ。

カメラや録音機材、手帳や筆記用具の他に、取材に持っていく物はありますか?

フライデーに入った最初のころは数珠を必ず持っていってました。殺人事件ばかり取材していると精神のバランスが崩れそうで、心の拠り所を求めたんだと思います。まともな死じゃないですからね。殺された人の家族は、わんわん泣いている。遺族に会うのも加害者側の人間に会うのもつらくて、取材した日の夜はいつも泥酔です。酒でも飲まなきゃやってられないですよ。でも、なんだって慣れてしまうんだな。そのうち数珠は必要なくなりました。酒のほうは相変わらずだけど。

仕事を辞めたいと思ったことはありますか?

そんなのしょっちゅうです。人の不幸を扱う仕事じゃないですか。遺族の家に行って「写真ください」と言うのは、それは厳しいものがあります。でも、手に入れたときの喜びがデカい。それが記事になって写真週刊誌全盛のころなら何十万部も売れるわけじゃないですか。写真がなかなか手に入らないときに担当編集者の泣きそうな声聞くとさ、なんとかしねぇとなと思うよ。手に入ったときは、電話口で編集者が声を詰まらせることもありました。

テレビや新聞の記者と週刊誌の記者の性質は違いますか?

一番しつこいのは週刊誌の記者だと思います。フリーランスだから執念があって、諦めないし手抜きもしない。それは凄いです。写真捜すのだって、いまは犯人がFacebookなんかにわざわざ自分の写真を載せているけど、昔はFacebookどころかプリクラもデジカメもありません。現像したフィルムからプリントした写真を持っている関係者を洗っていくしかなかった。でも、「うちの子が生きていた証を載せてください」と言って、殺された子の大事な写真を貸してくれる親御さんもいました。「いい写真を載せてください」とお母さんが写真を出してくれる。そんなことが何度もありました。

そもそも今回、本に書いて残そうと思った動機はなんですか?

俺しか見てないことや、みんなが見て見ぬふりをしたことは、ちゃんと書いておこうと思いました。例えば、宮崎勤の部屋を撮影するとき、テレビカメラマンが「画作り」をしたこと。部屋には雑誌が散乱していたけれど、エロに直接結びつくものはなかった。それでカメラマンが性犯罪者の部屋の「いい画」を撮るために、他の雑誌の下にあった『若奥様のナマ下着』というエロ漫画を上に置いて撮影したんです。気持ちは理解できなくもないけど、やっちゃいけないことだよな。

ビデオや雑誌が散乱する宮崎勤の部屋でテレビカメラマンは「画作り」をした Photo by 小林俊之

逆に書かないでおこうと思ったことはなんですか?

自分の主観はなるべく書かないようにしました。容疑者や被害者の家族がもし読んだら、その人たちを傷つけてしまうんじゃないかと思って。事件で、まず想うのは家族の姿なんだよな。

記者会見で泣き崩れる加藤智大(秋葉原通り魔事件)の母親 Photo by 小林俊之

小林さんは相手が殺人犯でも、その人の人生を否定していない気がします。

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自分では気がつかなかったけど、言われてみればそうですね。否定はしてなかったです。事件記者を30年やりながら、なんでこの人、こうやって人を殺してしまうんだろうと、いつも思っていました。答えは出ないけど。奈良小1女児殺害事件* の小林薫だって、10歳の彼が、弟(三男)が生まれたときに書いた詩を読むと、どうして……という言葉しかないんです。だけど俺は犯罪学者じゃないから答えを見出せない。

母親が難産で亡くなり、生まれてきた弟に捧げた小林薫の詩。〈おまえが生まれたときに出血多量で死んだ。おまえはお母さんの身がわりだから大切に育ててやる〉という。この本でその詩を読んで、小林薫に対する見方が少し変わりました。

「子供と奥さんのどっちをとるか」と産婦人科医に聞かれて、父親は子供を選んだそうです。それを取材で教えてくれた近所のおばさんは「子供はいつでも作れるじゃないですか」と父親のことを咎めるように言う。これまた酷い話だけど、言われてみればそうなんです。でもそれ以上は書けませんでした。しょせん事件記者だから、踏み込んじゃいけないと思うしね。

死について書くのと同様に、生まれてくることについて書くのも難しいかもしれないですね、とくに今回のような本では。

こんなこと言うのは抵抗があるけど、宅間守に関しては、もって生まれたものが影響している気がします。オヤジの奥さんはお腹に守ができたとき、「お父さん、この子を産みとうない。あかんねん」と言った。それをオヤジが頼み込んだから守はこの世に生を受けました。オヤジは俺の前で口には出しませんでしたが、無理に産ませた苦悩があるようでした。科学で解明されていないし断定できないけど、奥さんにはメスとしての生物的な勘のようなものがあったのかもしれない。厳しい話です。

産まれたばかりの宅間守を抱く父親の写真

出版後、この本に出てくる人たちから何か反応はありましたか? 例えば、宅間守の父親とか。

本を送って電話したら留守電でした。事件後いろいろあって、オヤジは電話をナンバーディスプレイに変えたんです。だから俺からの電話だとわかっているはずだけど、出なかったし返信もなかった。でも、オヤジの気持ちを考えたらさ……よくぞ書いたとも言えないでしょう。それっきり電話していません。

八木と女たちはどうですか?

本は送りました。拘置所の八木さんからも武まゆみからもリアクションはありません。カレンはフィリピンからメールをくれました。「小林さん、出版おめでとうございます。今度は私の番です」と書いてありましたよ(笑)。

小林俊之
1953年生まれ、北海道出身。30歳を機に脱サラし、週刊誌記者となる。写真週刊誌全盛期のフライデー(講談社)で活躍。現在も殺人事件を中心に取材・執筆する他、帝銀事件平沢貞通の再審請求活動に長年関わっている。

『前略、殺人者たち 週刊誌事件記者の取材ノート』
小林俊之(ミリオン出版)定価:本体1500円+税
収録されている事件/大阪教育大附属池田小事件、秋葉原通り魔事件、松山ホステス殺人事件、東京・埼玉連続幼女殺害事件、奈良小1女児殺害事件、本庄保険金殺人事件、愛知・新城JC資産家殺害事件、首都圏連続不審死事件、熊谷男女4人拉致殺傷事件、帝銀事件、奈良母姉殺傷事件