なぜお腹が鳴ると恥ずかしいのか

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なぜお腹が鳴ると恥ずかしいのか

なぜあのとき、昼食をとらなかったのか。私は鳴り止まないお腹を必死でおさえ、恥ずかしさに押しつぶされそうになりながら、いま猛烈に後悔している。なぜ、お腹が鳴ると恥ずかしい気持ちになるのか? お腹が鳴り、恥ずかしさを感じているときの心理について、羞恥心に詳しい、菅原健介教授に助けを求めた。

時刻は昼の12時をすぎ、仕事にひと区切りつけた同僚たちが、昼食を買うため席を立ちはじめた。昼過ぎまでに片付けなければならない作業に追われた私は、昼食を食べないままデスクに残った。なぜあのとき、作業を中断して昼食をとらなかったのか。私は鳴り止まないお腹を必死でおさえ、恥ずかしさに押しつぶされそうになりながら、いま猛烈に後悔している。

個人差はあるかもしれないが、私はお腹が鳴ると、みんなが私をクスクス嘲笑っているような、居心地の悪さを感じる。なぜ、お腹が鳴ると恥ずかしい気持ちになってしまうのだろうか? 『人はなぜ恥ずかしがるのか』著者、聖心女子大学文学部人間関係学科の菅原健介教授に助けを求めた。

なぜ、お腹が鳴ると恥ずかしくなるのでしょうか?

〈恥ずかしさ〉とは、自己の社会的なイメージの崩壊の危機を知らせる警報サインです。人間は、集団なしには生きていけない社会的な動物です。その社会からはみ出さないようにするためにつくられた心のシステムが、〈恥ずかしさ〉なんです。ひとりでいるときに、お腹が鳴っても恥ずかしくないですよね? 恥ずかしさは、他者がいて初めて感じるようにできています。

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「お腹が鳴ると、私のイメージが崩れる」と感じるから、恥ずかしくなるんですね。

そうです。ただし、お腹が鳴るように、自己の社会的イメージがマイナスの評価になる場合も恥ずかしさを感じますが、自分への評価がプラスになる場合でも、恥ずかしいと感じることはありませんか? 例えば、みんなの前で表彰をされたときです。

確かに、表彰をされて自己の社会的イメージは上がっているはずなのに、恥ずかしさは感じますね。

恥ずかしさは、大きく分けて〈恥〉と〈照〉の2つの成分に分けられます。人間は、自分の評価が下がったときは〈恥〉の成分が高い恥ずかしさを感じ、逆に自分に対する評価が上がったときは〈照〉の成分が高い恥ずかしさを感じるようです。お腹が鳴った恥ずかしさは、自分の評価が下がっているので、〈恥〉の成分が高い恥ずかしさだといえます。この資料は、感情による表情の変化をまとめた表です。

眉、目、口の形、赤面の有無など、いろいろな要素を組み合わせつくられた表情が、どんな感情を表しているかを評定した表。他者からの評価が肯定的か否定的か、その評価を受容するか否認するかで表情が変化する。

縦軸は、上にいけばいくほど〈恥〉の成分が高く、横軸は、右にいけばいくほど〈照〉の成分が強く現れています。そして、他者からのプラスの評価、マイナスの評価を自覚しているかどうかで、表情が変わります。表の左上、自分への評価が下がったとき「確かに私は、そういう評価に値するな」と自覚し受け入れた場合は、表の〈ハジ〉のような表情が現れます。逆に左下は、自分への評価が上がり、それを自覚し受け入れるので、〈非ハジ+非テレ〉、いわゆるドヤ顔になります。右上は、自分への評価が下がり、それを否定しますので、テヘヘ、と戯けてごまかすような〈ハジ+テレ〉の表情が現れます。本当の私ではない、と切り離そうとする意識です。右下は、自分への評価が上がり「いや、それほどでもありません」と否定しようとするときの〈テレ〉の表情です。

お腹が鳴ったとき、私はまさに表の左上の〈ハジ〉顔をしている、と初めて気がつきました。

人間は他者からの評価を受け止めているかどうか、表情でフィードバックをしているので、表情だけでも違いがみえますね。それだけ、人間は自分への社会的評価を重要視しているんです。

しかしなぜ、くしゃみは恥ずかしくないのに、お腹が鳴るのは恥ずかしいのでしょうか?

個人差はあるかもしれませんが、くしゃみよりもお腹が鳴るほうが恥ずかしい、と考えるかたはいます。こちらの表は、電車のなかで、見知らぬ乗客に気づかれたら恥ずかしい生理現象についてのアンケート調査結果です。

縦軸が恥ずかしさの程度です。〈おなら〉を気づかれるのが恥ずかしいという回答が最も多く、続いて〈いびき〉〈腹音〉〈げっぷ〉〈しゃっくり〉〈あくび〉〈くしゃみ〉〈せき〉という結果になりました。どうしてこのような結果になるのか、明確な答えは出ていません。しかしそれぞれの音の違いを考えると、回答が多かった〈おなら〉〈腹音〉〈げっぷ〉は、身体のなかから出される音です。それに対して〈あくび〉や〈くしゃみ〉は、声の延長、声帯を通して出される音と考えることができます。身体のなかからの音は、消化器官の音であり、排泄を連想しやすく、不衛生、汚いと捉えられるから、くしゃみよりもお腹が鳴るほうが恥ずかしく感じるのではないか、と考えられます。もうひとつ、〈お腹の音〉に限定するならば、お腹の音は、せきやくしゃみと比べて非常に小さな音です。なので、静かな環境でなければ聴こえないんです。会議や法事など、みんなが静かにしていなければならない規範があるようなシーンでお腹が鳴ると、注目が集まる、あるいは注目が集まっていると思い込み、恥ずかしくなるのでしょう。

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回答の少なかった〈くしゃみ〉〈あくび〉〈しゃっくり〉は、うまくすれば女性をカワイイ、と思わせる武器にもなる気がするのですが、どう思いますか?

確かに、その可能性はありますね。それに比べて〈おなら〉〈いびき〉〈お腹の音〉〈げっぷ〉は、特に女性性というジェンダーイメージからずれている、社会的期待を裏切っていると捉えられてしまう、というのはあるのかもしれません。人間関係は、お互いの立ち位置が定まってから初めて成立します。自分は相手にとってどういう立ち位置であり、他者からどのような期待を受けているかを認識し、その期待に応えることで人間関係を築いているんです。

では、人間以外の動物は恥ずかしさを感じないのでしょうか?

〈恥ずかしさ〉が、自己の社会的なイメージを守るための心のシステムだとするならば、人間特有の感情なのではないか、と私は考えています。恥ずかしさに限らず、感情は心拍数や脳波など、生理的な指標で測定できますが、私が恥ずかしさの研究をするときには、本人がどのくらい恥ずかしいと感じたかを重視します。少なくとも、人間ほど恥ずかしいという感情を頻繁に感じる動物はいないでしょうね。

人間は、生まれながらにして恥ずかしさを感じるわけではないですよね? どのタイミングから、恥ずかしさを認識するようになるのでしょうか?

海外の研究ですと、だいたい1歳半くらいだといわれています。怒り、恐怖、喜びなど、生得的な感情を持ち生まれてきた赤ちゃんは、だいたい1歳半くらいになると、自分を客観視するようになります。そういった自意識に伴い、共感や嫉妬などの複雑な感情が芽生え、やがて社会のルールを認識するようになると、プライド、罪、恥が生まれます。自己認知の能力の有無と、恥ずかしさには相関があるんです。

では、自意識過剰でプライドが高いほど、恥ずかしさを感じやすいんでしょうか?

それは近いようで少し違います。プライドが高い人は、プラスの評価を得たいと考えます。〈プラスの評価を得たい〉と〈マイナスの評価を避けたい〉は全然違うんです。プラスの評価を得るためには目立たなければならず、逆にマイナスの評価を避けるためには、目立ってはいけません。人間は、目立ちたい気持ち、つまり自己顕示欲や承認欲求というアクセルと、恥ずかしいというブレーキの2つをうまく使い分けながら、対人関係を築いています。

恥ずかしい、とブレーキを踏みすぎることで、身体的、精神的になにか影響はあるのでしょうか?

感じたくない感情であることは確かですよね。そのぶんだけ、自分の社会的なイメージが崩壊しそうになるわけですから。しかし、ブレーキがなくなってしまったら、自己の外側のコントロールができなくなります。例えば、お酒を飲むと、恥ずかしさを感じる前頭葉が麻痺して、ブレーキがきかなくなり、醜態を晒してしまうこともあるでしょう。なので、恥ずかしさを感じなくなればいいわけではありません。ただ、恥ずかしいから、と行動をしなくなると、自分の殻を破れなくなり、新しい人間関係を築くことができずチャンスを逃す、という可能性もあります。また、恥ずかしさは自分の危機を知らせるものなので、被害を免れるため、防衛の方向に舵をきってしまい、攻撃的になったり、過剰に自分を傷つけてしまう可能性がある、という研究者もいます。

お腹が鳴ったときの恥ずかしさを乗り越える方法はありますか?

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お腹が鳴ると、確かにその瞬間はとても恥ずかしいかもしれませんが、その一瞬をなんとか耐えてください。その瞬間が過ぎてしまえば、みんな忘れてくれます。社会学者のアーヴィング・ゴフマン(Erving Goffman)が打ちだした〈フェイス・ワーク〉という概念によると、人間は集団全体の機能が低下しないように、意識せずとも誰かの失敗をフォローするそうです。例えば、誰かがオナラをした、誰かのお腹が鳴った、そんなとき、みんなどうしていいかわからなくなり場が凍りますよね。しかし、そこで下手に動くと、集団が崩れてしまいます。なので、図らずともお互いに無視し合う、何事もなかった、気がつかなかったかのような顔をする。みんなが自然とそういった対応をすることによって、その瞬間は次のフェーズに進む、というメカニズムが人間にはあるので、そのメカニズムに任せるというのがいちばんいいのではないか、と考えます。

「誰かのお腹が鳴っても無視しよう」とわざわざ決めなくても、自然と空気を読んで無視することが多いですね。

そこで、お腹が鳴ってしまった本人が「あ、お腹が鳴っちゃった」と発言をして、引き取ってくれる相手がいればいいんですが、そこで誰も引き取らずにシーンとしてしまうと、ますます混迷を深め、みんなどうしていいかわからなくなってしまいます。なので、みんなが無視をするか、もしくはみんなが大いに盛り上がってくれればいいわけです。仲のいい友達同士であれば「お腹鳴ったでしょ〜」と笑い合うことで、ひとつのエンターテイメント、会話として成立し、お腹が鳴ってしまった本人もほっとできます。どちらに転ぶかは、状況や相手次第なので、一種のギャンブルですね。

恥ずかしさとうまく付き合っていくためのアドバイスがあれば教えてください。

お腹が鳴ったときの恥ずかしさは、とにかくその瞬間が流れるのを待つ。フェイスワークが作用して、みんなが流してくれるのを信じてください。どうしてもお腹が鳴りやすい人は「お腹鳴ったでしょ?」と誰かにツッコまれたときに、みんなが盛り上がるような気の利いたセリフを2、3つ用意しておくのもいいかもしれません。自分のなかに、〈目立ちたい〉というアクセルと〈恥ずかしい〉というブレーキがあり、その2つがバランスよく常に動いているんだ、と自分を捉えなおしてみてください。まぁ、お腹が鳴ったからといって人格が否定されるわけではないので、そんなに気にしなくてもいいとは思います。