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世界で初めて上梓した17世紀の〈超パンク〉な女流作家

先進的な考えを抱いていた彼女は、大勢の最初期のフェミニストと同じだった。すなわち、彼女は、女性たちに失望していたのだ。彼女は、自らの著作をみんなに読んでもらいたい、世間に自らの考えを広めたい、と願っていた。
Image courtesy of Catapult

ダニエル・ダットン(Danielle Dutton)は、自身の小説『Margaret the First』のなかで、マーガレット・キャヴェンディッシュ(Margaret Cavendish)という野心的で、規格外で、時代を先取りすぎた17世紀のイギリス人作家の激しい人生、そして、彼女が抱いていた不安を紐解いている。

作家ネル・ジンク(Nell Zink)を発掘した出版プロジェクト〈ドロシー〉(Dorothy)の創始者、ダニエル・ダットン。彼女が〈超パンクロック〉と評するのは、本名で書籍を出版した最初の女性である。その名は、マーガレット・キャヴェンディッシュ。彼女は、17世紀に生まれた。2016年3月15日に〈カタパルト〉(Catapult)社から発売されたダットンの小説『Margaret the First』には、彼女の生きざまが記されている。

ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)は、有名なエッセイ『自分だけの部屋』(A Room of One’s Own)で、ジェーン・オースティン(Jane Austen)からブロンテ(Brontë)姉妹、そしてシェークスピア(Shakespeare)に匹敵する才能を有しながらも、それを発揮する機会のなかった彼の架空の姉妹など、歴史に残る女性たちについて記している。実在したか否かにかかわらず、文学史における女星のなかにあって、「マーガレット・キャヴェンディッシュが抱いていた孤独のヴィジョン、思考の放縦さには驚かされる!」と評している。ダットンが著書で表現しようとしたのも、孤独と思考の放縦さだ。この10年あまり、ダットンは、他の小説を書いていようと、博士号をとろうと、子どもを産もうと、出版社を立ち上げようと、マーガレット・キャヴェンディッシュの物語を書き続け、そして、完成させた『Margaret the First』は、すばらしい出来だ。あまりに急進的だったために、人生を通して周りから相手にされず、〈マッド・マッジ〉(狂ってるマーガレット、の意)と呼ばれ、ヴァージニア・ウルフをして「賢い女子たちを怖がらせる〈バケモノ〉になった」女、と言わしめたひとりの女性の生きざまを、同小説は、少ないページながら、濃厚に表現している。

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ダットンのこの小説をジャンル分けするとしたら〈歴史小説〉になるだろうが、時代に先行してしまった女性への視線は、実に現代的だ。「あの時代に戻って、どれが想像でどれが事実なのかはっきりさせるのは困難ですが、それでも[この小説は]彼女の人生に間違いなく肉薄しています」と出版前のインタビューにダットンは応えてくれた。ダットンの応えは、読者にとって朗報だ。キャヴェンディッシュは、非常に印象深いキャラクターであり、ダットンは、できる限り事実に忠実に作品を完成させたのだから。キャヴェンディッシュのような人物たちが初めて成し遂げた偉業を想像だけで表現することは、実にたやすい。しかしダットンのすてきな小説が、実在の女性の人生に忠実であると知ると、この本は、いっそう魅力的になる。

1623年、イングランドのコルチェスターで、8人きょうだいの末っ子として生まれたマーガレット・ルーカス(Lucas)。父親は、マーガレットが2歳のときに死去し、彼女は母親に育てられた。「なんでもこなす有能な母親のもとで育ったのでしょう」とダットンは語る。「また、エリザベス1世のお話を聞いて育っているはずなので、〈強い女性〉のイメージには事欠かなかったでしょう」。他にも、ルイ13世の母、マリー・ド・メディシス、スウェーデン女王のクリスティーナ、そして、シェークスピア作品のヒロインたちが、変わり者でシャイな女の子であったマーガレットが憧れる女性像だった。そして10代の頃、イングランド内戦勃発を目前にして緊張が高まる世相のなか、彼女は、イングランド国内では不人気であったカトリック信者の王妃、ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスの侍女になる。この王妃も、後のキャヴェンディッシュが観習い、ともに成長した、重要な女性だ。

22歳のときに、その当時は侯爵、のちに公爵となるウィリアム・キャヴェンディッシュ(William Cavendish)と結婚する。ウィリアムは、彼女に夢中だった。ダットンによると、結婚後、マーガレットの真の学びが始まったという。幼い頃から読書にいそしむ子どもであったが、結婚した相手は、哲学者で詩人で劇作家だった。さらに、ウィリアムは、トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes)やルネ・デカルト(René Descartes)など、17世紀に影響力を誇った哲学者たちと交流していた。ウィリアムは、著名な文人たちのパトロンであり、哲学者、科学者、作家たちの集まるサロンを主催した。そこで、マーガレットは、同時代の思潮を学んだのだ。そして、彼女は、学ぶだけではなく、承服しかねる思想には、抗った。

マーガレットが輝きだしたのは、結婚後だ。なぜなら、彼女が執筆を始めたのが結婚後だったからだ。彼女は、年相応の英文法を身につけておらず、文章を記す際には、誤字も多く、大文字の使い方にも誤りが多かったが、哲学書や劇、空想的なユートピアの考察、科学理論について著している。それらの著作は、家族や友人などに見せびらかすためのものでも、自分のためだけに著したものでもなかった。彼女は、世間に公表し、評価されることを望んでいたのだ。それは、当時の女性にとって、あまりに荒唐無稽で恐れ知らずな望みだった。「彼女には、持って生まれた野心がありました」とダットンは語る。確かに、それは、彼女の行動にもはっきりと現れている。貴族の男性たちは、自著は自ら製本し、仲間に配るのが通例だったが、彼女は、自著を自ら配布しなかった。彼女は、原稿を印刷屋に持ち込み、それから、今日の出版社と同じように本を流通させるよう依頼し、さらに、彼女の手元に数部送付されるよう手配したのだ。

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キャヴェンディッシュは、家父長制度のなかで生きながらも、そこにおさまらない稀有な女性だった、とダットンは想像する。彼女は、なぜ女性が執筆してはいけない、あるいは、執筆できないのか、ものを考えてはいけない、あるいは、考えられないのか理解できなかったようで、容赦ない筆致で、女性への疑問を明確に表現した。キャヴェンディッシュは、女性は暇を持て余すべきではなく、行動し、芸術を生み、思索するべきだ、と信じていた。先進的な考えを抱いていた彼女は、大勢の最初期のフェミニストと同じだった。すなわち、彼女は、女性たちに失望していたのだ。彼女は、自らの著作をみんなに読んでもらいたい、世間に自らの考えを広めたい、と願っていた。名を知られたい、認められたい、と願っていたし、公人として生きたいとも願っていた。しかし、実際、彼女は、女性に非難され、嘲笑された。そういった非協力的な女性たちを、この世界における由々しき間違い、と彼女は判断していた。

Photo via Wikimedia Commons

もっとも知られているキャヴェンディッシュの著作は、1666年に出版された『The Description of a New World, Called the Blazing-World』だ。ユートピア的フィクション、ロマンス、冒険、そして、自伝的要素が不思議に混交した小説であり、その後出版された第2版では、難解で純粋な哲学的思想が加筆された。この『The Blazing World』でキャヴェンディッシュの名は世間に知れ渡るのだが、それは、必ずしも彼女が求めていたかたちではなかった。マーガレット・キャヴェンディッシュは、現在の女性アーティストたちと同じ経験をした。彼女の作品は、真面目に受け取られなかったのだ。彼女は、自らの生きる時代を飛び越えた奇妙なアートを表現する女性、いわば、初期のビョーク(Björk)に近しい。彼女は、たくさんの支持を得たが、なかには、彼女を〈変だ〉と捉える向きもあった。

「マーガレットの苦労に、私は、心から共感します」とダットン。「現在と当時で、物事は、様変わりしましたが、一般的に、アートを生みだす苦しみ、思想家、芸術家として真剣に評価されたい、と願う女性の苦しみは普遍的なはずです」。この意味で、キャヴェンディッシュのキャラクター、そして、ダットンの小説は、時宜を得たものだといえる。近年の記事、たとえば、クレア・ヴェイ・ワトキンス(Claire Vaye Watkins)による「On Pandering」と題されたブログ記事、および、記事に対する批評を読むと、現代においても、自己を表現し、オーディエンスを獲得するために女性アーティストがどれだけ苦労しているのかがわかる。キャヴェンディッシュの読者は、主に、高度な教育を受けた上流階級の男性であり、彼女の思想は、そのなかでも、より自由で進歩的な思考体系の持ち主にしか共感されなかった。そして現代作家のアン・バウアー(Ann Bauer)と同じように、彼女も夫から〈援助〉されていた。アン・バウアーは、2015年、ニュースサイトの『Salon』に寄稿したさい、どれだけたくさんの作家が配偶者や家族、その他から支援されているかを指摘した。

しかし、バウアーの見解は、キャヴェンディッシュには当てはまらない。バウアーは自身を〈珍しくない〉と表現するが、キャヴェンディッシュは珍しかった。17世紀のイングランドには、ウィリアムのように妻の志を真摯に受け止める男性はほとんどいなかった。ウィリアムによるマーガレットへの支援は、当時にしては異例だ。彼は、妻を心から愛し、彼女の作品を信じていたようだ。彼は、妻の著作数点を紹介する十四行詩(ソネット)を書き、印刷のための経済的援助を惜しまなかった。マーガレットのように、貴族の妻である女性は、収入源や自分の財産を有していなかったのだ(19世紀になるまで、結婚後も遺産を自分のものとして所有する権利は女性にはなかった)。執筆や出版の影響により、妻が自ら品格を損ね、恥をさらすのを許している愚夫、と陰口を叩かれても、彼が妻に抱いていた信頼は揺らぐことはなかった。ウィリアムが作家だったので、マーガレットの本を著しているのは彼なのでは、と勘ぐる向きもあった(しかし、イングランドで、晩年の彼が劇作品を上演した際には、多くの人たちが逆に、妻のペンによる劇だ、と信じていた)。そんな世評のなか、ふたりの家族が次々と他界し、貴族社会のしきたりに悩まされながらも、ふたりはともに歩み続けた。

マーガレットは人生において亡命生活を余儀なくされることが多かったが、彼女は、ベルギーのアントワープで生活していようと、イングランドで自著を出版した。王政復古後、イングランドに戻り、自らが有名人になっていることを知ったが、それもまた彼女が望むかたちではなかった。ダットンは、彼女についてのリサーチを進めるなかで、当時の新聞記事を発見した。その記事は、マーガレットの〈見た目〉について報じており、奇妙な服装(男性の服装から拝借した部分があったり、イングランドのスタイルとはそぐわないゴテゴテと飾りのついたドレスや帽子をまとっていた)のマーガレットは、頭のおかしい異様な女だ、と評されていた。「日刊紙で彼女がこんな風に扱われていることを知って、私は興奮しました」とダットンは述べ、そういうキャヴェンディッシュの経験を、現代のセレブへの熱狂と比較した。「人々は街を歩く彼女を追い、彼女の馬車を追っかけたりしていたんです。パパラッチと同じです。当時はカメラがありませんでしたが、同じことを彼女にしていたのです」

彼女は〈マッド・マッジ〉と呼ばれたが、そのあだ名は彼女を怒らせ、同時に悲しませた。「芸術というものは、その大部分が規格外である」とマーガレットは記した。その記述から、彼女は自らが〈規格外〉であり、普通とは違う、という運命を受け入れていることが読み取れる。そしてダットンも、伝統的な歴史小説とは似ても似つかない自らの小説で、〈規格外〉の運命を受け入れている。ダットンは、この小説を書くうえで、歴史小説につきものの〈官能的〉な描写がないことが不安だったという。マーガレットと夫ウィリアムのあいだには、子どもはいない。しかし、ふたりがセックスをしなかった、というわけではない。ダットンは、当時の風変わりで身の毛がよだつような不妊治療について描写している。「精力の強い雄羊の糞便」をマーガレットの腹の上にかける、「夜、薬草のチンキ剤を長い注射器で[彼女の]子宮に注入する」、そして個人的に最高だと思うのが「朝、[彼女の]直腸に草花の煎じ茶を流し入れ、そのあとダイオウとコショウを用いて1日中浣腸する」。これらの描写が、この小説のなかでいちばん直接的な肉体描写だ。ダットンが言及するとおり〈セックスなし〉の書籍だ。

「精神性を描写しているんです」とダットンは続ける。「ほんのちょっとだけセックスもありますけど」。そう、確かにある。しかし本当に〈ほんのちょっと〉だ。いずれにせよ、セックスは、マーガレット・キャヴェンディッシュの人生の最重要事ではなかった。野心を抱く女性が感じる孤独を彼女は感じており、そして、彼女の奔放な思想は、同時代の女性たちのそれとは真逆だった。

この小説のクライマックスであり、マーガレット・キャヴェンディッシュの人生のひとつのクライマックスであろう場面は、日記作家のサミュエル・ピープス(Samuel Pepys)による嘲笑うかのような記述だ。それは、ダットンの表現を借りると〈科学が知的生活を支配する〉以前、王政復古の後、見えざる大学(invisible college)を卒業した、1660年代を担う知識人たちが設立した王立協会で、マーガレットが登壇する瞬間だ。キャヴェンディッシュは、遅れて登壇し、ほぼなにも発言せず、そそくさとその場から去った。その理由について諸説あるなか、ダットンの説が他説よりも、より真実に近いかもしれない。ダットンは、変わり者だと自認する女性の姿を繊細に描いているが、その筆致は決して感情に流されない。「孤独だ」。失敗に終わった初舞台のあと、キャヴェンディッシュは、自ら記した。「私は、本当に孤独だ」