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〈らんま 1 / 2〉は革新的トランスジェンダーアニメだったのだろうか?

1987年から週刊少年サンデーで連載されていた高橋留美子の原作による人気漫画『らんま 1 / 2』。1989年からはアニメとしても放送され、その人気は広く海外まで届いていた。ドタバタだらけの格闘ラブコメでありながら、最近ではジェンダーフルイドを描いた革新的なアニメとして再評価されているという。

初めて私がアニメ『らんま1/2』を観たのは、6歳のときだったと思う。当時は、なぜ自分がこのアニメにどハマりしたのかわからなかった。主人公の男の子が、冷水を浴びるたびに女の子に変身してしまうアニメ。そしてこれでもかとばかりに、オッパイがポロリするアニメだった。

私は米国に住んでいた。私たちきょうだいに許されたテレビチャンネルは、カートゥーン・ネットワーク、ニコロデオンなどの子ども向けチャンネルのみ。でも夏になると、メキシコの祖父母宅で過ごしていたので、ケーブルテレビではなく、テレビザ(Televisa)社が所有する〈Canal 5〉という子どもチャンネルも楽しむことができた。

乱馬

Canal 5は様々なアニメ番組を放送していた。このチャンネルのおかげで、私は『ドラゴンボールZ』には興味がないのがわかった。私が好きだったのは『キャッ党忍伝てやんでえ』と『らんま1/2』だった。『らんま』は、私がそれまで観ていたアニメとはまったく別物だった。というのも、このアニメでは裸と同性愛がふんだんに描かれており、私が初めて観たLGBTQの番組だったのだ(制作サイドにその意図がなくとも)。

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『らんま1/2』の舞台は東京。主人公の早乙女乱馬とその父親は、武術修行のために中国に行く。修行場の舞台である〈呪泉郷〉の泉にふたりとも落ちてしまい、冷水をかぶると乱馬は女の子に、父親はパンダに変身する体質になってしまった。東京に戻ったふたりは、父親の旧友である天道家に居候する。乱馬は天道家の娘のうちのひとり、あかねと許嫁の関係にあった。

女らんま

こんな設定が根幹にあるのだから、非常にきわどいシーン、特に、きわめてクィア的な、トランスジェンダーを肯定するようなシーンがたくさん出てくる。響良牙という男の子は、あかねと女らんま* にゾッコンになる。乱馬も、突然同性愛的な夢を見るようになり気分が悪くなる。そんな乱馬は葛藤や混乱に襲われるわけだが、当時6歳だった私は、本当はモテ男ながら、少年の心を持った女らんまと男嫌いのあかねとの関係性に興味があった。

それと同時に、この作品には、ホモフォビア(同性愛嫌い)とミソジニー(女性蔑視)的な内容も含まれている。この作品が最初にアニメ化されたのは1989年。約30年前の作品にしては本当に稀な内容だ。1993年にはビズ・メディア(Viz Media)が購入し、英語版がカナダ・バンクーバーでも放送された。

90年代になると、『ふたりは友達?ウィル&グレイス』(Will and Grace)のようなLGBTQをテーマにした作品は、一般的な視聴者から「ゲイすぎる」と批判されたが、『らんま1/2』は保守的な視聴者からの抗議は免れていた。おそらく〈ゲイ〉や〈トランスジェンダー〉とはっきり特徴づけされたキャラクターがいなかったからだろう。しかし当時、クィアやトランスジェンダーの若者たちにとって、この作品は自分たちの現実の、そして将来の苦悩をしっかりと反映していたのだ。

コミックライターのシャーロット・フィン(Charlotte Finn)は、自身の〈Lost in Transition〉という連載で、アニメ版の原作である漫画『らんま1/2』のレビューを書いた。その記事では、漫画に登場するトランスジェンダーのキャラクターを掘り下げている。「トランスジェンダーというテーマに関していえば、『らんま』には関連性があります。しかしそれは、一般的に想像されるようなものではありません」と彼女は評している。

「冷水を浴びると、乱馬の身体と社会的立場と、乱馬の気持ちが相反します。乱馬はその状態を望んでいません。それは多くのトランスジェンダーの人間が感じている肉体的・社会的違和感と非常に似ています。自分の身体や社会的役割と断絶しているような、あるいは同調できていないような気分です。乱馬は〈女の子になってしまう男の子〉ではありません。シスジェンダーからトランスジェンダーになる男の子なのです」

私と同じような体験をフィン自身もしてきたのではないか、と興味をもった。つまり彼女も本当の自分を見つけるために、実はこの作品が何らかの役割を果たしていた、とあとになって気づいたのではないか。そこで私はフィンにコンタクトをとり、こんな質問を投げかけてみた。「『らんま1/2』は、あなたがトランスジェンダーとしてカミングアウトするのに、何らかの役割を果たしましたか?」

「一般的な作品、つまりトランスジェンダー的だけれど、実際はトランスジェンダーというわけではない、そういう内容のウェブコミックスや漫画、アニメなどに触れてきました。そういった作品のなかでのジェンダーは流動的で、それは悪いことではないのですが、結局、呪いだったり、ジョークだったりするわけです。別名〈強制的女性化〉ストーリー、あるいはもっと露骨にいうなら〈俺の性器はどうなっちまったんだ〉的ジャンルですね」

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私が『らんま』におけるジェンダーの流動性や、それによる同性愛的な描写が少なからず非難されていると知ったのは最近になってからだった。私は、この作品にはたまに女子が好きな女子も出てくるんだな、という記憶しかなかった。もちろん冷水を浴びると強制的に別の性別になってしまう男子も出てくるが。

「私はこの設定にときめきました。なぜなら、生来の性別とは違う性別になりたい、という欲求が、私には非常によく理解できるからです」とフィン。「しかしそんな思いがありながら、恥ずかしさも感じていました。私がしゃべれるようになる前から、それは恥ずべきことだ、と周りから教えられてきましたし、その教えはすっかり自分のなかに染みこんでいたからです。その恥ずかしさは、〈トランスジェンダーは悪い〉と報じるメディアが生んでいたんです」

「頭のなかで理解できたとき、つまり自分がトランスジェンダーだと把握したとき、なぜ『らんま』が私にとって魅力的なのかを理解したのと同時に、私が欲する全てがそこにあるわけではない、という事実もわかりました。いってみれば、ピースの足らないパズルのような感じです。裏を返せば、全部ではないにしてもピースはあるんです。だからこそ『らんま1/2』は、盲点がありながらも、トランスジェンダー・クィアについて記憶される作品になったのだと思います」

この手の作品では、奇妙な出来事が起こりがちだ。28歳のレズビアンである私は、今やそういう作品を観る必要がない。なぜなら、不憫なキャラクターがゲイに当てはめられるパターンが多いからだ。しかし、現在では幸運なことに、昔に比べるといろいろな番組があり、LGBTQのキャラクターが悪口をいわれたり、殺されたりしない作品も増えている。

それにしても、90年代初頭から半ばにかけてのメキシコで、性別がコロコロ変わる格闘家が主人公のアニメを、あんなに簡単に子どもたちが視聴できたのには驚きを隠せない。現在の米国で放映したら絶対に抗議を受けているだろう。でも、多くの男の子たちがあのアニメを観て、同性愛や性別転換について何の抵抗もなしに受け入れていた事実はすばらしい。これについてフィンはこんな見解を述べている。

「格闘の側面が大きかったのでしょう。ジェンダーやセクシュアリティについての問題に思い悩む乱馬に関心を持たなくても、このアニメにはキャラクターたちが戦うシーンがあります。実際『らんま』の格闘ゲームソフトもありましたから」とフィンは説明してくれた。

「ユーモアがあれば、ストレートのなかにいるゲイの混乱もマイルドに描けます。『らんま1/2』は、エッチな恋愛コメディという伝統を踏襲しながら、バトルシーンからクィア的な要素までを取り入れていました。1986年に公開された映画『トップガン』(Top Gun)は、その年の興行成績第1位を記録しましたが、ゲイの男性は絶対に観ていないでしょうね。80年代で最もゲイ的な映画なんですけどね」