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HISTORY OF DJ : TECHNO ②

良く良く考えてみる。「DJとはなんぞや?」9月に東京で開催されるRed Bull Thre3style World DJ Championships 2015に向けて、DJの歴史を辿るシリーズ。テクノ編第二回です。

HISTORY OF DJ : TECHNO ①はコチラから

DJの歴史テクノ編の第二回は発祥の地とされるデトロイトに次いで重要な都市、ドイツはベルリンにおけるテクノの成り立ちをご紹介します!第一回で触れたように、音楽的にはテクノに極めて近いスタイルの音楽が世界の様々な場所で同時多発的に生まれていました。デトロイトにおいて決定的な「テクノ」という名前がつけられたものの、サウンド面においてはヨーロッパのニューウェーヴ、シンセ・ポップ、EBM、インダストリアルからの影響を多大に受けたものでした。

Kraftwerk – Man Machine (78)

ドイツは中でも革新的な電子音楽という点においては世界をリードしており、特に70年代初頭から80年代にかけて、デュッセルドルフではご存知クラフトワークを筆頭にノイ!、カン、クラスター、DAF、リエゾン・ダンジェリューズといったバンドが、ベルリンではタンジェリン・ドリーム、アシュラ・テンペル及びマニュエル・ゲッチング、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンなどが電子楽器を多用した実験的で新しい音楽を世界に発信していました。

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Liaisons Dangereuses – Los Nińos Del Parque (81)

まだドイツが東西に分断されていたその頃のベルリンは、東ベルリンをソ連が、東ドイツの中に壁で囲まれた飛び地となった西ベルリンをアメリカ、イギリス、フランスの三国が共同で統治するという特異な状況。そんなことから、西ベルリンはドイツにありながらも徴兵制がなく、補助金が豊富な上に物価も安かったので国内外の沢山のアーティストやアクティヴィストが移り住みました。そのおかげでデカダンなアート/音楽シーンが形成されていきます。デヴィッド・ボウイやイギー・ポップ、ブライアン・イーノにニック・ケイヴなどがしばらくベルリンで活動していたのはこのためですね。

B Movie: Lust & Sound in West Berlin

少し余談になりますが、このシーンでキーパーソン(あるいはフィクサー?)として有名になったのがマーク・リーダーというイギリス人の青年。彼はマンチェスター出身で78年からベルリンに移り住み、Factory Recordsのドイツ現地スタッフとして働いていました。そう、ハウス編第二回で触れたHaçiendaの母体となった、あのレーベルです。彼はベルリンでジョイ・ディヴィジョンなどのツアーを実現させたりしながら、現地の女性バンド、マラリア!のエンジニアやマネージャーを務めるなど、マルチな活躍で強力なコネクションを築き上げました。ちょうど最近、彼のベルリンでの体験を追ったドキュメンタリー映画『B Movie: Lust & Sound in West Berlin』が公開になり、音楽ファンの話題に(日本公開未定)。また、82年にディミトリ・ヘーゲマンという人物がこのようなシーンを象徴する「Atonal」というフェスティバルを開催し始め、これにノイバウテンやマラリア!、サイキックTVなどのポスト・パンク/インダストリアルのバンドが多数出演しています。90年で一度休止したこのフェスティバルもまた、23年のブランクを経て2013年から再開されるようになりました。

Manuel Göttsching – E2-E4 (84)

要するに、80年代後半にシカゴやデトロイトのダンス・ミュージックが輸入されてくる以前から、ベルリンにはかなりワイルドで、パンキッシュで、前衛的な芸術表現を尊重する土壌と電子音楽の伝統があったんですね。そして、ちょうどそれらが新しい音楽としてヨーロッパでも注目を集め始め、イギリスではセカンド・サマー・オヴ・ラヴ真っ只中だった89年、ベルリンの壁が崩壊するという大事件が起こるのです。ちなみに、現在では恐らく世界で最も有名なテクノ専門レコード店であるHard Waxは、89年にブラック・ミュージックの輸入専門店として西ベルリンにオープンしていて、ベルリンで最も早くシカゴ・ハウスやデトロイト・テクノを売り始めたお店だったんですよ。

え?早くDJの話しろって?そうですよね、そろそろクラブとDJの話をしましょう。先ほど出てきた「Atonal」主催者のヘーゲマンが、88年に二人の仲間と共にUFOというクラブをオープン。ベルリンのアシッド・ハウス・シーンの中心となります。ここのレジデントとして人気を博していたのがDJタニット(Tanith)。このクラブでプレイしていたDJの中には、Dr.モッテという人物もいました。89年、愛と平和を訴える音楽デモ、Love Paradeを旗揚げしたその人です。初年度は150人程度の規模だったようですが、これのアフターパーティーが開催されたものUFOでした。また、初年度のLove Paradeに出演したDJの一人が、ウエストバムでした(そしてその後、毎回出演)。

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このUFOクラブは90年に諸事情で閉店してしまいますが、同じオーナーたちが翌年に、元東側のデパートの地下の貸金庫を改造したクラブ、Tresorを開店し、同名のレコード・レーベルを立ち上げます。この統合されたばかりの頃のベルリンの様子についてはこちらの記事に詳しく説明されている通り、特に東側においては空き地と廃屋だらけ、所有者が不明確なまま放置されたスペースが有り余っている状態。そこにスクワット(不法占拠)して住み着いたり、サウンドシステムを持ち込んでイリーガル・パーティーをやったり、アイディアと行動力があれば何でも出来てしまえるような自由とカオスがあったそうです。Tresorも、いわゆる家賃はなく、光熱費だけをまかなえばよかったとか。この頃作られたクラブのほとんどは、「買い手が着くまで」、「再開発計画に着工するまで」といった期間限定を条件に、タダ同然でスペースが使えたといいます。このように他の大都市のようにクラブ運営に際しての財政的なプレッシャーが無かったことが、より自由で大胆な“音楽的冒険”を可能にしたのです。

クラブのレジデントDJは、UFOでもプレイしていたDJタニット、DJヨンゾン (Jonzon)、DJロック(Rok)、DJクレー (Clé)など、ローカルたちが務め、ゲストにはジェフ・ミルズ、ホアン・アトキンス、ブレイク・バクスター、ロバート・フッド、エディー・フォークスといった初期デトロイト・テクノの中でも特にハードなスタイルのアーティストたちが招かれます。91年にリリースされたTresorレーベルの第一弾は、URのマッド・マイクとジェフ・ミルズによるユニット、X-101のアルバムであることも、このデトロイト~ベルリン・コネクションの太さをよく物語っていると言えるでしょう。

同じ91年には、ウエストバムがMaydayというテクノ・レイヴをベルリンで開始します。93年には、変電所跡地にもうひとつの影響力を誇ったテクノ・クラブ、E-Werkが登場します。前身のクラブPlanetからレジデントを務めていたDJウッディやUFOでも活躍していたポール・ヴァン・ダイクやDJキッド・ポールがスター・レジデントとなり、Tresorと人気を二分しました(しかしE-Werkは97年で一度閉店。Tresorは2005年まで続き、移転後07年に再開し今もベルリンを代表するクラブ)。先日とある取材でウエストバムが証言していましたが、Love ParadeにもMaydayにも出演している日本のテクノDJ、石野卓球と出会ったのはここE-Werkで、しかも前出のマーク・リーダーの紹介だったとのこと。面白いですね!しかもリーダーは91年にMFS(Master Mind for Success)というレーベルを設立し、そこからポール・ヴァン・ダイクをトランス・プロデューサーとして売り出し大ブレイクさせてもいます。こちらがヴァン・ダイクの最も初期の、ザ・ヴィジョンズ・オヴ・シーヴァというユニット名義でのリリース。

スターといえば、忘れてはならないのがスヴェン・フェイト。彼はベルリンの人ではありませんが、ドイツでは誰もがリスペクトするテクノ・シーンの立役者であり、今でもバリバリ第一線で活躍するトップDJ。当然Love ParadeやMaydayもほぼ毎回出演しているんですが、彼の本拠地はフランクフルトです。90年代まではベルリンと張るくらいにテクノ・シーンが盛り上がった土地。しかもフェイトは80年にイビサ島に行っており、その影響でDJを開始しています(ロンドンの”イビザ組”よりも全然早い!)。82年からDorian Grayのレジデントとなり、24歳の若さで88年にクラブOmenをオープン、96年には「Cocoon」というパーティーを始め、それをクラブ、レーベル、ブッキング・エージェンシーの複合体へと成長させました。

そうこうしているうちに、Love Paradeはすんごい規模に膨らんでいきます。「ベルリンといえばLove Parade」、と言われるほどすっかりテクノ都市のイメージが広がり、各地からこの世界最大のテクノ祭りに参加しようと人が訪れるようになります。97年~2000年にかけては何と100万人越え。テクノで踊る群衆に埋め尽くされる街。東も西も混ざり合い、様々な年代、人種、セクシャリティの人々がベルリンの中心部で共に盛り上がる様子は、ドイツ統合のひとつの象徴となったと言っていいでしょう。その中心にいたのが、テクノDJでした!!これだけたくさんの人たちをひとつにすることが出来るものが、他にあったでしょうか。ベルリンにおけるテクノは、新しい時代と平和と自由を祝福する音楽だったからこそ、これほどみんなに愛されたのです。

このエネルギーは凄いですよね、ホント。では、第二回はこの辺で終わりにしましょう。次回最終回では、他の都市におけるテクノの音楽的・地理的な広がりと、テクノDJのプレイ・スタイルの特徴について考えてみたいと思います!