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HISTORY OF DJ : TECHNO ③ 最終回

良く良く考えてみる。「DJとはなんぞや?」9月に東京で開催されるRed Bull Thre3style World DJ Championships 2015に向けて、DJの歴史を辿るシリーズ。テクノ編最終回です!

HISTORY OF DJ : TECHNO ①はコチラから

HISTORY OF DJ : TECHNO ②はコチラから

History of DJのテクノ編として、デトロイトとベルリンにおける成り立ちをご紹介しましたが、テクノの特徴のひとつはほぼ同時多発的に先進国の主要都市、あるいは小都市においてもそれぞれのシーンが形成されていったことでした。テクノにはほとんどの場合歌詞がなく、構成要素が少なく、踊りやすく、音楽的な予備知識がなくても楽しめる音楽であったことが言語や文化の壁を越え易くしたのかもしれません。最終回である今回は、この音楽がどのようにグローバル化し、そしてローカル化したのかをDJの軌跡を辿りながらご案内しましょう。

ハウス編第二回でご紹介した通り、テクノよりも一足先にシカゴのアシッド・ハウスが大流行していたイギリスでは、「レイヴ」という傘の下、テクノ、トランス、ハードコア、エレクトロ、ジャングル、ドラムンベースといった音楽スタイルが混在していました。レイヴDJとして最も人気を集めたのは、カール・コックス、サシャ、ジョン・ディグウィード、ポール・オーケンフォールドなど。彼らはポップスター並に何万人も動員する存在となります。他方では、バーミンガムのサージョンやレジス、レディング出身のルーク・スレーター、ブライトン出身のデイヴ・クラークなどがよりインダストリアル音楽に根ざしたストイックなテクノをDJとしてプレイしながら自らプロデュースも手掛けます。シェフィールドではWarpというレーベルが設立され、エレクトロニック・ミュージックの音楽性をより実験的に追及する、LFO、ザ・ブラック・ドッグ、オウテカ、エイフェックス・ツイン、といったアーティストを世に送り出し、これらは「インテリジェント・ダンス・ミュージック(IDM)」と呼ばれ、クラブやレイヴのみならず、ホームリスニングとしても楽しめる、ダンス・ミュージックの新な地平を切り開いたと言えるでしょう。

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フランスにおける最大のテクノ功労者といえばロラン・ガルニエ。70年代からディスコにはまり、クラブに通っていたという彼は、マンチェスターのHaçiendaのマイク・ピッカリングのプレイするアシッド・ハウスの洗礼を受け、DJを志します。DJペドロという名でHaçiendaでプレイするに至りますが、兵役のためフランスに帰国。その後はパリのRex Clubのレジデントを務めます。93年には、デトロイトのデリック・メイが運営するTransmat傘下のレーベルFragileからチョイス名義で「Acid Eiffel」をリリース。現在でも愛され続けるテクノ・アンセムですね。1994年にはレーベルF Communicationsを設立して、フランスのアーティストを世界に紹介していきます。このレーベルのリリースにも表れていますが、ガルニエもまたテクノに限定せずディスコやロック、ドラムンベースなど様々なジャンルの音楽を織り交ぜたプレイをするDJ。ジェフ・ミルズ、デリック・メイと並んで「世界三大テクノDJ」とも呼ばれる最高峰のテクニックを誇り、ターンテーブル(現在はCDJ)三台を駆使したプレイはその後の多くのDJたちの手本、あるいは憧れとなりました。ロンドンのMinistry Of SoundやThe Endのレジデントも務めたガルニエは、フランスで最もリスペクトされるDJと言って間違いないでしょう。

もともとEBMがかなり一般的に盛り上がっていた土壌があり、ニュー・ビートという独自のダンス・ミュージックが80年代から存在していたベルギーは、テクノの発信源として影響力を持った国です。小国でありながらフランス語とフランドル語が公用語でドイツ語を話す地域もあり、複数の言語と文化が入り混じる、ヨーロッパの中では珍しく独自のアイデンティティーや国家としての統一感がやや希薄なところ。それを、レイヴ・カルチャー及びテクノが若者をひとつにした、と音楽ドキュメンタリー映画『The Sound of Belgium』では説明されています。84年のニュー・ビート全盛期に元DJのレナート・ヴァンデパピエールによって設立されたゲントのレコード・レーベルR&Sはテクノ史で最も重要なレーベルのひとつ。アントワープを拠点にするC・J・ボーランドや「Plastic Dream」の大ヒットで知られるオランダ人プロデューサー、ジェイディー(ヒップホップのプロデューサーとは別人です!)などを発掘した他、アメリカやイギリス、ドイツなどの重要なテクノ作品をライセンスしベルギー内に流通させました。

C.J. Bolland – Camargue (92)

国際的なスターとなったベルギー人DJといえばハードテクノのマルコ・ベイリーが思い浮かびますが、94年にブリュッセルにオープンし、21年目を迎える超老舗クラブFuseのレジデントを15年以上、現在も務めているDJデッグとDJピエールは、現地ではとても尊敬されているそうです。デッグはプロデューサーとしても多くの作品をリリースしており、ピエールは[LesIzmo:r]というレーベル兼エージェンシーを運営、ベルギーのテクノ・シーンに大きく貢献しています。ベルギーでは郊外に巨大クラブが多く作られ、そこに色んな町から若者が車で乗り付けて遊ぶといういわゆる「メガクラブ」の発祥の地だと言われています。また、その名も「I Love Techno」という巨大テクノ・フェスティバルも95年からずっと続いています。ホントにテクノが好きお国柄ですね。

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そして我が国日本も、テクノの世界ではかなりの存在感を発揮しました。もともとRolandやKORG、Yamahaなどのテクノを制作するのに使用される機材の多くが日本製であったこと、イエロー・マジック・オーケストラの楽曲がDJにプレイされたりその後のハウスやテクノのインスピレーションとなったこと、ハイテク/未来的なイメージがあったことなどから、テクノ・ファンからは熱い視線を集めていました。日本で最も重要なテクノDJといえば田中フミヤ。90年代初頭からテクノに特化したDJとして大阪で活躍し始め、既に93年には日本初のテクノ・レーベルとれまを設立。オリジナルの楽曲を発表しながら精力的なDJ活動をしその高いスキルと独自のセンスで、海外でも高く評価されます。

Fumiya Tanaka – Mix-Up Vol. 4

その田中フミヤの勧めでDJを始めたのが、89年にテクノのサウンドを取り入れたバンド電気グルーヴを結成していた石野卓球。電気グルーヴがSony Musicに所属していたこともあり、Sony Musicは94年にテクノ部門、その名も「Sony Techno」を設立、電気グルーヴ監修のコンピレーション『テクノ専門学校』シリーズを発売し、日本において一気にテクノ音楽を普及させました。Sony TechnoはWarpやR&S、デリック・メイのTransmat、スヴェン・フェイトのHarthouse、ロンドンのJunior Boy’s Ownなどの作品をライセンスし国内盤として日本のどこでも買えるようにした他、国内最大の屋内レイヴWIREを主催したり、日本初のオフィシャルDJミックスCDシリーズ『Mix-Up』を独自企画し発売。石野卓球、ジェフ・ミルズ、ケン・イシイ、田中フミヤ、デリック・メイによる5タイトルが、日本における「テクノDJとは何か」を完全に定義づけたと言えます。石野卓球及び電気グルーヴは特にベルリンとのリンクを強め、Love ParadeやMaydayにも出演を果たしています。

Takkyu Ishino live at Loveparade 2000

また、93年に先述のゲントのR&Sと契約を結び、リリースされたことで逆輸入されるかたちで注目を集めたケン・イシイはテクノ・プロデューサーとして国際的に高く評価され、「ジャパニーズ・テクノ」の代名詞となりました。その後もずっとR&Sからのリリースを続けながら、DJとしての活動も精力的に行っていきます。

Ken Ishii – Extra

ここではほんの氷山の一角しか触れられませんが、テクノの特徴の最大の特徴は、その普遍性。基本的には反復されるキックドラムの四つ打ちのリズムのバリエーションという至ってシンプルな音楽ですが、それゆえに頭で考えるよりは体が先に動いてしまうような原始的な側面があり、意識をトランス状態に導きます。曲単体で聴いてももちろん優れたものは沢山ありますが、DJにプレイされてこそその真価を発揮する音楽なのです。クラブやレイヴで「体感」するものであり、DJのミックスや抜き差し、イコライジングのテクニックで聴こえ方が大きく変わるという側面も持っています。なので、テクノ及びテクノDJに興味があるという方はぜひそういった体感の場に足を運んでもらいたいと思います。世界の共通言語となったテクノの魅力、ぜひ味わってみて下さいね!