813OnQGC+dL._SL1093_

ここ日本においても絶大な人気を誇るレゲエ・ミュージック。音楽はもちろん、その文化やライフスタイルまで多大な影響を与え続け、今や日本は世界を代表する「レゲエ大国」になりました。ハマっちゃった人はジャマイカを訪れ、現地の空気をおもいっきり吸い込み、更に刺激されて何度も足を運んでしまう。最近では、ジャマイカ人と日本人の結婚も増えているそうで、産まれた子供はジャマイカン・ジャパニーズの意である「ジャパメカニーズ」なんて言葉もあるそうです。ここまで日本が「レゲエ大国」になった理由のひとつとして、80年代後半から90年代前半にかけて、世界的に起こったダンスホール・レゲエ・ムーヴメントがあげられるでしょう。アメリカ、イギリスと並ぶ音楽消費大国の日本にも、その波が押し寄せて来るのは当たり前のこと。その後、サウンドシステム・シーンが確立され、レゲエ・ダンサーも大活躍。「横浜レゲエ祭」は日本を代表する夏フェスとなり、独自に生まれた「ジャパニーズ・ダンスホール」も、ナチュラルに街で流れています。そう、ダンスホール・レゲエは、日本のミュージック・シーンにおけるいちジャンルとなったのです。

でも、「ルーツ・レゲエ=硬派」、「ダンスホール・レゲエ=軟派」ってなイメージございません?現場で例えたら、ルーツ・レゲエは、立派なドレッドとお髭を蓄えた先輩方がレゲエ・バーにてモクモク〜と。一方、ダンスホールは、男女入り混じってピコピコ腰を動かしてるCLUBとか。チャラチャラ部門でいえば、間違いなくダンスホール・チームの勝利でしょうね。そんな軽いイメージのダンスホール・レゲエですが、その出処は実に「パンク」であったことをご存知でしょうか? 大資本が蔓延し始めたシーンに対し、中指をおっ立てて生まれたストリート発のミュージック…それがダンスホール・レゲエなのです。

1970年代後半のジャマイカ。ボブ・マーリー(Bob Marley)を筆頭に、ジミー・クリフ(Jimmy Cliff)やバーニング・スピア(Burning Spear)、そしてディージェイではU・ロイ(U-Roy)、ビッグ・ユース(Big Youth)、プリンス・ジャズボ(Prince Jazzbo)、I・ロイ(I Roy)など、ルーツ・レゲエの人気はピークを迎えるどころか、さらに高まる一方。その人気はジャマイカを越え、海外でも大きく花開き、成功を収めていたのです。ちなみにジャマイカでは、DJを「ディージェイ(Dee Jay)」と呼びます。通常の「DJ=曲をかける人」ではなく、MCのように曲にヴォーカルを付けたり、合わせてトースティング(ラップや喋ったりすること)する人のことをいいますので、お間違えのないように…。

ただその海外進出によって、ジャマイカのシーンは大きく変わってしまったんですね。ルーツ・レゲエが世界のマーケットで勝負できるようになると、本国のアーティストたちはこぞって舞台を海外に移します。どんどんポピュラーな存在になっていくルーツ・レゲエ。ジャマイカに残っているプロデューサー、ディージェイ、セレクター、そしてサウンドシステムに通っていたお客さんたちは、完全に置いてけぼりにされてしまったのです。

「ジャマイカから生まれたレゲエがジャマイカを離れていった。ジャマイカの独立精神を映し出すレゲエはもう存在しない」

しかし、そんな状況に対し、置いてけぼりにされた人々は、黙って指をくわえていたわけではありません。「自らの手で自分たちのレゲエを取り戻そう」と動き出したのです。そして、それはストリート…ゲットーから生まれました。そう、ダンスホール・レゲエ。海外なんて知ったこっちゃない。自分たちの近くで、島の中だけで、音楽を楽しもう。レゲエを愛しているファンのところへ届けよう。それはいったいどこだ? そう、向かうべきところは、帰るべきところは、みんなが集まるダンスホール。巨大化していくルーツ・レゲエに対し、ダンスホール・レゲエは、インディペンデントな場所に戻ったわけです。

さらに、81年にはボブ・マーリーが亡くなり、同時期には人民国家党の失政により、ジャマイカの政治、経済は混乱を極めることに。そんな状況も手伝ってか、ルーツ・レゲエの硬派なスタイルや、ラスタファリズムの意識が薄まって来ました。人々はもっと気軽に音楽に触れたくなった。楽しみたくなった。まさしく時代もダンスホール・レゲエの味方だったのです。

そんなダンスホール・レゲエの主役こそがディージェイ。それもプロデューサーが送り出していたこれまでのディージェイではなく、普通の若者、ストリートから生まれたディージェイたち。金が無くてもマイク一つで何とでもなる。サウンドシステムに飛び入りで参加する新しい世代。そしてその場でお客さんが評価する。カッコいいディージェイなのか、カッコ悪いディージェイなのか。なんともリアルで健全なシーンが形成されたんですね。さらにダンスホール・レゲエの特色と言えば歌詞。ルーツ・レゲエよりも身近で、馴染みの深いリリックを彼らはテーマにしました。それもセクシーでエッチな下ネタ系…スラックネスと呼ばれるものです。これまでのスカやロックステディ、そしてもちろんルーツ・レゲエでも男女間のラヴソングは存在していましたが、それを80年代にアップデートさせたリリックは、大胆にも「男が女をお持ち帰りした後」がテーマ。やはりシーンでバカ受けし、男女問わず、ダンスホールは受け入れられたのです。

では、元祖下ネタ・ディージェイをご紹介。スラックネス満載のジェネラル・エコー(General Echo)です。まだまだ、ダンスホール・レゲエ爆発前夜でしたが、彼なくしてその夜は明けなかったことでしょう。アルバム・タイトルはズバリ『The Slackest LP』、さらに曲のタイトルはスバリズバリの「Bathroom Sex」!!

さらに軽快なトースティングでユーモアも抜群のローン・レンジャー(Lone Ranger)や、シングジェイ(歌とディージェイを混ぜたスタイル)を生み出したイーク・ア・マウス(Eek A Mouse)ことリプトン・ジョセフ・ヒルトン(Ripton Joseph Hilton)などが続き、遂にヒーローが登場します。彼の名は「イエローマン(Yellowman)」。

幼少時に孤児院で育ち、ジャマイカではホモセクシャルと同様に強い差別を受けているアルビノのディージェイ。しかしそれを逆手に取り、「これほどまでに魅力的な男が世の中にいるか?俺に濡れない女はいないぜ」と、スラックネスを前面に押し出しました。サウンドシステムでのパフォーマンスは「ラバダブ」と呼ばれる即興性に溢れ、強烈なリリックとフロウでシーンを圧倒。その名は全世界中に知れ渡り、イエローマンはダンスホール・シーン最大のスターとなるのです。そして、ボブ・マーリーの死後、あらたなスターを探していた大手レコード会社は、イエローマンに触手を伸ばし、大メジャーCBSと契約。ダンスホール自体も一気に世界へ名を轟かせるのですが、皮肉にもルーツ・レゲエ同様、ダンスホールが島から羽ばたくきっかけになりました。

その後イエローマンは、RUN-D.M.C.と共作したり、グラミー賞ベスト・レゲエ・レコーディング部門にノミネートされたりと活躍。そしてブロ・バントン(Burro Banton)、トーヤン(Toyan)といったディージェイや、すでに人気のあったシンガーのシュガー・マイノット(Sugar Minott)、グレゴリー・アイザックス(Gregory Isaacs)、デニス・ブラウン(Dennis Brown)などもダンスホールに接近し、シーンは一気にダンスホールに移行するのです。

ただ、ダンスホールの人気が上がれば上がるほど、マイナス面も現れ始めます。まずは質の低下。基本マイク一本持っていればディージェイは成り立つ。サウンドシステムでは、鳴っている音に合わせてトースティングすればいい。オリジナル・トラックの制作はどんどん減っていきます。更にいえば、リズムに乗りさえすればいいので、何度も同じリズム・トラックが流用されたんですね。一個のリズムに対して、何十個ものヴァージョンが出る感じ。テクノロジーの進化と、ミュージシャンの進化は比例していなかったのです。

更に国内情勢もダンスホールに影響を与えました。長引く政治と経済混乱から生まれたジャマイカのギャングスタ集団は、ドラッグをビジネスとして成り立たせ、それらをゲットーに普及させました。特にコカインは安価であったため、ダンスホールにたまる若い層にも簡単に届いてしまったのです。それ以降、ダンスホール・シーンとギャングスタとの関係性は、切っても切れない関係性になっていったのでした。

そして1985年、更なる事件が起こります。また歴史が動くのです。スレンテンの登場。

キング・タビー(King Tubby)の弟子であるキング・ジャミー(King Jammy)とウェイン・スミス(Wayne Smith)は、友達のノエル・デイヴィー(Noel Davey)が持ってきたカシオトーンMT-40を使い、あらかじめインプットされているドラムパターンを試して遊んでいましたが、その中にまだレゲエのビートは入っていませんでした。そこで様々なビートを遅くし、色々実験したところ、はい、素敵なビートが完成しちゃった。

そこにこれまでウェインが温めていたリリックを乗っけたんです。

♫ Under mi sleng teng, mi under mi sleng teng, Under mi sleng teng, mi under me hey hey ♫

大ヒット・ナンバー「Under Me Sleng Teng」が誕生。同時に新しいリディム(レゲエのリズムスタイル)である「スレンテン」も完成。ベースラインもなく、機材がつくったこの新しいビートは、サウンドシステムでも大ブレイクし、どこもかしこもスレンテン一色に。マイク一本に加えて、安価のキーボードだけでレゲエが出来ちゃうんですからね。そしてスレンテンに負けじと御大キング・タビーは「テンポ」を、ウィンストン・ライリー(Winston Riley)は「スタラグ」というリディムを発明。スーパー・キャット(Super Cat)やタイガー(Tiger)などのスターも生まれ、デジタル・リディム・メイカーのスティーリー&クリーヴィ(Steely & Clevie)は、リディム・トラックを大量生産し、ヒット曲を連発。デジタル化したダンスホール・シーンは、新たな時代を迎えたのです。

そして90年代、ダンスホール・レゲエは、ほぼ打ち込み中心の状態になると同時に、「レゲエ=ダンスホール」といっても過言ではないほど主流となります。高速ダンスホール・レゲエで、バッドネス色の強いラガも出て来ました。ニンジャマン(Ninjaman)、ブジュ・バントン(Buju Banton)、マッド・コブラ(Mad Cobra)、そしてシャバ・ランクス(Shabba Ranks)などは、アメリカの大メジャーと契約。特にシャバは、アルバム『As Raw As Ever(邦題:生でやりたい)』でグラミー賞を受賞し、スーパースターとなりました。

同時にシーンでは、サウンドシステム周辺の治安が悪化し、警察の介入もあって、サウンドシステムそのものが減少するのですが、逆にダンスホールは、更にマーケット~ショウビズの世界へ。それを象徴する存在がブジュで、ラバダブの修行もなく、レコーディング・アーティストとして登場した彼は、間違いなく時代の流れを感じさせるものでした。

更に90年代中盤には、レディ・ソウ(Lady Saw)やダイアナ・キング(Diana King)といった女性アーティストも人気を博し、強烈なビーフも話題となったバウンティ・キラー(Bounty Killer)とビーニ・マン(Beenie Man)などがシーンを牽引しました。

一方で、ラスタファリ・ムーヴメントも再燃。特にダンスホールとラスタ回帰を融合させたガーネット・シルク(Garnett Silk)の登場がデカかったのですが、残念ながら94年に28歳の若さで永眠。しかし、彼の影響を受け、問題児だったブジュ・バントンでさえもラスタに改宗。そしてルチアーノ(Luciano)、ケイプルトン(Capleton)、シズラ(Sizzla)なども活躍することで、ダンスホール・レゲエは、ラスタとスラックネス~バッドネスの二極化が進むようになります。

そして2000年代。ショーン・ポール(Sean Paul)、エレファント・マン(Elephant Man)、ミスター・ヴェガス(Mr. Vegas)などが世界のVIPとして活躍するなか、バウンティ・キラー率いるスケアデムやアライアンスといったクルーが結成されました。更にギャングスタでありながらラスタでもある「ギャングスタ・ラス」のマヴァド(Mavado)、ムンガ(Munga)から、ゴシック・ダンスホールことトミー・リー・スパルタ(Tommy Lee Sparta)、シングジェイのポップコーン(Popcaan)、服役中のVybz Kartel(ヴァイブス・カーテル)、ヒットメイカーのアイ・オクターン(I-Octane)、ディー・ジェイのキャラド(Kalad)とアルカライン(Alkaline)、そして女性からはサマンサJ(Samantha J)、Tifa(ティファ)、スパイス(Spice)、ガザ・スリム(Gaza Slim)などスターが続々登場し、まだまだその勢いは止まりそうにありません。

また、音楽的な観点からは、各国の他ジャンル・アーティストが積極的にダンスホールのエッセンスを取り入れて来ており、リアーナ(Rihanna)、カニエ・ウェスト(Kanye West)、エイサップ・ロッキー(A$AP Rocky)&エイサップ・ファーグ(A$AP Ferg)、ドレイク(Drake)、フレンチ・モンタナ (French Montana)、そしてマドンナなどのセレブたちもダンスホールにゾッコンLOVE状態。「架空のジャマイカ特殊部隊員」として知られるディプロ(Diplo)のMAJOR LAZERによる功績や、EDMとの大接近も間違いなくデカかった。この全世界ダンスホール化現象は更に広がりそうですね。

そしてもちろん我が国も。MIGHTY CROWNが「横浜レゲエ祭」をスタートさせてから20年。海外の動きと呼応するように築かれたシーンは、「ジャパニーズレゲエ」、「J-レゲエ」、「ジャパレゲ」なんて言葉も生まれるほど、オリジナリティ溢れるシーンに進化しました。そのド真ん中こそが、やはりダンスホール・レゲエ。RYO the SKYWALKER、MIGHTY JAM ROCK、FIREBALL、Dizzle、BIG BEAR、lecca、PETER MAN、RED SPIDER、TRIGA FINGA、卍LINE、RAM HEAD、羅王、MAD KOHなどなど、刺激ビンビンの人たちが熱くしております。また、賛否両論ありますが、J−POPとの好相性もシーンを確実に活気付けたのでした。

最後に。やはり忘れてならないのがダンサーさんの存在。『Shall We Dancehall』に登場していただいた日本のダンサーさんたちもおっしゃっていましたが、現在のこのシーンにおいて、ダンサーは本当に欠かせない存在であり、ダンスだけでなく、ディージェイやプロデュースの世界にも足を踏み入れ始めているそうです。レゲエダンスを語る上で欠かせない、ジャマイカ伝説のダンサー、ボーグル(Bogle)の心は、きっちりと現在に受け継がれているんですね。

ダンスホール・レゲエが誕生して30年。しかし、当初のパンク精神とは離れ、その道は、ルーツ・レゲエと同じ、もしくはそれ以上の場所まで到達してしまいました。しかし、同じようにゲットーで育ったダンサーたちは、身体ひとつでシーンに挑戦し続けています。そう、ダンスホール・レゲエの新時代は、またもやダンスホールの中から生まれるのかもしれませんね。