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NYHC~THRASH~CROSSOVERの祖 LEEWAYの歴史満載インタビュー

「それまで俺はVAN HALENのファンだったんだ。アリーナじゃ、客と話なんか出来っこない。でもBAD BRAINSは、俺たちの手の届くところにいた。とんでもなくクールだったよ」

結成は1984年。これまたニューヨーク・ハードコア・シーンを語るとき、ダメ。ゼッタイ。欠かせないバンドのLEEWAY。80年代後半から、ニューヨーク出身の多くのバンドが、自分たちのスタイルとヘヴィー・メタルを融合させていましたが、彼らこそがそのオリジネイターで代表的存在。メタルの精巧さとダイナミックなあんばいに、当時のニューヨークが放っていたストリート感溢れるハードコア魂を見事に合体。彼らは本当に唯一無比なカリスマ的存在だったのです。ただ、その灰汁の強さから、賛否両論あったのも事実。ハードコア・バンドなのか?メタル・バンドなのか?はたまた、スラッシュ・バンドなのか?長髪もいるぞ!スポーツ・ウェア着てるぞ!ラップっぽくねぇ??そのクロスオヴァーっぷりに当時のシーンは喧々諤々。ま、これこそがLEEWAY。彼らのスタイルは、その後のシーンにとんでもなく大きな影響を与えたのです。そのヴォーカリストだったEddie Suttonによるインタビューがこちら。しっかと真摯に答えてくれました。やはり色々あったんですねぇ~。人生はとても長し!

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どんな経緯でハードコアの世界に入っていったのですか。

14歳の頃、出身地であるクイーンズのアストリアに戻ってきたんだ。その前は、サフォークのロングアイランドに6~7年間住んでいた。クイーンズに戻ったのは、ジョン・レノンが銃撃された日だったね。良く覚えているよ。俺はリビングルームで寝転んでいたんだけど、まずジョン・レノンが銃撃されたというニュースが入った。その5分後に彼が亡くなったって速報があったよ。本当に衝撃的だったね。

アイランドは田舎だったからね。アストリアでの生活は、まるでジャングルに放り込まれた気分だった。でも、すぐにErnie Parada(GILLIGAN’S REVENGE、TOKEN ENTRY、 BLACK TRAIN JACK)と友達になってね、ハードコアを教えてもらったんだ。そしてKRAUTのJohnny Feedback、Davey Gunner、Doug Hollandと出会ったんだ。

83年頃から、A7に通い始めた。オールナイトでライヴを楽しんでいたね。その頃のロウアー・イースト・サイドは物騒な地域だった。現在のような高級住宅地域じゃなかったからね。18歳の俺は、そんな危険な場所でたむろしていることを誇らしく思っていた。だって、ほとんどの人が一生見ることないような世界にいたんだから。

でも俺は、他のヤツらよりまともだった。確かに、夜更かしして朝まで家に帰らないようなティーンエージャーだったけど、20代になるまで犯罪を犯したことはなかったからね。残念ながら、今では並の悪党よりも重い犯罪歴を抱えているんだけど…。

ニューヨーク・ハードコア・シーンで、衝撃を受けたバンドは。

間違いなくBAD BRAINSだ。初めて観たライヴで、Dr. Knowはステージから客に話しかけていた。すごくショックだったんだ。それまで俺はVAN HALENのファンだったんだ。アリーナじゃ、客と話なんか出来っこない。でもBAD BRAINSは、俺たちの手の届くところにいた。とんでもなくクールだったよ。だから俺もキッズに話しかけるし、LEEWAYもそうしてきた。BAD BRAINSを見て、「俺にもバンドが出来る。俺もシーンの一部になれる」って気付いたんだ。

俺にとってのハードコアは、全力を出す、ってこと。100%達成するってことさ。俺は、ロック、メタル、R&Bを聴いて育った。もちろんラップにも影響を受けた。まだヒップホップと呼ばれる前の話だ。ハードコアを演る前、俺は地元のバーでGrandmaster Flashの真似をしてたんだ。ただでビールが飲めたからね。それが観客の前でやる初めてのライヴだった。でもさ、A7にGILLIGAN’S REVENGEのライヴで、連中と一緒に歌ったんだ。BLACK SABBATHの「Paranoid」だった。

その体験がLEEWAYに繋がったのですか?

そうかもね。LEEWAYのギタリストA.J. Novelloは、ずっと前から知り合いだった。ドラムのSaso Motroni、カトリックスクールに通っていたベースのJose Ochoaにも出会った。バンド組んで、初ライブまで3週間しかなかったから、バンド名も決まっていなかった。とりあえず最初はTHE UNRULEDって名前だった。そのときの映像があったら笑えるのになぁ。とにかく酷かったハズだ。

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で、その次にJUGGERNAUTってバンド名にしたんだけど、最終的にLEEWAYになった。当時は、たくさんのメタルバンドが出てきていてね、ハードコアからも影響を受けてたし、その逆もあった。お互いおいしいところを摘んでいたんだ。で、バンド名なんだけど、おっかない名前にはしたくなかったんだ。ANTHRAXなんて生物兵器だぜ。かなり狂った名前だ。俺たちは現実的になろうって思ってた。ポリティカルな名前にもしたくなかった。バンド名で、悪いとか怖いとか思われたくなかったんだ。だから行動の自由を表す「LEEWAY」をバンド名にした。それは、思春期の人間だけじゃなく、当時のパンクやハードコアのシーンにとっても意味のある言葉だったんだ。

Photo: Ken Salerno

LEEWAYの初ライヴは?

クイーンズのコヴェントリーだったな。そこはKISSが初めてのライヴをやった場所でもある。俺はちょうど初期KISSについての「Nothing to Lose」っていう本を読み終えたところだった。だから73年、74年の頃の彼らが精力的に活動し始めたときのことを思い出したね。そのときニューヨークには、NEW YORK DOLLSやHARLOTS OF 42ND STREETが活動していた。彼らの雰囲気は、80年代のバンドと共通していたね。全力でやりたいことをやるっていう感じ。

LEEWAYは、いつ頃からポピュラーな存在になったのですか?

CBGBで初めてやったときに、何かが起こり始めた気がする。更にCBGB で5、6回やった頃かな、CORROSION OF CONFORMITYの前座をしたんだ。そのときにCRO-MAGSのプロデュースもやってたChris Williamsonが俺たちを気に入ってね。86年6月にロックホテルのライヴに出演させてくれたんだ。

やはりLEEWAYの特筆すべき点は、ニューヨーク・ハードコアにメタルをもたらしたという部分だと思います。

そうだね、84~85年頃、その手のバンドはそれほど多くなかった。でも俺たちは、ストリートな雰囲気や、ハードコア、パンクのスタイルだけでなく、もっとヘヴィーなドラムとヘヴィーなギターを求めていたんだ。コカインをやったり、ビッチとセックスをするといった歌詞以上の何かを生みたかった。

84年にMETALLICAのアルバム『Kill ‘Em All』が発売された。俺たちは、このバンドがクイーンズ・ジャマイカ地区のスタジオの屋上に住んでいることを知らなかった。知っていたのは、そのレコードが発売されたとき、ハードコアだろうが、メタルだろうが、バンドをやっている誰もが、「これこそが俺たちが欲しかった凄いリフだ!」と思ったことだ。誰もがその発明を羨ましいと思ったんだ。ニューヨークでこんな音を出すバンドはいなかった。そしてCRO-MAGSは、85年、86年頃にMOTÖRHEADみたいな音を出し始めた。でもLEEWAYに関しては、まだまだボンボンで、俺たちを新入りとみなしていたね。特に俺は当時のラップの影響を大きく受けていたから、スポーツウェアの服を着て、B-Boyのような格好をしていたんだ。

しかしAGNOSTIC FRONTのStigmaとRogerは、俺たちを気に入ってくれた。そして彼らは、CARNIVOREのPeter Steeleを招いて、セカンド・アルバム『Cause for Alarm』を発表した。自慢するわけじゃないけど、このアルバムは確実にLEEWAYからの影響を大きく受けている。誰もがメタルに接近する何かをLEEWAYは提供していたんだ。でも影響力のあるバンドだと言われるのは、とても嬉しいけれど、すべてはそういうタイミングだったとも思っている。音楽的に勝っていたとは、これっぽっちも思っていなかったよ。

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当時のCRO-MAGSはどんな存在でしたか?

CRO-MAGSは、ニューヨーク・シーンを遥かに超えるレベルを目指していた。連中はメタル界でとんでもないグループになる要素を持っていたんだ。ベーシストのHarley Flanaganは、MOTÖRHEADのLemmyの継承者みたいだったし、John Josephが持ち込んだクリシュナの影響は、ニューヨークに独特なエッセンスをもたらした。

連中は、ニューヨークいちのプロモーター、プロデューサーで、いつも金のことばかり考えていたChris Williamsonとツルんでいた。CRO-MAGSには個性的なメンバーが揃っている。Chrisと一緒に行動するのは端から見てても無理だったんだ。バンド・メンバーは若過ぎたしね。Chrisは、Johnをコントロールできない、って気付いて、ヤツをクビにする方法を考えてたんだ。それが引き金になって、火薬の箱は爆発し始めた。どんどん悪い方向に進んでいったんだ。

そのChris WilliamsonプロデュースによるLEEWAYのファースト・アルバム『Born to Expire』について聞かせください。PROFILE RECORDSからのリリースでしたね。

あの頃は、既にSasoは脱退して、Mackieが加入していた。バンドの音はさらに良くなっていたよ。俺たちを陰で支えるようなスタイルだったからね。でもヤツはCRO-MAGSに移ってしまった。だから俺たちはブラジル人のTony Fontãoというメンバーをレコーディングに参加させた。彼はメタルの長髪でね、アメリカで腕を磨いて、ツェッペリンのJohn Bonhamみたいになりたがっていた。Led Zeppelinの「永遠の詩」をよく叩いてたよ。ラッキーなことに、彼は素晴らしい仕事をしてくれたんだけど、残念ながら、セックス、ドラッグ、ロックンロールを地でいくようなアニマルだった。スタジアム・ロックバンドでドラムを叩きたかったんだろう。だからLEEWAYがどんなバンドなのか理解していなかった。それで、レコーディング後に、Pokeyが加入した。ヤツはクイーンズ生まれだから、気が合ったね。

レコーディングは、87年の11月。ロードアイランドのウォーレンにある「ノルマンディ」っていうスタジオ。俺たちが使ってから、みんなが使うようになった。そこには、50万ドルのミキサーがあった。寝泊りも出来たし、作業スペースもあった。閑静な小さな街で、くだらないことに巻き込まれることもない。集中して仕上げるには素晴らしい場所だったんだ。良い環境と、良いスタジオを手に入れて、ニューヨークでトップクラスのアルバムを創れたんだ。

AGNOSTIC FRONTなんかをリリースしていたCOMBAT RECORDSが、アルバム一枚にかける予算より、『Born to Expire』は遥かに高い予算をかけてたんだ。おそらく三倍の予算はあったハズだ。COMBATの作品も悪くないけど、俺たちのレコードは圧倒的にレベルの高いものだった。だから俺たちは、その後も長続きしたんだろう。

しかし、『Born to Expire』がリリースされるまでとても時間がかかりました。マスターが紛失した、という噂もありますが、実際はどうだったのですか。

『Born to Expire』が完成してから間もなく、PROFILE RECORDSがChris Williamsonをクビにしたんだ。PROFILEはヤツを追い出し、完全にゲームを乗っ取った。だけどPROFILEは、俺たちをリリースするなんてことを知らなかった。

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さらに、ベースのZowieがCIRCUS OF POWERに加入するために、辞めたんだ。レコードをリリースするためには、ヤツに楽曲の権利を放棄する署名をしてもらわなきゃならなかった。それにはすごく時間がかかった。ヤツがやっと署名したあと、PROFILEはようやくリリースの準備を始めたんだ。

Chris Williamsonについては、たくさんの噂を聞いています。それも大体良くないものばかり。当時の彼とのいざこざとは、どんなものだったのでしょうか。

ヤツはどうしようもないクソで、間違いなくシーンの純粋な気持ちを悪用してた。でもヤツが動かなかったら、多くのバンドの歴史が始まらなかったはずだ。CRO-MAGSは、MOTÖRHEADとツアーなんて出来なかっただろう。LEEWAYも、長いツアーをやらないBAD BRAINSと、12週間もツアーするバンドになれなかっただろう。俺たちは、彼らとヨーロッパツアーにも行ったんだ。それが無かったら、LEEWAYはそんなに認知されていなかっただろう。

ただ、レコーディング予算、ツアーの稼ぎに十分注意を払ってこなかったのは、俺たちの責任だ。Chrisは、BAD BRAINSとのツアーのために自腹を切った。ヤツは、使った金のことを秘密にしていたけど、俺にいわせりゃ、ヤツは頑張って生計を立てていたんだ。俺は早い時期からヤツに怒り、悩み、大嫌いになった。でも、齢をとった今だからこそ、ヤツは自分の仕事をしていたんだ、ってことがわかる。いまでも多くの人間がヤツの悪口を言い続けているけど、もう知らない人間も多い。だからもう、悪口はいらない。

ChrisがCRO-MAGSの分裂を煽ったかもしれませんが、LEEWAYに関してはどうですか。

確かにそういう噂もあるし、他にそう噂されるバンドも多い。だけどバンドは個人の集まりだから、見解が一致しないのはしようがない。それで分裂とか解散はするもんだ。バンド内が統一しない時点で、様々なものが失われてしまうんだからね。ニューヨーク・シーンはもっとレベルアップするハズだった。シアトルに対抗出来るハズだった。でもニューヨークのバンドは、ほんの少しだけストリート色が強かったのかもしれない。元々ほとんどが貧困家庭の出身のキッズで、両親と離れて生活し、食事も満足に取れなかったようなヤツらが、バンドでチヤホヤされたら調子に乗るのは当たり前だ。そんなことにどう対応すればいいのかわからなかったんだ。

LEEWAYが人気バンドになると、みんなは俺をロックスター扱いした。でも俺は「ロックスターっていうのは、5桁の小切手を手に入れたときだ。その小切手を見せたときに初めて、ロックスターって呼んでくれ」と注意したんだ。人気バンドだったけど、生計を立てるために仕事をしなきゃならなかった。そんな俺がいったいどうしてロックスターなんだ。

では、あなたとLEEWAYは90年代をどう過ごしたのですか?

ニューヨーク最大のクラブでバーテンダーをしてたから、金には困らなかった。セックスもたくさんしたし、しょっちゅうパーティーもしてた。ま、どうしようもない話だけど、他のバンドは俺よりも多くの女と遊んでいたな。俺はそんなにハマってなかったけど、好みの女に夢中になったこともあった。青春時代ってそんなもんなのかな。遊んでた時代さ。シリアルばっかり食って大きくなる子供のようなもんだよ。でも、俺はやり過ぎた。自分が何をしているのかわからなかった。独房に入るまで気付かなかったんだ。さらにちゃんと生活するまで5年もかかったんだ。

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俺の不安定さとドラッグ問題に悪影響を与えたのは、MTVなんかに出ているバンドを見て、俺もヤツらと同じなのかもしれない、って勘違いしたことが原因だと思っている。俺はロックスターになりたかったわけでも、金持ちになりたかったわけでもない。でもバンドは盛り上げたかった。MTVのバンドがどんどん有名になり、ヤツらがインチキなロングヘアーを振り乱してるのを見て、俺はどんどん憂鬱になったんだ。

ヤク中にならずに済んだのは幸運だった。俺は今、そのボランティアに興味がある。俺はカウンセラーになってみたい。ずっと音楽を創っていたいけど、もちろんそんな風にはいかない。40年以上もの長い間、ずっと子供のままだった。今もなんとか暮らしているけど、そろそろ動き出さなくてはならない。だから学校に戻ろうかと思っているんだ。

俺はこの惑星に一人ぼっちじゃなく、たくさんの人に囲まれていることを感謝している。49歳で子供のままでいるのは、簡単だ。でも俺は、ラッキーなことに成長している。自分のことを整理している。ゆっくりと落ち着いた生活を送りながら、自分自身を軌道に乗せたいんだ。

ニューヨーク・ハードコア・シーンの一部になれて光栄だ。ここニューヨークから生まれた音楽スタイルが、今も世界の隅々にまで浸透していのにとにかく驚いている。Facebookで、マレーシアやその他の国々のキッズたちからメッセージを貰うんだ。すごいことだよ。

今でもたくさんの人々がニューヨーク・ハードコアに興味を持っているのは、どうしてでしょうか。

南カリフォルニアのバンドはクラシック・パンク、オールド・パンクだった。連中は、ニューヨークのバンドみたいに、ピーナッツ・バター・カップ・ケーキみたいな音楽はやらなかった。彼らはピーナッツ・バターサンドを食べてメタルをやるか、チョコレートを食べてパンクをやるか、どっちかだったんだ。誰もその2つを混ぜようとはしなかった。確かに初めはそんな音楽、ニューヨークでも嫌われていた。でも、今では誰もが俺たちのサウンドをやっているんだ。