2016年3月22日、A Tribe Called Quest (以下、ATCQ)のファイフ・ドーグ(Phife Dawg)がこの世を去った。享年45歳。1990年代、ATCQ、De La Soul、Jungle Brothers、Black Sheep、Queen Latifah、その他大勢からなる「ネイティブ・タン(Native Tongue)」の活躍によって、HIPHOPシーンのみならず音楽シーン全体が激変した。なかでもATCQの果たした役割は、いまさら記すまでもなく大きかった。そんなATCQのファイフ・ドーグは、1990年代が幕を開けた1990年をどう過ごしていたのだろう。2015年、生前のファイフが当時を振り返った貴重なインタビューを紹介したい。
1990年には何をしていましたか?19歳、いや20歳になった年だ。その頃はまだ祖母の家に住んで、まっとうな仕事に就かず、アホみたいにストリートで遊びまわってた(笑)。ファースト・アルバムにも全面的には関わっていない。参加したのは15曲中4曲だけ。歌詞は全部Q-Tip。スタジオにもあまりいなかった。ATCQはQ-Tipとアリがメインだった。ジャロビとはよくつるんでいたけど、調理の専門学校に通う、ってやめちゃったんだ。俺たちはクルーだったけれど、正式に契約をしていなかったんだ。『The Low End Theory』の制作まで、俺はATCQの正規のメンバーじゃなかった。
ジャネット・ジャクソンの大ファンだった。シネイド・オコナーも好きだった。当時はジャンルを問わず音楽全般にとって良い時代だった。俺たちはヒップホップだったけど、それにこだわっていたわけじゃない。特にジャロビは何でもありだった。俺たちはあの「Walk Like An Egyptian」を歌いながら歩き回っていた(笑)。『Ice Ice Baby』と『U Can’t Touch This』も1990年に発売です。ああいう感じのヒップホップについては?ノーコメント。ハマーのビデオを観るのは、レオタード姿の女の子を眺めるためだった。何が言いたいかわかるだろ?もちろんATCQが、ああいうのとは一線を画すものをつくろうとしていたのはわかっています。ポップカルチャーが当時、ヒップホップあるいはラップとして受け入れていたヒット曲に対して異を唱えるような曲を、意識的に創ろうとしていましたよね?よくもまあ、そこまで想像力がはたらくね。俺たちはやりたいことをやっていただけだよ。ハマーは自然体でエネルギーに満ちていた。それが彼だった。俺たちも同じ。
『People’s Instinctive Travels』の発売から約5か月後に『Momma Said Knock You Out』をリリースしたLL Cool Jと、彼の当時の活動についてはどう思いますか?LL Cool Jはレジェンドだ。彼の90年代の活躍はすばらしかった。俳優として成功した今も、気が向いたら最高にクールなMCとして活動している。LLとは出身地が同じで、彼がラップをやっていた頃から知っている。俺は彼の音楽を聴いて育ったんだ。いつか成功するのはわかってたけど、これほどビッグになるとはね。レーベルからいっ般受けする方向に進むのを求められていると感じませんでしたか?あんまりない。ジャイヴ・レコードは、俺たちが独自の路線を進んでいるのを理解してくれていたハズだ。とにかく自由にさせてくれた。シングル『…El Segundo』で、「聴いてくれ。これがATCQなんだ」と訴えられて、その後は好きにさせてもらえるようになった。一般受けする方向に進むように背中を押された覚えは1度もない。ATCQは示唆に富んだヒップホップの伝統を受け継ぐグループとして知られています。グループに関する記事には大抵「アフロセントリック(アフリカ中心主義)」という言葉が使われていました。そのような文化に関連する言及は、あなたにとって重要だったんですか? それとも、ただ単にラップしたかっただけなんですか?ある程度は重要だったことにしておこう。母親には、極めてアフロセントリックに育てられたからね。アフロセントリックな家庭で育ち、クワンザ(Kwanzaa)とか、アフリカゆかりの行事を祝っていた。Q-Tipほど深入りはしてないけれど、特定の物事に順応する方法は身に着けてた。おっしゃるとおり、俺はただラップをやりたかっただけだ。ラップに熱中していた。何を着ているとか、何を着る必要があるとか、何を着たいとか、服装にはあまり興味がなかった。さっき服装について聞かれたけど、ダシキ(dashiki, アフリカの民族衣装)はほとんど着たことがない。たとえ似合ったとしても、ヴィヴィッドな色合いは好きじゃなかった。店に入ってATCQのレコードが陳列されているのを初めて見た時の感慨は憶えていますか?
ほかにはどんなアルバムが並んでいたんですか?EPMDの『Strictly Business』、ビッグ・ダディ・ケインのファーストアルバム『Long Live The Kane』、ビズ・マーキーの『Goin’ Off』、ブギ・ダウン・プロダクションズの『Criminal Minded』と『By All Means Necessary』。すべてお気に入りのグループとMCのアルバムで、そんなもんと一緒に俺たちの作品が並んでるなんてかなりすごいことだった。そのレコード店の名前を教えて下さい?「The Music Factory off Jamaica Avenue」っていう店だ。ダ・ビートマイナーズ(Da Beatminerz)のミスター・ウォルトがそこで働いていたんだ。DJイーヴィル・ディーの兄貴で、2人ともプロデューサーで、ブラック・ムーンとか ヘルター・スケルターのレコード、ブート・キャンプ・クリックの全てをプロデュースしてる。俺はレコードショップで、ミスター・ウォルトとつるんでたんだ。そこで1日中レコードを聴いていたんですか?うん、正式にATCQのメンバーになる前はそこで働こうとしてた。ただひたすら、音楽に囲まれて過ごしたかったんだ。
ATCQが本格的に活動を始めた時、若者の代弁者であろうとしていましたか? ユース・カルチャーとの関連性を教えてください。もちろん、若者と、耳を傾けてくれる連中の代弁者になろうとしてた。ATCQだけがそうだったんじゃない。ヒップホップ界のみんなにとって、音楽は、若者が発する社会改革のメッセージなんだ。『Can I Kick It』の歌詞ではディンキンズ市長についてのリリックがありますね。でも、あなたのラップはQ-Tipほどヘビーではありません。政治家についてのリリックを入れた理由を教えてください。ニューヨーク市初の黒人市長の誕生は、あなたにとってそんなに重要だったんですか?そりゃそうだよ。彼はニューヨーク州の代表になった。オバマが大統領になったのと同じくらい大きな出来事だ。黒人が市長になるなんてめったにない。黒人市長は、アトランタのアンドリュー・ヤング、シカゴのハロルド・ワシントン、デトロイトのクワメ・キルパトリックとデイブ・ビンなんかがいるけど、その数は少ない。黒人が市長に選ばれるなんて滅多にない。だからディンキンズ市長の誕生は重要だったんだ。大人になってから思い出せる、ディンキンズ以前のニューヨーク市長はコッチしかいないけどね。あなたにとって、コッチは遠い存在でしたか?まさにそのとおりさ。ディンキンズの次はジュリアーニ。再び黒人の市長が選出されて嬉しかった。ニューヨークにいた黒人の若者は、当時どんな問題を抱えていましたか?最近、警察とのいざこざが大きく報道されているけど、それは今に始まったことじゃない。警察の横暴さは昔から変わっていない。俺たちがいい車に乗っていたら追跡されて停車させられるのがオチだ。何も変わっていない。それどころか悪化している。悪化しているんだか、わかりやすくなったんだか。